その一 高校一年始業式(7)
繊切の音色 その一 始業式当日(7)
合唱といえば欠かせないもの、ピアノ伴奏。上総もすぐに白と黒の鍵盤を思い浮かべた。
「もしかして伴奏者選考で揉めてるということか?」
声を潜める必要はないけれど、ついささやいてしまう。電話の向こうでも同じひそひそ声が聞こえる。うまく拾えてはいる。
──鋭いね。全くもってその通り。まあね、どのクラスにも何人かはピアノ習っている子いるじゃん? D組だってピアノ弾く子は決まってたし、課題曲と自由曲手分けして担当すればよかったし、らくちんだったよねえ。ぶらぶらよねえ。
こずえの言う通りだった。中学時代は二年の時しか合唱コンクールに参加できない決まりもあり、伴奏者を選ぶのは一度ですんだ。女子の中で毎週レッスンに通っている生徒をふたり選び出し一ヶ月程度でものにしてもらえればいいだけのこと。もちろん演奏する側としたらいろいろ準備も大変だったと思うけれども、結果としては特に何かトラブルもなくて無事終わったような気がする。
「あまりよくわからないんだけど、うちのクラスにはピアノ弾ける人がいないのかな。それあまり考えにくいんだけど」
──いるよ。いるいる。いっぱいいるよ。
「それ、男子、女子、どっち」
──女子にふたりは確実にいるよ。
「それならあとはそれで割り振ればいいんじゃないかな」
──だからそれで決まればこんな夜にあんたに電話かけてよこすわけないじゃん。ったくそんな早くフィニッシュしちゃったら彼女満足させられないよ。
「そっちの話はいいから、先を続けて」
こずえの下ネタを交わしつつも、上総なりにすばやく記憶を手繰っていた。合唱コンクールの存在自体あまり意識したことはなかったけれども、ピアノ伴奏者がいないことにはどうしようもないというのも事実である。テープで流して歌うなんて情けないこと許されるわけがない。全くピアノに関係する奴がいないのであればこずえの苦労もわからなくはないが、ちゃんとふたりいるのだからさほど悩む必要もないのではないだろうか。でもそれだと、確かに上総の元へ電話をいきなり入れて相談持ち込むわけがない。
──うちのクラスさ、ピアノ弾ける子がふたりいるって言ったじゃん。中学の頃は別々のクラスだったから二年の時にそれぞれ伴奏も担当したらしいんだよね。
だるそうな口調でこずえが語り出す。
「それ、誰」
──宇津木野さんと疋田さん。私も前々からふたりがすっごいピアノ上手だってことは聞いてたし、任せておけばいいよねって思ってたんだよ。
「任せられないって理由あるのか? ないだろ別に」
──あるんだわそれが。話飛ぶけど、あのさ立村、十月の学校祭にピアノ弾ける子たち集めて発表会やるって話、聞いてる?
初耳だった。野に降りた上総には未知の話ばかりだ。
「そんなの聞いたことないな」
──今年から行うことになったらしくって、裏では面倒なやり取りがいろいろあるらしいんだけど、要するにある程度腕のあるピアノの弾き手さんたちを集めて学内の演奏会形式でみんなに聴いてもらいましょうよ、ってイベントなのよ。
「それはそれで聴きたい気するけどさ、それと合唱コンクールとどうつながる?」
上総も決して音楽は嫌いではない。いわゆる歌謡曲はあまり聴かないけれども、歌の入らない穏やかなイージーリスニングミュージックやシンセサイザーメインのテクノ楽曲などはよくFMラジオでエアチェックしたりする。そのためにラジカセもタイマー予約できるものをお年玉で購入したりした。その他母の命令でクラシック音楽もBGMで毎日聴かされた。名曲というよりも空気のような感覚なので、心震えるといった感動はないにせよ心地よいとは思う。さらに付け加えるならば最近は、杉本梨南の好みに合わせてワーグナー中心にオペラも聴くだけ聴くようにしている。オペラはストーリーがあるので楽曲がぴんとこなくてもいろいろ考えたり語ったりできるのが楽しい。杉本が語る内容をつかめればいいだけなのでそれ以上深彫りすることもない。
むしろ十月の学校祭でピアノ演奏会などあるのなら、杉本を口説き落として連れて行くこともいいのではないかとも思う。関崎と顔を合わせる可能性もあるのでそう簡単には行かないかもしれないがここは上総の説得力アップが必要になる。
──ちょっとー、立村、あんた何妄想してるのよ。
「してないよ、それで」
意識が別の方向に飛んでいたのを千里眼のこずえには見抜かれていたらしい。怖い姉さんだ。
──宇津木野さんと疋田さんのふたりは別に仲悪いわけじゃないよ。特別親友同士ってわけでもないけどさ。ただ、共通点があってさ、ふたりとも音楽関係の大学考えてるんだよね。
「音大か?」
さほど珍しいことでもなさそうだ。
──その辺はわかんないけど。小学校の先生や保母さんになるには必ず音楽の実技が必要になるしそのあたりかもしれないよ。どちらにしてもピアノを活かせる学部を目指してるわけよ。それで日々一生懸命練習しているんだけど、どうやらさ、あの子たちの先生同士でいろいろ難しい問題があるらしいのよね。
どこかで見たり聞いたりしたような光景が眼に浮かぶ。促した。
「先生同士の反目ってことか」
──そういうこと。その辺詳しいことはわからないけどさ。今のところ決まっているのはふたりとも十月の演奏会に出演決定しているってこと。今までふたりが並んで演奏をしたことなかったらしくってね、唯一の機会が二年の合唱コンクール伴奏だったんだよね。その時に、どうやら先生だち同士が妙にライバル意識燃やして面倒なことになっちゃったらしいってわけ。あの子にだけは負けるなとかなんとか発破かけたり、あの子より下手だったとかいろいろ言われたりって、相当なもんだったらしいよ。怖いねえ。
「おおよその想像はつくよ」
話の概要がつかめてきた。宇津木野さんと疋田さんという女子についてはクラスに存在する程度の認識しかなく顔を思い出すのも困難だが、このふたりの上にいる教師たちがライバル心を露にしているため、生徒たちとしても心労激しいことは上総にもたやすくイメージが湧く。
──あの子たちもね、その二年の時と同じような展開が待ち受けているのにうんざりしているわけよ。仲は悪くないし挨拶はするけれども、やっぱり、比べられたら意識するでしょが。それでも今まではクラスが別々だったし、合唱コンクールも中学二年の一回こっきりだったし、それはそれでよかったじゃない。それがさ、高校に入ってからだと三年間延々とライバル視され続けてしまうわけじゃん? もううんざりってことなのよね。
「でもさ、どちらにしても演奏会に出演する以上は比べられるのも避けられないんじゃないか?」
──それはもう、覚悟してるって。演奏会の目的が、えらい先生たちにも聞いてもらってどこの大学がお勧めかとか、こうしたほうがいいんじゃないかとかダメ出ししてもらうためのものらしいし、本人たちもそれは自分のためだし割り切ってる。けどさ、合唱コンクールの伴奏なんて本人たちのメリット全然ないじゃん!
「メリット、か?」
発想が飛びすぎてたまにこずえの言葉についていけなくなる。
──クラスのみんなからはそれなりに感謝されるだろうけど、いろいろコンクールとかイベントとかあるのに学校の行事だというだけでもう一曲弾かなくちゃいけなくなるってのはどういうことよって感じじゃん? 私も子どもの頃ちょこっとピアノ習ったことあるけど一曲仕上げるのってめちゃエネルギーいるよ。一年でやめちゃったけどね。それをあの子たち、ものすごい数練習しなくちゃいけないんだよ。一曲たって猫踏んじゃった程度のものじゃなくて、ほら、クラシックのショパンとかリストとかベートーベンとか。ものすごい長い曲を弾くわけだしね。
「わかるなそれ、俺も親にやたらと長い曲弾かされたから想像はつくよ」
──え? 立村、あんたなんて言った?
「だから、親に、弾かされたって」
なぜひっかかってくるのかがわからない。こずえがしつこく食いついてくる。
──立村、あんた、もしかしてさ、ピアノ弾けたり、する?
「まあ、それなりに。古川さんに話したことなかったっけ。俺が言いたいのはただ、宇津木野さんや疋田さんがたくさん曲を抱えて苦労するのは大変だろうなってこと」
──わかるよねえ。私が電話掛けてきた意味、やっとわかった?
「別の人探さないと厳しいってことは」
──そっか。じゃ、電話だけだとあれだしさ、とりあえず明日なんだけどあんた暇だって言ってたよね。
「うん、明日は大丈夫だけど」
こずえは突然、明るい声で上総に呼びかけてきた。
──美里と羽飛あたり声かけて、明日の放課後私ん家に来ない? 四人でこの件、もう少しじっくり話し合いたいんだけどねえ。あ、もちろんお色気サービスはなし。
「そんなもの期待してないけど、ふたりにも話したのか?」
少し意外だった。この話は英語科A組の問題だから他クラスの美里や羽飛は別のような気がする。こずえの立場からするとむしろ、
「藤沖とか、あと関崎とかには相談しないのか?」
思わず尋ねてしまった。
こずえの返事は少しあいまいだった。
──まあね、本当はそっち方面での相談になるんだけどね。今の段階では藤沖はともかくとして、関崎を巻き込むのだけはね、やめときたいってとこも、正直あるわ。
「規律委員だからか? でもそれ関係あるのか?」
──いや、別にいろいろ考えるとこあるのよね。まあ、元D組メンバーで一度私の人生相談に乗ってくれたって、撥当たらなくない?
「古川さんにはお世話になったからな。いいよ、俺が役立つなら」
やはり頼られると男子たるもの、そそりたつものは、確かにある。たとえそれが下ネタ女王の姉御さまとしても。