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その十三 みずいろ(6)

「待たせちゃってごめんごめん。立村も思い切り練習できたんじゃないの? なんか飲み物のおかわり持ってくるからちょっと待っててよ」

 息を切らせて帰ってきたこずえも、上総と杉本とのどことなく息詰まる空気を読み取ったのかわざと明るくふるまいつつ居間を飛び出していった。

「立村先輩」

 思い切った風に杉本が口を切った。

「今のことは、古川先輩には内緒にしましょう」

「そのつもりだよ、最初から」

 上総が言わなくてもたぶん、弟がわめきたてる文句を聞かないわけがない。そろそろおいとまする時間にさしかかったようだし、楽譜を閉じて片付けることにした。杉本もそれからは何も言わなかった。


「あれ? もう帰っちゃうの?」

「そろそろ遅いし、杉本も受験勉強とかあるだろ」

 鈍感なのか、ふりをしているのか、こずえはぽかんとした顔で引きとめようとした。

「ちょっとお、待ってよ。せっかく私だってさあんたらふたりが寂しいだろうってことでダッシュで戻ってきたんだよ。それに、もうひとつ頼みたいこともあるしさ」

「なんだよそれ」

 まあまあ、とこずえは上総がしまいかけていた楽譜をひったくった。

「さっきね、練習してた女子チームと話してたんだけど、やっぱりそろそろ本番に近い形で練習したいよねってことになったんだわ。で、関崎の独唱も悪くないけど現実はそう甘くないってことで、そうよ、立村、あんたに二曲弾いてほしいわけよ」

「弾くって、いつ?」

 こずえはピアノの蓋を開き直し、楽譜を並べた。

「今。私も今からラジカセ持ってくるから、ここで録音させてほしいんだわ」

「俺が弾いたのを録音するのか?」

「そういうこと。一応あすも有志が集まって声合わせる予定らしくって、私もなんかわかんないけど参加することになっちゃった。立村、あんたはあす暇?」

「暇なわけないだろ。最後のレッスンに行ってくる」

「そっかそっか。そりゃしかたないよね。だったらしっかりしごかれてきなさい。とにかくあんたのピアノに合わせて歌う訓練をしたいのよね。テープはちゃんと用意してあるから、しっかり根性入れて弾きな」

 そこまで上総をどやしつけたあと、別人のような笑顔でもって杉本に話しかける。

「杉本さん、ごめんねえ。こいつの話し相手で疲れたかもしれないけど、いつものことだと思って諦めてよ。それと、もう一度だけあいつのど下手なピアノの音色に耐えてもらえると嬉しいなあ」

「私は構いません」

 短く杉本は告げた。


 ──しかたないよな。まあいいか。少しでも弾く機会があるのはありがたいし。

 もう一度ピアノに向かう。観客は二人のみ。こずえの用意したメロンスカッシュが三人分並んでいるが手を付ける気配もない。振り返りこずえに始めるタイミングをうなづいて伝えた。かちりと録音ボタンがおされた気配がある。五秒数えて、上総は「恋はみずいろ」のメロディーを奏でた。誰の声もなく、ただ静かな部屋のなかで。

 後ろのソファーでじっと身体をこわばらせているであろう杉本梨南の姿を背中で感じてみる。かすかな吐息すら聞こえてきそうな気配がする。ついさっきは空気をかき乱すような壮絶な歌の混じり合いで悲惨なできだったが、誰も何も邪魔をしないのであればほら、こんなにすんなりと弾くことができるわけだ。

 ──問題は、これからどうやってクラスの歌声に合わせてくかってことだけど。

 いったん終えて次に「モルダウの流れ」に入る。

 杉本の歌声でモルダウの氾濫としか思えないメロディと化したのもそれはそれ。何度か繰り返して弾いていくうちにどうやって盛り上げていけばいいのか、どのあたりでペダルを踏めば空気を膨らますことができるのか、なんとなくつかめてきたような気がする。少しテンポが早くなったところも無きにしも非ずだが、なんとか仕上がってきたと思う。

 一通り弾き終えて、ラジカセの終了ボタンを押す音が聞こえるのを待った後、上総はこずえに話しかけた。やはり英語科A組の女王様には確認しておきたい。

「こんな感じでどうだろうか」

「うん、『モルダウ』はいいね。雰囲気すごいいいよ」

 上総の読み通りの感想をまずはひとつ。苦言もひとつ。

「けどさ、やっぱし『みずいろ』はねえ。なんか物足りなさすぎるんだよ」

「棒のように弾くって言いたいんだろ」

「自分でわかってりゃいいのよ。てかさあ、別にうちらは宇津木野さんや疋田さんレベルに弾いてくれなんて思ってないよ。ただ、『モルダウ』のはまり方に比べてなんで『恋はみずいろ』なんか腰が引けてるよ。なに、据え膳食べぬは男の恥ってこと忘れてるんだかって」

「よく意味がわからないけど、要するに気持ちが入ってないっていうことはわかる」

 こずえにも指摘されたとなると、「恋はみずいろ」の弾き方は相当つまらないものなんだろう。間違えないで弾けただけではこずえのお許しをもらえそうにない。恐縮する。

 こずえはテープのB面を向けて入れ替え、巻戻した。

「とりあえずさあ、もう一回弾いてみなよ。それと、私はちょいとうちの母さんに呼ばれてるんで部屋出るけど、その間に『恋はみずいろ』だけもう一度録音しなよ」

「別に古川さんが戻ってきてからでもよくないか」

 なぜそんなことをしたがるのか上総には謎だったが、こずえはすぐに立ち上がり杉本に向かって、

「杉本さん、よかったらこの椅子使って立村が弾いている間隣でラジカセ抱えてボタン押してもらえるかな。少しこいつにはプレッシャーかけないとまずいよ」

 それまで植木を載せていた木製の椅子を上総の隣にセッティングした。促されて座った杉本の膝に小さなラジカセを乗せた。

「ここの赤いボタンが録音するとこ。再生ボタンと一緒に押すってのはわかってるよね」

「大丈夫です」

 またまっすぐな口調で杉本は答え、カセットテープをくいと引き寄せた。

「じゃあ、曲が終わったら私も戻ってくるからちょっと二人の世界しててよ」

「何が二人の世界なんだか」

 脈略のないこずえの言葉には戸惑うものの、自分でも問題点が存在しているのは承知している。こずえが部屋を出て行ったあと、上総は杉本の膝を指差して、

「俺が鍵盤に手を置いたら、ボタン押してくれる?」

 頼んでおいた。杉本は静かに「はい」とだけ答え、指を赤いぽっちのついた録音ボタンと再生ボタンそれぞれにあてスタンバイしていた。


 ──どんな気持ちで聴いてるんだろう。

 ──杉本にはどういう風に聞こえているんだろうか。

 ──杉本はさっき、この歌詞どういう気持ちで歌ったんだろう。

 ぐるぐる回る。杉本の顔を見つめ、合図を目で送り、そこから始める。音色は前に弾いたのと特に変わるわけでもない。違っているのはひとつだけ、杉本が黙って、ラジカセの録音ボタンを押して、そのまま静かに耳を傾けている姿がはっきり見えることだけだった。その目はまっすぐ、上総の横顔に向けられている。そらそうとはしなかった。

 ──こうやって弾いているのが関崎だったらって思ってるんだろうな。

 関崎の類まれなる歌声を、杉本はまだ知らずにいる。

 指揮者として大活躍するその姿も、見ることはない。

 憧れの君を思い求める杉本が触れるのを許されているのは、よりによって上総のようなあぶなっかしい弾き方をして周囲にため息つかせているような奴しかいない。杉本に現実をつきつけているのは、上総の言葉だけではなく、その存在なのかもしれない。たどり着いて、胸が突然激しく詰まった。横は見ない。気配とぬくもりだけ感じられればそれでいい。ぶつけどころのない熱いものが全身に沸き立ち、それを抑えるためにピアノの鍵盤を叩いて冷やすしかないことを、上総はその時初めて知った。


 弾き終えた。杉本が終了ボタンを押した。

「どうだった?」

 上総の問いに杉本は一言、

「私に答える権利はありません」

 かたくなに、顔をこわばらせたまま答えた。


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