その十三 みずいろ(3)
──いったい何考えてるんだろう、あの人は。
取り残された上総と杉本梨南のふたりきりでしばらく紅茶の入ったポットを見つめていた。決して二人きりで過ごすのが珍しいわけではない。夏休みだってほぼ一日一緒だったこともあったじゃないかと思う。しかし、人の家で勝手の違う中取り残されるのとはわけが違う。こずえのお母さんが顔を出す気配も今のところはない。
「立村先輩」
「どうした」
「ピアノ弾かないのですか」
棒読みの口調で杉本が促す。ここで語られた合唱コンクールに関する事情は把握しているようだった。
「弾くよ。時間もったいないし」
「すぐお始めになれば」
冷ややかにも聞こえる杉本の言い方、同時に向けられた眼差しも堅かった。こわばっていると言い替えたほうがいいのかもしれない。上総が立ち上がるのを待っているかのように動かない。急かされるように上総は楽譜を鞄から取り出した。美里がしわなく貼り付けてくれた楽譜のノートだ。杉本が目を留めた。
「これが楽譜ですか」
「そう。俺の誕生日に清坂氏と羽飛が作ってくれたんだ。見るか?」
テーブルの向こうで唇を結び見据えている杉本に手渡した。屏風だたみのノートを丁寧にめくり、吟味している様子だった。表紙を何度も丁寧に撫で、
「こちらも手作りなのですね」
感心したようにつぶやいた。
「そうなんだ。羽飛はああ見えて絵や美術が好きなんだ。俺も知らなかったんだけどさ、最近は絵を描いたりする方にも興味があるみたいで、すべてデザインはあいつがいじってくれたんだ。お礼言ったらえらく自慢されちゃったけどな」
羽飛も上総に喜んでもらえたことが相当自信になったようでご機嫌だったようだ。C組訪問して実際のものを他の連中にも見せつけながら感謝を伝えたこともあり、天羽たちからも興味を持って同じく表紙をすりすりしてきた。ひとり、南雲だけは無関心を装っていたのが気になるがしょうがない。
「立村先輩はこういうモダンなデザインがお好きなのですか」
「好きと言われると難しいけれどな。ただ、もらったことは素直に嬉しい」
「絵、としてはお好きではないのですね」
しつこく杉本が食い下がってくる。最近杉本はこういうところが妙に目立つ。本条先輩の趣味とするマイコン道楽についてもそうだし、その他いろいろな面において。上総もなんとなくひっかかっていたのだがおちらも適当に流していた。
「もともと俺と羽飛とは美術の趣味が合わないからしょうがないんだ。自由研究一緒にやった時もそれは思ったよ。けどさ、ふたりが手作りで作ってくれたってとこが何よりも感動するよな。それに、驚いたよ、俺の誕生日覚えてるなんてなって」
「ご友人なら当たり前のことではないですか」
きりりと杉本が言い切った。
「当たり前ったって、俺は友だちの誕生日すべて覚えてなんかないよ」
「立村先輩の能力を指しているわけではありません。羽飛先輩や清坂先輩レベルの方ならば、ということです」
「悪かったな、どうせ俺の能力は足りないってこと言いたいんだろ」
「私も覚えています」
「何をだよ」
わざと食いついてやった。少し言葉がすぎるんじゃないかと説教したいができるわけもない。さりげなくつつくだけ。杉本は即答した。
「九月十四日」
「え?」
また目に力をめいっぱい込め、杉本は上総を指差した。
「立村先輩の誕生日のことなど、常識ではありませんか」
──杉本も俺の誕生日、覚えてた?
不意打ちを喰らい絶句する上総をよそに、杉本は楽譜ノートを抱え立ち上がった。すばやくピアノの蓋を開け、楽譜立てに「恋はみずいろ」の分だけ広げて載せた。バランスよく広げた。
「お時間がないのですからお急ぎなさいませ」
命令には従うしかなかった。
杉本はピアノを弾く上総の隣に寄り添うように立っていた。しばらくじっと上総の指先を睨みつけていた。「恋はみずいろ」を一度通しで弾き終えた時も何も言わなかった。杉本の性格としては、感動しない演奏には無視で通すということが正直考えずらい。ということはお話にならないくらいひどかった、ということになるのだろう。
──もう少しなんか、柔らかく見るとかできないのかな。なんだか怖い先生に稽古付けてもらっているみたいだよな。
そっと顔を覗き込んでみる。相変わらず怒ったような表情のままだった。
「杉本、なんか言いたいことあるんだろ」
「別にございません」
「わかったよ、どうせ杉本はいい音楽ばかり聴いているから、俺の弾いてるとこ見てていらいらしてるんだろ。顔に書いてるよ」
適当に嫌味をぶつけて「モルダウの流れ」に楽譜を合わせる。杉本がすぐに楽譜立ての位置を整えようとし、上総に問いかけた。
「私が楽譜めくりしましょうか」
「わかるか?」
「たぶんわかります。私も以前は習っておりました」
「そんなこと言ってたよな」
──音感がなくて結局挫折したらしいけどな。
理由はわかりすぎるほどわかるのであえて何も言わず、上総はそのまま任せた。
めくらせてみて気づいたのだが、やはり杉本は音に対する反応がどこかずれている。おそらく本人はごまかしたつもりでいるだろうが、とんでもないところで譜面をめくろうとする。上総はすでに暗譜が一通りすんでいることもあって杉本には気づかせないように弾き終えたつもりでいる。文句を言う気もない。
──やはり、これだと音楽の授業は苦痛だったんだろうな。でも杉本はオペラが好きなんだよな。ワーグナーだよな、ローエングリンだよな。
このあたりも正直謎なところがある。きっと自分がおかしな節回しで歌っているという意識もないだろうし、周囲からひどく音痴女と罵倒されたとしても高笑いして無視していたことだろう。もしかしたら、自分が実は歌が上手で相手がそのことに気づかないだけと思い込んでいるかもしれない。いや、その可能性がかなり高い。
「先輩、ピアノをなさっていらしたと伺いましたが」
「そうだよ。親に叩き込まれた。毎日練習しているわけじゃないからたかが知れてるけどさ」
「先輩程度の弾き方でよく合唱コンクールの伴奏などという大役を引き受けられましたね」
「さっき古川さんと話しているところ聞いただろ。しちめんどうな事情がいろいろあるんだよ」
「それにしてもあの程度では」
ずいぶんな言い方だが残念ながら否定ができない。一年英語科の皆々様にはこの程度で我慢していただくよう重ね重ねお願いするしかないのだが、いくらなんでも杉本にだけは言われたくない。そうだ、少なくとも杉本はここまでピアノが弾けるわけがない。マイコン売り場のキーボードを叩くことはすぐに覚えられても、奏でることはできない現実。突きつけてやろうかどうしようか、迷った。
「じゃあさ、杉本ここまで一ヶ月で弾けるかよ」
「私は早い段階でピアノをやめましたから比較対象にはなりません」
「俺だって似たようなものだけどなんとかここまで持ってきたよ」
「先生たちから助けてもらったからでしょう。それに古川先輩にこういう風にピアノを貸していただきさらに、清坂先輩や羽飛先輩にもこのように楽譜を納められる台紙を用意していただき、すべてお手伝いしていただいたからではないのでしょうか」
「そりゃそうだけど、少しは俺の努力も認めてくれたって撥当たらないんじゃないか。俺だってそれこそ古川さんのキーボード貸してもらってうちで練習してるし、まあお世辞にもうまくはないけど、なんとか伴奏で迷惑かけないところまでは持ってきたよ。そこまで言うんだったらさ」
勢いで思わず飛び出した言葉に、自分でも驚いた。
「杉本が自分で確かめたらいいよ。俺が伴奏弾くから、杉本が歌ってみればいいんだ。ちゃんと、どんな歌い方でもきっちり合わせてやるから。とりあえず課題曲知ってるだろ。中学の合唱コンクールでも歌った曲だし」
なぜ、こんなことを口走ったのかわからない。
──俺、一体何考えてるんだ?
自分で自分がつかめない。杉本に歌わせるということイコール、恥をかかせることにつながっているというのに。この部屋には誰もいない。だが戸は開け放たれている。おそらくだがこずえの弟およびお母さんはその歌声を聞くはずだ。杉本以外の第三者は上総と同じ認識でもって聴き入るだろう。
──どうせ断るよな、どうせ。
「そんな暇があればさっさとお稽古なさいませ」とか「先輩なんかの伴奏では私満足できません」とか「あのお方ならばともかくも立村先輩ごときと」くらい言うかもしれない。いや、そうしてほしかった。じっと見据える杉本の眼差しを、上総は正面から受け止めた。
「かしこまりました。『恋はみずいろ』であれば私も存じております」
杉本は上総の隣にぐいと寄り添い、じっと五線譜の間に綴られている歌詞にかじりついた。立ったまま、それを見ながら歌うつもりらしい。
「それなら弾くよ」
「お願いいたします」
冷ややかに言い返し、杉本は上総のそばにぐいと寄り添い、前奏に耳を傾けた。弾いている時の肩に杉本の頬が触れそうで、思わず黒鍵から指が滑った。




