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その十一 聴き比べ(2)

 あまり快適ではないドライブも事故なく目的地に到着した。テープをケースにしまい直してカバンにしまうと父が見とがめた。

「どうして持ってきたんだ」

「必要かなと思って」

「練習するだけだろうに」

「いや、上手な人の曲を参考にすれば、少しはうまくなるかなと思っただけだって」

 やたらと父はつっかかってくる。何が面白くないんだか。


 一週間しか経っていないのに海から吹き付ける風は痛いくらい冷たかった。父がまた丁寧にドアホンで挨拶すると、すぐに入口が開いた。印條先生の奥さんが笑顔で迎えてくれた。二度目ということもあり、上総に対する接し方も少しくだけていた。

「さあさ、お待ちしてたのよ。上総くんいらっしゃい。立村さんもまあ、朝早くから恐れ入ります。主人は今、準備してますのでしばらくお待ちくださいね。部屋にご案内しますのでどうぞどうぞ」

 恐縮しつつ父が先に靴を脱ぎ揃え、上総もそれにならった。入ったとたん漂ってくるのはかすかなハーブ草の香りだろうか。

「もうよろしい? 立村さんおふたりお連れしたわよ」

 部屋の扉前で奥さんが呼びかけると、「入りなさい」と機嫌よさげな声が聞こえる。父がまた一礼し、ドアノブをひねる。中に入るとすでに部屋は明るく開け放たれていて、ピアノも蓋があいたまま準備されていた。

「お待ちしてましたよ、立村くん。上総くんも先日はわざわざ手紙をありがとう」

「いえ、こちらこそ」

 一応父に従って、お礼の手紙をしたためたのだが、いたってありきたりなことしか書かなかった。一度お会いしただけでさらさらと筆が走るようなタイプではない。父がまたぴりぴりしそうな予感がしたので、投函する前に一応推敲を頼んでおいた。間違いはないはずだ。

「では、さっそくだが稽古に入ろうか。立村くんはお茶が入るだろうからゆっくりくつろいでもらいたいな。さ、上総くん、準備はいいかな」

「はい」

 目的はひとつ。一切ぶれない。父にちらと牽制の視線を投げておき、上総はカバンから台紙に貼り付けたコピーの楽譜を取り出した。先週よりはたぶん、ましに弾けるだろう。いや、そうでなかったらいろいろ困る。触れて二回目の鍵盤は、初めて弾いた時よりも自然と指に馴染んでいいるような気がした。


 一通り上総が演奏するのを隣で座ったまま聴いていた印條先生は、開口一番、

「『モルダウ』の方は良くなっているね」

 予想外の言葉を放った。上総にとっては拍子抜けだった。なにせ二曲連続で弾いたがほとんどミスタッチがなかったのが「恋はみずいろ」で「モルダウの流れ」はもう和音から何からぐちゃぐちゃな仕上がりだった。難易度が違うというのもあるのだが。

「注意深く弾く必要があるところもあるが、歌いやすさや聴きやすさからすると少しずつ仕上がってきている印象があるよ。それに比べると『恋はみずいろ』はかなり苦労しそうだね。今ひとつ、掴みきれてないような気がするんだが、そうじゃないのかな」

 言葉に迷う。いや、目の前の父がまた苛立ちそうなので言葉を選ぶのに迷う、といった方が正しい。やはり父が助け舟を出してくれた。

「素人の考えですので恐縮ですが、今二曲息子が弾いた内容だと、最初の方が間違いもなく無難にこなしていたようなんですが、やはり違いがありますか」

「そう、確かに無難なんだよ。立村くんも本当は気づいていると思うんだがね」

 含みを持たせた言い方を印條先生はする。つかみどころがない。上総の隣でじっと楽譜に見入り、

「譜読みはきちんとできているし、音感も人並み以上にあるようだからたぶん無難にこなすことはできる。ただ、人に伝わるような表現ができているかどうかとなると、私は『モルダウの流れ』の方が上のように思うね」

「まあ合唱コンクールレベルですし、息子にそこまでのセンスを求めるのは難しいかと思いますが」

 謙遜しているのか馬鹿にしているのかわからない言い方で父が口を挟む。いつのまにか奥さんが父のために飲み物を運んできてくれたらしく、時々グラスに口をつけている。

「いやいや、いくら君の息子さんだからといってそこまで卑下するのはよくないよ、立村くん。君も本当は感じているはずなんだよ。まだ二回しか会ったことのない私が上総くんのことをある程度読み取った程度のことは、父親である君も理解しているはずだ」

 ──何がなんだかわからないよ。

 自分のことをまな板に載せて、わかるようでわからない言葉でもって論じている様子は実際魚として扱われている上総にとって面白いものではない。「恋がみずいろ」に物足りなさがあるのであれば、どういう弾き方をすればいいのかを教えてもらいたいと思う。少なくとも上総は、テープを何度も聴きかえしては真似すべきところは真似して、関崎の歌声でおおよそのところは合わせてみてイメージしたつもりだった。

「まあ、あとでゆっくりその点は語り合うことにしよう。技術的な部分から先にいくとしようか。上総くん、では問題の『恋はみずいろ』をもう一度最初の前奏のところだけ弾いてもらえないかな。そこでゆっくり直して行こう」

 言われた通り前奏を両手で弾いた。特に変わったことは言われなかった。音をなめらかに。ふくらませるように。聴かせるように。ごくごくありふれたことばかりだった。


 一通り弾き方に関するレッスンは三十分弱で一段落した。

「まずはひとやすみしよう。それからもう一度しっかり練習することにするか。上総くん、お父さんと一緒に飲みなさい」

 見ると父の隣には、白い液体の入ったグラスが用意されている。

「ヨーグルトドリンクのようなものだよ。よくカレーの付け合せで飲むものがあるだろう」

「ラッシーですか」

 父が膝を打つ。お互いに頷き合っている。

「そうそう、本場のラッシーにはかなわないが我が家では健康のためにヨーグルトを泡立てて朝一番飲むようにしているんだよ。上総くんは乳製品大丈夫かな」

「大丈夫です。今日も牛乳とコーンフレーク腹いっぱい食わせてきましたから」

 ありがたく飲み干した。ヨーグルトドリンクはしっかり冷えていて適度にすっぱくて気持ちいい。甘いものよりやはりこちらのほうがいい。

「腹持ちのよいものはまたレッスンが終わってからにしよう。ところで先ほどの話、蒸し返すようなんだがよろしいかな」

 印條先生は自分のヨーグルトドリンクを口にしつつ、上総ににやりと笑いかけた。どう返事すればいいのか父の顔色を伺いつつうつむいてみる。

「ぜひお聞かせください。僕も自分で自分がつかめていないのもありますからね」

 また穏やかに父も返す。かなり砕けた言い方に聞こえる。

「そうだね、まず前回と今回、上総くんのピアノの弾き方を見てきて感じたことを現段階でまとめるとしようか。さすが、お母さんの仕込みがよかったのか基本的なところは身についているし、さらに独学するだけの能力もある。これは大事なことだよ。人から教えられるのを待つのではなく、自分で学ぶべきものを取捨選択できるというのはね。ちゃんとひとりで譜読みもし、ここまで仕上げたのは彼の努力だろう。だが、ね」

 ここでいたずらっぽく印條先生は父を指差した。

「立村くん、ここはやはり男親として感じてもらいたいことなんだよ。君も上総くんくらいの時、何を考えていたか、何に飢えていたかを考えればね」

「僕の高校時代を思い起こせば、ですね」

 ふっと飲み込めたような表情で父は軽く微笑んだ。ちらと上総にもその微笑みを分けるように見た。

「もちろんこの年頃の男の子は照れもあるだろうし難しいところもあるのは、いかんせん私も高校生経験者なのでわからなくもないよ。だが、上総くんの場合は何か伝えたいことがあふれんばかりに身体の中に詰まっているのに、なぜかそれを押さえ込んでいるようなところがある。いや変な意味ではないよ。それもまた青春。だが、今ピアノで表現する機会があるのならば何かを一気にさらけ出すようなものがあってもいいんじゃないかなと感じた次第なんだ」

 印條先生は続けた。上総に向かい、笑いを消した。

「『モルダウ』ではその気持ちがそれこそ波打つがごとく溢れているのを感じることができた。それがなんでだろう、『恋はみずいろ』では他人事のように、そんなの知らないよといった雰囲気しか感じられなかったのはなんでだろうね。合唱コンクールで完結するものと言われればそれまでだが、せっかく君の感情をピアノというものでさらけ出す機会をもらったんだ。誰にも責められない形でなら、利用しないてはないだろう?」

 ──利用?


 ますますわけがわからなくなった。印條先生という御仁、やはり上総には謎が多すぎる。腑に落ちた顔で上総をにやけながら見守っている父にも思い切り足を蹴飛ばしてやりたい気持ちしかない。

 ──要するに「恋はみずいろ」は無難すぎてつまらないってことか。もう少し派手に弾けってことなのかな。それはそれで、なんだか難しいよな。

 とりあえずは拝聴するにとどめた。 

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