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その十三 みずいろ(5)

 杉本はもう歌わなかった。

 ただ黙って上総が何度も浚っていくのを聞いていた。

 罵倒することもなくもちろん褒めることもない。

 ──振り向いたらまずいだろうな、やはり。

 「恋はみずいろ」を五回、「モルダウの流れ」を十回。それぞれ繰り返した。暗譜しきれてなくても楽譜を追えばなんとか途切れずに弾くところまではいけた。さすがに上総もここまで弾きまくると疲れが出てくるので休憩を入れることにした。とりあえずはこずえが戻ってくるまでの間はエンドレスで練習ができると考えていいのだろう。

 手付かずのシュークリームに目を留めた。杉本もまだ食べていない様子だった。

「先に食べてればよかったのに」

「礼儀ですから」

 杉本らしい理由ではある。しかたないので上総が先にシュークリームを手づかみにしかぶりつくと、杉本は添えてあるフォークでパイの皮を丁寧にはぎ、品良く口に運んだ。

「器用だな」

「立村先輩のほうがマナー違反なのではないですか」

「しょうがないよ。俺は昔から不器用なんだし、杉本のような食べ方したらかえって皿を汚してしまうよ」

 実際クリームが皮の縁までたっぷり詰まっていて、食べごたえがある。かなり大ぶりのお菓子だがカスタードクリームがくどくないのであっさり平らげられる。そのあとすっかり覚めたローズヒップの赤いお茶を飲むと酸っぱくて口がさっぱりする。

「とりあえずはこんなもんか」

 用意されていたウェットティッシュで手をぬぐい、ピアノに戻ろうと思っていた。実際このままだと本当に集中して練習できるのは今日が最後だろう。立ち上がり杉本を呼んだ。

「あのさ、杉本」

「もう邪魔いたしませんのでお稽古なさいませ」

「するけどさ」

 やはり一言伝えておかないとまずいような気がしてならない。あれからこずえのお母さんも、もちろん弟らしき人も部屋には現れないままだ。もしやまたそれとなく注意されるのではと少しだけびくついてはいたが、今のところ二人きりでいられる状態だ。野獣になぞなる気はない。上総と杉本以外いない場だからこそ言えることを伝えておきたい。

「さっきのこと、気にしてるんだろ」

 気にするな、とは言えなかった。やはり、多少は意識してほしい。杉本は唇を噛み締め、それでもクールさは保ち、

「別に、ささいなことです」

 ぶっきらぼうに答えた。

「顔に書いてる。杉本は嘘を言う人間じゃないだろ」

「そんなことはありません!」

 上総は杉本の座っているソファーに回り込んだ。隣を陣取った。迷惑そうに身を逸らす杉本などお構いなしに、

「傷ついたって言ったっていいのにな」

「私は傷ついてなんかいません!」

「だったらなんで、歌うのやめた? 『モルダウ』途中なのに」

 唇をぎゅっと結んだまま、杉本は目をカップに移した。手にとろうとした。

「ごまかすなよ。ほんとか嘘か、どっちなんだよ」

 手を緩めたくない。誰もいないところだからできること。第三者が揃っているところだったら上総の行為は同じ嫌がらせに過ぎなくなる。杉本を馬鹿にする連中と一緒くたにはされたくないけれども、いつかは言わねばならないことだとどこかで感じていた。

「私のどこが嘘だとおっしゃるのですか」

「さっき、古川さんの弟が話したことだよ。聞こえただろ。聞いてたはずだ」

「確かに聞こえておりましたがそれ以上の何ものでもありません」

「嘘言うなよ。はっきり音痴だとか言ってたとこも聞いたんだろ」

「確かに、それは」

 口ごもる杉本のふるえる目線に、上総の読みは当たっていると見た。きっと一年前の杉本であればためらうことなく「失礼な!消えていただけますか!」くらい上総に命令し、あっさり絶縁を言い渡すだろう。あの十一月、生徒会改選立候補申し込み最終日前の杉本ならば。だがもうあの頃の杉本ではないことを、そばにいる上総は強く感じ取っている。

 ──今の杉本ならば。

 かつての、恐れを知らぬいくさおとめの杉本梨南ならば。さっき喚き散らしていたこずえの弟の罵倒も所詮嫉妬と鼻で笑っていただろう。青大附属に入学するはるか昔から、音楽の授業特に合唱のイベントなどで顰蹙を買い続けていたに違いないのだから。自覚などせず、意地でも相手の耳が悪いためと決め付けて流していられただろう。

 だが、今の杉本は違う。自分の願っている理想像にたどり着けないことを、音楽感性に溢れ、耳に優しく響く歌声で歌い上げられる自分ではないことを嫌というほど思い知らされている。

 ──新井林にも、佐賀さんにも、そしてあいつにも。

 杉本の願う理想の自分には届かない、それを痛いほどわかっているはずだ。

 ──泣いてくれればいいんだ。それだけでいい。

 そこから先の言葉は、上総がいくらでも用意できるものだから。

 上総はじっと杉本の瞳を捉え、ゆっくりと伝えた。

「俺も、杉本は音程を取るのがものすごく苦手だと思っている。嘘、言いたくないから」

「どう言う意味ですか」

 きっとした目で杉本は上総を見返した。怒りが浮かんでいるのがありありとわかる。

「さっきの古川さんの弟と同じ感覚で、聴いたってことなんだ」

 どうか泣いてほしかった。怒鳴ってもいい。適度に殴られてもいい。

「お前のこと嫌っている奴らの前でこれ以上歌わなくたっていい。合唱コンクールみたいなところで黙ってろって言われたらそのまま口ぱくぱくする振りしてたっていい。けど俺とふたりの時だけは絶対あんなこと言わないし、他の奴らにも言わせないから」

 何を言いたいのか自分でもわからない。杉本のある意味超人的な音程の外れっぷりはこれから先、合唱コンクールをはじめとする歌声を求められる場では大顰蹙を買うことだろう。青潟東高校に進学しようがなずな女学院に進もうが、どこに行っても同じことを繰り返すのみだろう。今までのように杉本が「自分は音痴である」ことを認めずに歩いていく限り、軋轢は消えないに違いない。

「杉本が音痴だという事実さえ認めれば、いくらでも道は見つかるんだ。勝てない舞台から降りることだってできるんだ。歌いたかったらふたりきりでカラオケボックス行ったっていいんだ。俺の部屋でキーボード伴奏で歌ったっていいんだ。ピアノをとうとう覚えられないのが悔しいんだったら、替りにマイコンキーボードを叩けばいいんだ。ピアノでつっかかっているより、BASICとかいう言語をばたばた打ち込んでいる方がずっと杉本には似合ってる。夏休み、あっという間に覚えたとこ間近に見た俺が断言するって! だから」

 

 きりりと目尻のつり上がった杉本が上総に何かを言い返そうとした時、玄関から賑やかしの声が聞こえてきた。

「たーだいま! 今帰ってきたよん!」

 こずえが元気いっぱいに戻ってきたようだった。



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