その十三 みずいろ(4)
その歌声が流れ出した時、きっとソファーの裏で両手を伸ばしていたゴムの木やサボテンたちはぴくりと目を覚まし身体をこわばらせたような気がする。
つんと澄ましたまま歌い続ける杉本の表情は、どこか遠くを見つめていて、楽譜のはるか奥深いところを見つめているようにも見えた。
上総はひたすら、その声に引きずられないように心してテンポを刻んだ。
できるだけピアノの音色をふくらませて、杉本の歌声を覆い隠そうとしてみた。
──気づいているのか。
今まで一度も、杉本に対して「お前は救いようのないくらい調子っはずれの歌い方をする」と指摘したことはなかった。たぶん周囲から嫌というほど叩かれているだろうから、今更上総が何を言っても傷つくだけだと思っていたからだった。また、今まで杉本がこんなに声を張り上げて歌い続けるところをじっくり見たこともなかった。心のどこかで杉本が実は美しいメロディを歌い上げられる人間だと信じたかったのかもしれない。自分の目で、耳で、それを確認しない限りは信じない。そう決めていた。
いざ、その場で噂の歌声を耳にしてみて、実は周囲の人々が正しい評価をし真実を伝えていたことを知るはめになるとは。それも、自分の隣でひたすらうっとりと幸せそうにたい上げている。もう曲がめためたにずれてしまい、上総も自分で何を弾いているのかがわからなくなってきた。ここには「ハーモニー」という言葉が存在しない。
──杉本は本当に、自分が正しい音程で歌っていると信じているのか。
ワーグナーのオペラをこよなく愛し、幼い頃から「ローエングリン」に憧れ手を伸ばし続け、それでもずっと届かぬ夢を見つめている杉本の姿は、一歩引いた立場から見ると極めて滑稽だ。憧れる王子様には無視され続け、親友として一緒にいたかった素敵な女子には同情と軽蔑の眼差しを投げつけられ、残るはこうやってドレミの音が取れない中必死に食らいついて弾き続ける上総のような役たたずしかそばにいないというわけだ。
──ピアノを弾くにしても、これだけ音をつかめないとなると苦労しただろうな。いや、先生の方がさじを投げたのかもしれない。杉本の性格上、諦めることはないだろうし。
同じく両手で奏でるのなら、メロディの存在しないマイコンのキーボードが杉本にはもっとも近しく、愛おしいものではないだろうか。横目でちらと見やって思う。
──そういえば杉本、またあのマイコン売り場に行って打ち込みしたりしてるのかな。あそこのやたらといやらしい目つきで見ている店員はまだいるんだろうか。
「さあお疲れさま、お茶入れ直しましたから少し休んだらいかが?」
一曲目の「恋はみずいろ」がなんとか終わり、次の「モルダウの流れ」もそのまま突き進もうかと楽譜を開き直していた時だった。こずえの母がそろそろやってきて、今度は赤みのどぎついお茶を運んできた。香りからしておそらくローズヒップのハーブティーだろう。ふわふわした縦巻きヘアでにこやかに。
「恐れ入ります。いただきます」
「いろいろお気遣いありがとうございます」
神妙に頭を下げ、一度ソファーに戻る。杉本は入口近くのソファーに腰掛け、静かに赤いお茶をすすった。上総も口に含み、かなり酸味の強い味わいに浸った。頭が少しすっきりする。
「お菓子も用意するわね。それにしてもうちのお姉ちゃんがふたりのこと褒めてたわよ」
思わず杉本と顔を見合わせる。こずえのお母さんはほがらかに腕を組んでみせ、
「立村くんはたった一ヶ月で、うちでピアノ弾けないのに一生懸命頑張って伴奏できるところまでもってきたって。私もずっと聴かせてもらっていたけれども、ほんとすごいわねえ。あっという間に上手になったわよ。合唱コンクールって父母に公開されてないのよねえ。残念だわ」
「あ、ありがとうございます」
過度なまでのお褒めの言葉にひたすら恐縮する。さらにこずえのお母さんは、今度は杉本を褒め称える。
「それに杉本さんも、うちのお姉ちゃんをリードしてあんな素敵なアフタヌーンティーセットを用意するんだもの。もうびっくりしちゃったわよ。プロ中のプロよ。テーブルセッティングとか、お母様が教えてくださったの?」
「いえ、私ひとりで覚えました」
礼儀はわきまえているがきっぱり杉本らしく答えた。
「すごいわあ、杉本さんはとても賢くて可愛いってうちのお姉ちゃんが大絶賛していただけあるわよ。本当に、杉本さんをお嫁さんにする人は幸せねえ」
空気が思い切り固まったことにこずえのお母さんは気づいているのかいないのか、上総がはらはらする間に、今度は大きなシュークリームを二人分、さらに盛った。
「うるさいお姉ちゃんがいないあいだにお二人で召し上がれ! さあ、ゆっくりおしゃべりなさいませ」
最後の「ゆっくり」に妙な力が入っているような気がしたがあえて気づかぬふりをし、上総と杉本は改めて深々と礼をした。
またふたり、顔を合わせる。杉本はしばらくこずえのお母さんが出ていったあとを見つめていたが、すぐに立ち上がった。ハーブティーはまだ残っている。まだシュークリームには手がついていない。
「どうした?」
「立村先輩にはお時間がございません。早くお稽古をお始めなさいませ」
「弾くよ、弾くけどさ」
「手が汚れたままピアノを弾くのは迷惑ですし失礼です」
「もちろん食べたら手を洗うよ」
「そういう問題ではありません。早くピアノの前に戻ってください」
がんとして受け付けない杉本のきつい瞳には勝てやしない。しかたなく促されるように立ち上がる。本当はこれだけ大きなシュークリームにすぐかぶりつきたかったのだが。
杉本は「モルダウの流れ」の譜面を広げ、じっと歌詞の部分を読んでいた。不穏な気配あり。そっと尋ねてみた。
「どうした、杉本」
「この曲も中学の音楽教科書に載ってたものですね。歌詞は覚えております」
「いやいいよ、二曲は疲れるだろうし」
さっきの「恋はみずいろ」で十分すぎるほど杉本の歌声は堪能した。さすがに二曲も連続して聴くのは弾き手としてもかなりしんどい。
「いいえ、先輩がおっしゃったのですから最後までさせていただきます」
「するって何を」
「もちろん、歌うことでございます」
その表情には、自分の歌声が空気をがたがたに震わせる威力があるなどと一切思っていないということがよく伝わってきた。
「早く、おはじめなさいませ」
「はいはい」
腹をくくった。今は誰もいない。部屋の向こうにはこずえのお母さんとたぶん弟のふたりのみ。ここにいるのは上総と杉本梨南だけ。あの、笑ってごまかせないほどの強烈な音程のずれも、ハーモニーを一瞬のうちにぶち壊す声も、このピアノであれば受け止められるはず。上総は杉本の顔を座ったまま見つめ、すぐに楽譜へ目を移した。曲を奏でることに、ひたすらうもれた。
杉本の歌声が止まった。何か、ドアの向こうからかすかな言い合いの声が聞こえてくる。
「杉本?」
「聞こえますか」
一本調子に杉本が尋ねる。入口に目線を向けたまま。
「話をしてるのかな」
「違います、喧嘩のようです。文句をつけているようです」
「誰に」
「古川先輩のお母さまにです」
耳を澄ませると、確かに話の内容が耳に飛び込んでくる。男子の声らしきもので、ひたすら激しく母親を詰っているような雰囲気だ。じっと耳を傾ける。
──だから母さん止めろよ。あの騒音みたいな歌やめろって行ってこいよ!
──何わがまま言ってるの! おねえちゃんの友だちなんだからそんな失礼なこと言えるわけないでしょ!
──姉貴ばっか気つかいやがって俺はどうでもいいのかよ! 俺があんな超ど音痴な声聞かされて耳が腐りそうだっての誰もかわいそうだって思わねえのかよ!
──あんたも少し我慢しなさい! そんなにいやならなんで学校行かないの?
──うるせえうるせえうるせえ! やだったらやだ! 早く黙らせろよ! あんなの聞かされてたら俺、もう窓から飛び降りるからな!
「立村先輩、ピアノを弾いてください」
杉本は感情を一切浮かべず、上総に冷ややかな口調で告げた。
「先輩ひとりで、最初から弾き直してください」
「杉本、でもさ」
「私は疲れました」
そのまま杉本は半分ローズヒップの赤いお茶が残ったティーカップのもとへ戻り、そっと口を付けた。




