その十三 みずいろ(7)
ピアノの録音が一段落して少しクラスの話も情報確認したところでお暇することにした。こずえが上総と杉本を見送るべく一緒に降りてきて、
「あんたたち、一緒に途中まで帰るんでしょ」
水を向けるとすぐに手厳しく拒否された。
「私はひとりで帰らせていただきます」
「でも暗いし、あぶないよ」
日が落ちるのがここのところ一気に早くなっているのは確かだった。かなり薄暗い。上総ももちろん杉本を途中まで送って帰るつもりでいた。男子としての義務だと思う。
「いいえ、結構です。古川先輩、本日はお招きいただきありがとうございました」
丁寧すぎるほど深々と頭を下げ、杉本は背を向けた。上総が声をかける間もなく、全力疾走で走り去っていく。それを見送りつつ、ため息を吐く。こずえが見とがめた。
「あんたたち、ほんと、私いない間何があったのよ」
「たいしたことじゃない」
事実を伝えてもいいのだが、こずえの弟を侮辱することになるのも気がひける。あれだけ美味しいお菓子ともてなしを受けて、家族の悪口を言うのもちょっとなんだと思う。口を閉ざすしかなかった。
勘づいたのか、こずえは上総を促して歩き始め、あっさりと話を持ち出した。
「たぶん、うちの弟がぎゃあすかぴーすか騒いだのがあったんじゃないの」
「いやそれは」
「そうだよねえ。さっきもあいつにげんこつ一発喰らわせていたから今後は黙ると思うけど、こればかりは感性の問題だからねえ」
事情は把握しているのだろう。もう少し深い話もできそうでほっとする。
「あいつさ、別に音楽何か習ってるわけじゃあないんだけどね」
こずえは羽織っているジャンバーのポケットに手を突っ込んだ。
「聴くのはすんごく好きなのよ。ジャズとかクラシックとか。レコードもなけなしの小遣いで結構揃えてるしね。私があんたに貸したキーボードあるでしょ。あれはさ、弟のお下がり。私はほら、ピアノもやめちゃったしやる気なしなしだったからあいつのお下がりで十分満足なんだけど、音にこだわりがある奴はどんどんバージョンアップしてかないと落ち着かないんだって。やたらと高級なもん使ってるよ」
「古川さんが貸してくれたキーボードも相当いいものだと思うけどな」
「そうだけど、音にこだわるあいつにとってはおもちゃにしか感じられないんだって。よっくわからないけどね。そんなこともあって、あいつは自分が対して上手に弾けるわけじゃあないくせに、楽曲に対するこだわりだけは異常にあるの。自分の感性にぴたーっとこないとぶちぎれちゃうってか。まあそれで、なかなか面倒なんだけどね」
──わかるような気がするな。
言いたいことを飲み込み、頷くだけにした。こずえは続けた。
「今回あんたをひっぱりこんでピアノ練習やってもらおうかってのも、実はそこのところに理由があったわけよ。後出しジャンケンで申し訳ないんだけど」
「そこのところって、弟さんのことでか」
つながりが読めず、問い返した。かなり闇が濃く、こずえの表情も陰って読み取りにくい。
「あんまり面倒なこと言いたくないんだけど、うちの弟さ、今いろいろあってうちで勉強してるのよね。学校にあんまり行ってないってか。うちで一日中レコード聴いてるかゲームやってるかそれとも雑誌読んでるかなんだけど。世の中の接点、っての? それが全然ないわけ。こりゃまずいと思ってて、あいつの好きな音楽とかならちょこっと顔出したりするかなあとか思ってたわけよ」
「古川さん、ひとつ聞いていいかな」
かなり深刻な話に嘴挟むのは怖いがあえて言う。
「そんなに音楽好きだったら、俺のピアノの練習はかえってストレスが溜まったんじゃないか?」
杉本の歌声に匹敵するほど上総の演奏もそうとう凄まじいという自覚があるだけに。こずえは手と首を振った。
「大丈夫、あんたのピアノはまあ、耐えられたみたいよ。食事の時に、まあね、随分下手だとか言ってたけどあんなに切れるほどじゃなかったし。あんたがそれなりに上達しているのもわかってたみたいで、ずいぶんやるじゃないかとか褒めてたよ」
「複雑なほめ方だな」
あまりこずえの弟について詳しい話を聞くことはなかった。上総とそっくりだとか、手がかかるとか、せいぜいそのくらい。きっと上総と似たような面倒な性格なのかもしれないとは思っていたが、そのあたりの予測は当たっていたことになる。
「まあ、褒められたんだから少しは自信持ちなさいよ。身内だしかばうのもなんだけど、一応はあいつも社会的常識をわきまえてるし、うちの母さんもそうしつけてきているはずなのよ。腹がたっても部屋にこもるだけで人畜無害だからさ。けどね」
「今日だけは」
上総はこずえの横顔をみやった。
「そうなのよ、なんかが切れちゃったのよねえ」
大きなため息を吐いたこずえに、答えるすべもなかった。
──あの、俺の演奏ですら耐えられた古川さんの弟が、杉本の歌声にはがまんならなかったってことか。
こずえは立ち止まった。横断歩道前の街路樹だった。青みのある葉が数枚途上に落ちている。
「噂は聞いてたよ。杉本さんがいわゆる音痴だってことはさ。学内でも知らない人いないしね。あの子、二年の時にやる合唱コンクールでは絶対歌うなって言われてたのに無視したものだから受賞できなかったって結構恨まれたってことも聞いてたし」
「そんなことあったのか」
気づかなかった。こずえはさらに語り続けた。
「杉本さん自身はたぶん、自分が音痴だってこと気づいてないんだろうね」
「さっき、確実に気づいたと思う。俺もはっきり言ったし」
「あんた正気?」
目を見開き背中をどすんとやられる。
「あんたさ、面と向かって言ったわけ? お前音痴だから黙ってろって」
「伴奏に合わせて歌わせたのは俺の方だからそんなこと、言うわけないだろ」
「はあ? なんであんた、杉本さんの歌声知ってたくせに、なんで歌わせようとしたの」
「聴いたことなかったから」
「怖いものみたさってことかあ。ほんっと、あんた、馬鹿だね」
また今度は頭をどつかれる。こずえと歩いているとこれはよくあるパターンなので怒らないでおく。
「せめて嘘でもいいからお前の声は可愛いよとか言っとけばよかったのにねえ」
「そんな心にもないこと言ったらかえって傷つくだろ」
「男子は全く、女心をわかってないねえ」
またたらたら恋愛講釈に入ろうとするこずえを上総は遮った。そろそろ横断歩道をわたらねばならない。自転車でそろそろ勢いよく品山に向かって走らねばならない。
「俺個人の考えだけど、古川さんの弟さんがはっきり言ったのはよかったと思うんだ。杉本も自分とは利害関係のない人たちにもそう聞こえているってことを知るのは、必要だと思ってたし。機会があればそれも杉本に言うつもりだったから古川さんが気にする必要ないよ」
「でもねえ」
「俺みたいな立場の人間が言ったほうが、かえって傷は浅くすむと思う」
「あんたみたいな立場?」
それ以上は答えたくなかった。上総は再度、
「本当にピアノ稽古させてもらえて助かった。本番までには完璧に仕上げるから。ありがとう」
きっちりと礼を伝え、自転車のペダルを踏み始めた。こずえがどういう顔をしているかはあえて確認しないことにした。夕闇に感謝だ。
──俺が杉本にできることったら、そのくらいだから。




