その十一 聴き比べ(4)
父と印條先生との会話がまた仕事絡みに切り替わったこともあり、上総はしばらく楽譜を眺めて時間を潰していた。そのうち印條先生の奥さんのお声がけもあり、少し早めながらインドカレーのランチをいただくことになった。十一時で昼ご飯というのもどうかとは思うが、それなりにエネルギーも消耗したこともあって入る場所は確保できている。
「主人が話しておりましたが、上総くんは本当に筋がよろしいって」
また見え見えのお世辞を頂戴する。頭を下げてナンをちぎり、銅の皿に乗せられたレンズ豆のカレーをつけて貪り食う。父がまたしかめっ面をしているようだがしかたない。下手に会話してどつぼにはまらないようにするにはそれが一番いいのだ。
思った通り父が代わりに謙遜してくれた。
「いえいえ、お恥ずかしい限りです。まことに出来の悪い息子なもので」
「そんなことないんですよ。上総くんはお父さん似で熱心で何事にも熱心だし、自分ひとりでやるべきことをきちんと考えて次の手を打っていく、それはなかなかできることではありませんよって」
言葉を引き取って印條先生は、優雅にナンをちぎった。
「先ほどのカセットテープ録音の経緯にしてもそうだよ。どうすれば合唱コンクール当日までに自分の力を引き上げられるかを計算し、そのための方法を自分で選んでいる。青大附属の校風が自主性を育てるところにあるのかもしれないが、できない子は教えない限りなかなか意識できない。上総くんは違うね。ちゃんと自分で動こうとする」
「恐れ入ります。まあこの子はもともと、委員会活動などで自分なりにいろいろな経験を積んできたところはあるかもしれません。青大附属の委員会活動は先生の手を離れた部分で生徒たちの判断でさまざまなイベントを運営できるところがあるようですし、その影響は多分にあるのかもしれませんね」
「全くだ。私の学生時代もまさにそうだったね。変わったところも多いのかもしれないが、そういう生徒たちの自主性を育てる校風は今だにそのままなんだね」
しみじみつぶやきながら、たっぷりカレーを載せて口に運んだ。父にヨーグルトドリンクのおかわりを勧めようとする。
「いえ、僕はこれで十分いただきました。いつもながら美味しくいただきました」
「ところで立村くん」
また父がぴくりと反応する。印條先生には気づかれていないかもしれないが隣にいる上総には父の怯えぶりが手に取るようにわかる。
「上総くんと二人暮らしともなると食事の準備も大変だろう」
「いえ、それがありがたいことに、妻が実にしっかり家事一式を上総に仕込んでくれたおかげで、今のところ不自由したことはありません。男所帯ですしさほど気取った料理を作る必要がないのですが、人並みにはできる方でしょう」
「だが、上総くんも高校に入ると勉強も大変だろうし、それに加えて家事ともなるとこれは負担が大きいぞ」
「いえいえ、このあたりも実は、忙しい時に備えたいていこの子の母が手伝いに来てくれるのでさほど苦労はありません」
ずいぶん父は力強く母に関する話を説明する。くどく感じる。もちろん上総は黙ってカレーのルーをスプーンですくっている。かなり辛いが豆中心なのもあって胃もたれしない。
「立村くん、どうも君は無理をしているようだね」
ため息混じりに印條先生は父を見つめ、首を振った。
「君の昔の奥さんは確かによくできた方なのかもしれないが、やはり年頃のお子さんのそばから離れるというのは、何度も言うようだが無責任なのではないのかな。上総くんのようにこれだけしっかりしたお子さんだからいいようなものの、なあ」
奥さんは黙って微笑んでいるだけ。父は顔色変えずに穏やかに言い返す。
「幸い上総ひとりですのでなんとかなっているところもあります。ふたりめがいたらどうなっていたか、はよく考えますが」
「そうだろうそうだろう。そうだ、ところで上総くん、せっかくお近づきになったのだからもう少し仲良く話をしたいのだがいいかな」
──まずいのかもな、どうしよう。
父をちらと横目で見るが、無視された。別のことを考えているのだろうか。仕方ない、礼儀を守るつもりで答えた。
「よろしくお願いします」
「君は今月で十六歳と聞いたが」
誕生日までもう少し日にちがあるのだが細かいことは考えずはいで答えた。
「私が君くらいの頃だと、好きな女の子のことをバンカラ気取ってちろちろ見たり、悪口言ってみたり、恋文渡したりなどといろいろしていたが、君たちの世代はどうなのかな」
「あの、それは」
急いで頭の中を整理してみる。
「僕たちの友だちが、ということでしょうか」
「いやいや、君が、だよ。人のことはなかなかわからないものだ。上総くん、君は誰か、好きな女の子などいるのかな」
──なんなんだこの人、いったい……!
思わず父の顔を見た。父も上総をすぐに睨みつけ、すぐにバトンタッチして印條先生に答えてくれた。ありがたい。こういうところが父である。
いや、甘かった。即、後悔した。
「先生、最近の子どもはかなりませているようでして、上総も例外ではないようです」
とんでもないことを口走り始めたではないか。ひょうひょうとした態度で、なんにも考えていない様子で、でも頭の中は大回転していることは上総にだけ見え見えで、
「ほう、父親から見た上総くんがかね」
「さようです。上総はこの通り見た目は大人しそうですが、結構学校からの呼び出しが多い子どもでもありますよ」
──父さん、何考えてるんだよ!
いきり立ちそうになるが父の足で蹴飛ばされ黙るしかない。
「なるほどなるほど」
「思春期はいろいろと面倒なことが多いものだと改めて思い知った次第です、まったく。ただありがたいことに、クラスのよい友だちに恵まれたというのと、やはり先生のおっしる通りそれなりの意識する相手もいたようで、だいぶ支えてもらっていたようですよ」
にやり、と笑う。上総はスプーンを皿にのせ、全身の力を込めて父の足をテーブルの下で踏んづけた。父の顔色全く変わる気配なし。
「いわゆる恋人という存在なのかな」
印條先生は上総と父を交互にみやりながら意味深に笑った。顔をうつむけるしか上総にはなすすべがなし。父が一方的に語り続けるのを忌々しく聴き入るしかない。
「さて、こればかりは上総に確認するしかありませんが、なにせ僕もこの子の年頃からまださほど離れたわけではありません。ここでぐりぐり追求するのも野暮ではないかと思う次第です」
──野暮ときたかよ。だったら最初から言うなってのがわからないのかよ。
「男の子としての先輩、確かにそうだ、よくわかる」
「ですが、面白いものでして、やはり好みというのは親によく似るものだと感心するおとも多いですよ、いろいろ学校の先生方から上総の交友関係を確認しておりますと、友だちの好みからいわゆるそちらの関心など、どうしてこうも僕と重なるのかと、いわゆるDNAの神秘というものをひしひし感じます」
「例えばどんなふうに」
隣で上総が歯を食いしばり足を蹴りつけようとして空振りしている中、父はしれっとしたまま答えた。
「とにかく、気の強い子が好きですね。こればかりは僕の血としか言い様がありません。この子の母親と同じタイプにとにかくこだわりがあるようで、全く困ったものです」
──言うことに事欠けば何言い出すんだよ! この場で親子の縁切ってやろうか!
さすがに目上の方のお宅でそんなはしたないことはできやしない。上総はひたすら父親の横顔を全力で睨みつけるしかなかった。父も気づいていないわけがないと思うのだが、印條先生のにこやかな笑顔を受け止めているせいか、つらっとした表情を全く変えず楽しげに語り続けていた。
「気の強いタイプか。男の子はやはり、お母さんが永遠の恋人なのかもしれないね」
──それは絶対ありえないって!
叫ぶのをこらえるのにも限界がある。立ち上がり、できるだけ丁寧に印條先生の奥さんに、
「すみません、お手洗い借りてもよろしいですか」
頭を冷やすために小個室に逃げ込むのが関の山だった。




