その十三 みずいろ(1)
「ごめんなさい! ほんっとにごめんね!」
合唱コンクールまであと一週間を切った金曜放課後、美里から両手を合わせて謝られてしまった。
「うちのクラス、土曜日は有無を言わさず合唱の練習をするようにって命令が、担任から出たのよ! いつもなんにもやらない担任がね、評議の子の言い分鵜呑みにして、全員絶対参加するようにって! 私も土曜日以外はきっちり参加してたのにね。なんなんだろって思うよね」
美里が憤るのも無理はないが、仕方ないだろう。こずえもため息を吐くものの、
「しょうがないよねえ、大丈夫、私がなんとかするからさ!」
ぽんぽん肩をたたいて励ました。だいたいB組の面倒なしがらみに関しては上総も見当がついているので慰めるにとどめる。
「自分のクラスが大切なのは当然だし、清坂氏も気にしなくていいよ」
「せっかく私、約束したのに。それに、立村くんひとりで行くとまずいんじゃなあい?」
不安そうに美里が唇を震わせる。こずえは胸を叩いて答える。
「大丈夫大丈夫! 今、ひとつ、考えてることあるんだわよ。そのあたりはぬかりないからね。まかり間違っても立村に襲われるような危険なシチュエーションは作らないからね」
「こずえ、すっごくあんた、立村くんに失礼なこと言ってない?」
美里がまゆをひそめる。いつものことだ。上総は動じない。
「言ってないよ。ほら、立村、あんたもその意識があるってことよねえ」
「古川さんに言われたくないよな」
こずえが何を考えているかはわからないが、土曜日のピアノ稽古最終戦が行われるのはまず確定と見た。上総からしたらどちらにしても本物のピアノで練習できる貴重な機会を得られるのがありがたい。
「羽飛もさ、今はC組ラストスパートでそれどころじゃないんだってさ!」
「そうそう、立村くんにも言ってたでしょ。貴史ね、立村くんが思ってた以上にピアノ上手になってるから、このまま手伝うと敵に塩を送ったことになっちゃうからってあえて控えているみたい」
「そんなことないのにな」
毎日必死に練習を続けたおかげでなんとか形にはなってきた。こずえの計らいで合唱との伴奏合わせもたくさんさせてもらいコツが少しずつつかめてきた。他の生徒たちも、音楽そのものにこだわる生徒たちは苦い顔をしているが、その他とりあえず歌えればいいや程度の感覚の持ち主にとってはさほどプレッシャーをかけるでもなくのんきに過ごしていられる。それはそれでまたありがたい。他の一年クラスと違い、あまり順位にこだわっていない……というか、別名諦めていると言った雰囲気が、上総には救いだった。
次の日の土曜日、本来ならばA組もそれなりに練習をすべきところなのだがいかんせん他の部活動もいろいろと準備が必要な時期とあって、なかなか集まりにくいときた。特に運動部の新人戦や練習試合など優先順位があきらかにそっち、という行事が多い。
「そんなわけであんたにとっては運がいいのか悪いのかわかんないけど、とりあえずはあんた、今日はひとりで来なよ」
こずえは耳打ちし、素早く鞄の中に教科書一式を詰め込んだ。四時間目が終わりすでに放課後。腹がすいたとあって学食で何か食べて行こうと思っていた。さすがに男子ひとりで女子の家を訪問するのは、あのこずえ宅であっても緊張が走る。
「あのさ、古川さん」
「あんた変な期待してないよねえ。誰がうちの弟みたいな奴を引きずり込んで童貞を奪おうなんて思うわけ? いわゆる近親なんとかってやつじゃないのさ。あれれな想像膨らますのはよしなよよしな。ま、私もちゃーんと手を打ってあるから安心して来なさいよ」
「古川さん、何か完全に誤解しているようなんだけど、要するに誰か別の人が来る、ってことだよな?」
ここんところはきちんと確認しておかないとまずい。上総は繰り返した。
「古川さんのお母さんが怪しまない別の人、ってことでいいんだよな」
「しつこいねえあんたも。心配性なのはわかるけどそんなぴりぴりするんじゃないよねえ。ま、あんたがうちに足を踏み入れた瞬間どういう反応するかは私の頭にイメージされてるからさ。大丈夫だって、どーんと構えていらっしゃいな」
とりあえず、ピアノは問題なく弾くことができる。こずえの母を安心させるシュチュエーションが準備されているはず。とりあえず誰かがいる。
「じゃあ誰が来るんだ?」
「内緒だよん。あ、大切なこと忘れてた。それとね、今日は悪いけどお土産一切いらないからね。変なもの持ってきたらはっ倒すからさ。腹も空かせたまま、野獣になって来なさいよ」
「野獣って、いったい」
上総が呆然とつぶやく前を、こずえは手を振りながら去っていった。隣で無言のまま関崎と藤沖がこずえを見送りつつ、
「俺たちもとりあえず、なんか食ったらパート練習するか」
残っている男子……ほとんどが帰宅部……に呼びかけていた。
美里がいなくてもさすがに古川邸への道は覚えたので迷わずに到着した。
とはいえ、緊張は解けない。
──このオートロックっての、なんか怖いよな。
恐る恐るボタンを押して、ドアの反応を待つ。特に返事もなく、すぐに開いた。そのままエレベーターに乗り込み、ひとりで降りる。方向音痴の自分がうっかり別の部屋に紛れ込んだらとんでもないことになる。胸のあたりとネクタイを何度か叩き、気持ちを落ち着けた。
──古川さん、誰かまた呼んでるんだろうな。先週のようにまた霧島さん呼んでるなんてことないかな。まさか西月さんとか、あと誰だろう、実は羽飛だとか。それとも俺の全く知らない人かな。いやまさかとは思うけど、男ひとりだと危険だからって、古川さんのお父さんだったらどう反応しようか。
顔見知りでもさほどつながりのない相手と席を共にするのはあまり得意ではない。もちろんこずえの見事な人さばきぶりを知っているから信用はしているのだが、やはりスリルを楽しむ余裕はない。
ドアホンを鳴らした。身体中がどくどく言う。つばを飲み込んだ。
──どーぞ!
迎えてくれた声は、こずえのお母さんのものらしかった。華やかさに包まれた声だった。
「さあさ、お待ちしてたのよ、立村くんね。うちのお姉ちゃんたちがお待ちかねよ」
──お姉ちゃん、たち?
機械的に礼儀正しく礼を返した。こずえは出てこない。複数形「おねえちゃんたち」になぜかこだわりたくなる。こずえが「お姉ちゃん」なのはわかるが、「たち」ということは誰か女子がいるのだろうか。少なくともこずえの父という線は消えたと考えていいのだろうか。
別名ジャングルじみた居間に通された瞬間、「おねえちゃんたち」の正確な意味にようやくたどり着いた。なんと簡単なことか。
──おねえちゃん、か。そうだよな。
にやつくこずえの隣に鎮座ましている、真っ白いフリルのエプロン姿の女子と顔を合わせたとたん、すべてがすとんと落ちた。テーブルにはすでに可愛らしくあしらわれたサンドイッチ、ミニケーキ、クッキー、いわゆる「アフタヌーンティー」もどきのセッティングが終わっている。まだ紅茶が入っていないだけ。
すっくと立ち上がり、目の前のその女子はつつと上総の前に立った。上総のよく知る、目がはじけそうな程ぐっと睨みつけるその表情と、その言葉。
「立村先輩、お久しぶりでございます」
「杉本、なんでそこにいる?」
そういえば、二週間ほど杉本梨南とは顔を合わせていなかったことに上総は今更ながら気がついた。




