その十一 聴き比べ(3)
印條先生の教え方はお茶をはさんだあとも特に変わりがなかった。
ごく普通にテンポを整えたり、和音を強弱つけて押すようにするとか、他の先生たちの説明とはほとんど変わらなかった。「恋はみずいろ」も「モルダウの流れ」もそれは同様だった。上総がずっと弾き続けている間父も口を挟むことはなかった。
──どう違うったって、まあ、確かにそうだよな。
上総なりに解釈したのは、単純な「好き嫌い」の問題に過ぎないのではということくらいだった。確かに「我が祖国」を想い歌う「モルダウの流れ」と、普遍的とはいえ「愛」という言葉をたくさんの意味を込めて歌う「恋はみずいろ」とでは、共感度が違う。だがその溢れんばかりの感情がどこにあるのか、ということになると意味がつかみかねた。とりあえずは激しくするところは激しく、優しくするところはやさしく、の流れでいいのではと自分なりに判断した。
「よし、今日はここまでにしようか。そこで来週の日曜が合唱コンクール前最後のレッスンとなるわけだが、立村くん」
先生は父に斜になり問いかけた。
「見た感じだと暗譜もほぼできているようだし、ここから先は歌に合わせる方が優先になるだろう。本当はもう少し深いところまで進めたいんだがどうだろうかね」
「先生にお任せいたします。僕は音楽に不案内ですから」
「いや、とりあえずは目標のコンクールが終わってからにしよう。それにしても自分ひとりでよくここまで練習したものだ。家にあるのはキーボードだけなのかな」
そのとおりなのであっさり答える。
「はい、友だちから貸してもらいました」
「そうか。本当だったらもう少し本格的なピアノが用意できるといいのだが、急な話だったしね。そういえば先週上総くんは、お母さんにテープで教えてもらったと話していたような気がするんだが、もう少し詳しく話してもらえないかな」
上総が話す前に、父がさっそく割り込んで語りだす。
「ご存知のとおり上総はどうも聞き取りの耳が普通以上に備わっているようです。語学が得意というのも、もしかしたらそのせいなのかなと最近親としても思っているところなんですが、ただ、上総からしたら意識的にしていることではなさそうですね。今朝車の中で聴かせてもらったテープがあるのですが、クラスでピアノが非常に上手な生徒さんに頼んで、歌つきで演奏してもらったものを何度も聞き込んでいるようです。上手とは言えませんが、それなりにとちらないで弾けるようになったのは、耳から来る練習を重視していたからかもしれませんね」
「テープを用意したのか、面白いね。ということはここに持ってきているのかな」
父の顔を見て、頷かれたのを合図に上総は鞄から取り出した。
「少し興味があるので、聴かせてもらってもいいかな」
たぶんこういう話の流れになるであろうことは上総も想像していた。父があのテープの存在を偶然にせよ知った以上、話題としてあげてくるだろうとはたやすく考えられたし、それ以上に上総も、音楽に詳しい印條先生の反応をぜひ聞いてみたかった。厳密にいうとピアノ伴奏よりも、関崎の声が入ったバージョンという独特のものでどういうイメージを持つのだろうかということをだ。大人たちは少なくとも、上総の同級生という以外のフィルターを持たずに、裏のドラマなど一切感じることなく曲を聴くことになる。その際どう感じるのかを、単純に確認してみたかった。
テープは印條先生の手により、壁にかかった小型のテープデッキに収まった。この部屋にはステレオらしきものが見当たらなかったのだが、テープが回りだして初めて気がついた。部屋の二隅上に同じく小型のスピーカーが備わっていた。しかも音が部屋全体によく響く。テープ録音時の近くにいる生徒たちのささやき声すら拾っている。あまりにもかすかで上総も気にしていなかったのだが、いったん「恋はみずいろ」の演奏が終わり拍手が途切れたタイミングで、
──立村くんじゃ、ねえ。
とかいう声まで入っている。誰かはわからないにせよ、あまり気持ちいいものではない。大人たちふたりにまるまる聞かれているのだからなおのことだった。
「いやこれは面白い。次は『モルダウ』かな」
印條先生は上総と父を交互に見ながら、楽しそうに聴き入っている。音が割れない程度に関崎の歌声が響き渡り、同時に『モルダウ』を演奏した宇津木野さんのピアノ演奏が激しく波打つように部屋いっぱい満たす。音楽室のミニコンサートでつっ立ったまま聴いていた時とは違う自分の中の鼓動に驚く。
「テープ一本目はこれか」
「実はもう一本あるようでして」
父がまた促す。印條先生がまたテープを入れ替える。
「上総の話だと、今のテープはクラスでピアノを専門に習っているお嬢さんふたりが手分けして演奏したもののようです。いろいろ事情があるようで上総にお鉢が回ってきてあたふたしているわけですが、もうひとり別のクラスの同じくピアノが上手な生徒さんがいらしたようで、録音中ぜひにと立候補したとのことなんですよ」
「ほほう、上総くん、もう少し詳しく話を聞かせてもらえないかな」
──あまりプライバシーに触れるようなこと話せないよ。
戸惑うものの、さすがにある程度はしゃべらねばならない雰囲気で諦めた。個人名はもちろん出さないようにする。
「はい、実は、クラスで練習する分と僕が個人的に聞いて練習する分と、二本のテープが必要ということもあって二回録音させてもらう予定でした。ですが、今お聴きいただいたふたりのピアノ担当者が全力尽くしてしまいもう一度弾くのは辛そうな雰囲気でした。そこで隣のクラスの、同じくピアノ伴奏担当の女子に頼んだのが次のテープです」
上総が言い終わるのと同時に、今度は瀬尾さんの弾く「恋はみずいろ」が流れ始めた。
「そうか、聴き比べか」
印條先生は難しい表情で黙ってテープに耳を傾けた。一本前の演奏を聴いている時とは違い、少し厳しい顔に見えた。瀬尾さんのピアノの影でやはり女子たちのささやき声が聞こえるが今度は関崎の歌声に潰されて一切意味が確認できなかった。
「上総くん、ありがとう。これはいい話のきっかけになったよ」
テープを取り出し上総の前に置いた印條先生はソファーで真向かいのふたりを見つめた。
「立村くんも、だいたいどういうことかは想像ついただろうが」
「はい、僕も音楽の耳はありませんが、なんとなくそれぞれの技量の差は感じました。まあうちの息子に比べたらとそんな偉そうなことは言えませんが」
「技量というよりも、気持ちの溢れ方だね」
印條先生は上総に問いかけた。
「上総くんはこの三人のピアニストの中でどのタイプが素晴らしいと思ったのかな」
「最初のテープの、『モルダウ』を弾いた人です」
「やはりそうか。立村くんは?」
父も同様だった。
「そうですね、息子と一緒です。やはり一本目の『モルダウの流れ』はもうソロで聴きたい内容でしたね。いやもっとも、歌も荒削りですがいいですね。どうも上総とは親しい友だちのようですが」
最後の一言は上総をからかうような口調だった。
「三人意見が一致したようだ。この人がどういうお人柄かはわからないが少なくともピアノ上で自分自身をさらけ出しいて歌いこんでいるという気がする。ついでに言うとテープ全てにわたって朗々たる歌声の彼も、難しいことを言えばいろいろあらもあるだろうが聴く人を惹きつける何かがあるね。上総くん、それは君もそう思うだろう?」
「はい、歌っている友人は中学時代自分でも音痴だと思っていたようです。僕からしたら信じられません」
みな大笑いの後、ふと印條先生は真面目な顔でさらに尋ねた。
「ところで上総くん、二本目のテープの演奏者はひとりだろう? 他のクラスの伴奏者とかで」
「はい、ほとんど初めて楽譜を見て演奏していたそうです。これも僕には信じられません」
「この人の演奏はどう思う?」
──正直なとこ言っていいのかな。
迷う。瀬尾さんのピアノは決して嫌いではない。素直でわかりやすくて練習の参考になる。一番聞き込んでいたお手本のようなもの。ただ、こうやってよいスピーカーで聴き入ってみるとどうしても、別の感情が湧いてくる。どうせ誰も知らないのなら言ってもいいだろう。
「上手下手は僕にはわかりません。ただ、この人の演奏が僕には一番のお手本になりました」
あえて曖昧な言葉でごまかしてみた。しかし突っ込まれた。鋭い。
「オブラートにくるまないではっきり聞かせてもらいたいんだがどうかな」
しょうがない。本音を言うことにする。父を怒らせることもないだろう。他人事なんだから。
「僕が言える立場じゃないんですけど、実際生で聴いている時、彼女が弾いていることをすっかり忘れて歌を聴くのに集中してました。一本目の『モルダウ』の時は歌も伴奏も聞き入りました。その差はあるかもしれません」
「これは面白いことを言う。立村くん、君の息子さんは鋭い視点を持っているね。さすが」
何を褒められたかわからないがそれは父も同様のようだった。戸惑ったように、
「あの、こいつのどこが」
問いかけると、
「つまり、二本目の弾き手さんは『お手本』止まりなんだよ。わかるかな。上総くんにとって音を拾うための『お手本』としては問題ないが、心を惹きつける程のパワーがない。その一方最初に弾いたふたりの演奏は、もちろん若いなりの物足りなさもあるがそれ以上にピアノの音色に感情がこもっている。あえて最初の『恋はみずいろ』の人については僕も触れなかったけれどもこの人もピアノを弾くのを心から楽しんでいるのが伝わってくる。レベルの差はもちろんあるかもしれないが、一本目のお二人はどういう形にしてもピアノを弾くのが楽しいんだろうね。聴いている方もほっとしていられたんだ。もちろん、歌う彼の声もなかなかだったがね」
「確かあれだろう、青大附高に外部から入ってきたという子だろう?」
上総に父が質問してくるがここで答える必要はないと考えあえて無視した。印條先生の話に集中する。
「私が言いたいのはね、上総くん。今上総くんの演奏は二本目のテープの人とほぼ同じ感触なんだ。どうも聴いていて、楽しくない。特に『恋はみずいろ』はね。せっかく二週間もあるんだから、そこのところをゆっくり掘り下げてみてはいかがだろう。ほら、立村くんも、ここまで話せば息子さんにも伝えやすいのではないのかな?」
困惑した父がうつむいて頭を掻いているのが、上総には不可解だった。




