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その十一 聴き比べ(1)

 あっという間に日曜日の朝が来た。早く起きて身支度するのはいつものことだけど、違うのは父も上総よりはるかに早く目覚めていることだった。目をこすりながら洗面所に向かうとわざわざ匂いの薄い整髪剤を手にとって髪の毛になでつけている父がいる。

「早いな」

「あ、おはよう、ございます」

 普段言わない「ございます」まで口走ってしまうくらい意外だった。

「すぐに洗面所空けるから待ってなさい」

「いいよ、急がないし」

 部屋に戻り、昨夜遅くまでいじっていたキーボードに電源を入れて見る。さすがに近所迷惑だからボリューム絞って弾いていたのだが、音が鳴らないと今ひとつ練習した感覚が残らない。かばんに楽譜を入れ、ついでにテープも押し込んだ。昨日こずえから借りてきた我が英語家ピアニストふたりによる演奏テープも一緒に入れた。元のテープではなく、ちゃんとダビング済みのものをだった。

 ──聴き比べると確かに三人とも全然違うよな。

 どちらにしろ上総の手には届きそうにないレベルの演奏だとはわかっているが、やはり松竹梅の差ははっきりあるような気がした。


 顔を洗ってさっさと食卓についた。簡単にいつものコーンフレークを用意した。面倒なのでひとにぎりレーズンを混ぜ合わせるだけにした。父と無言でひたすら食べた。時間は六時半。問題なく七時過ぎに出発できそうだ。

「なんとかなりそうか」

 こちんと皿の音が鳴り、全部平らげた後父は上総に質問した。

「たぶん、なんとかなると思う」

「練習はしてるか」

「してるよ。当たり前だろ」

「夜中まで賑やかだったものな。まあいい。今日もしつこいようだが印條先生には礼儀正しく振舞うようにしてくれよ。この前はまさにはらはらさせられっぱなしだったからな」

「俺は常識の範疇で行動してただけだってば。父さんひとりがあせってただけだろ」

「そう言うな。お前も調子に乗りすぎてたぞ。まあいい、どちらにせよピアノの稽古だけはしっかりするんだぞ」

 ──わかりきってること言うなよな。

 朝の時間が経つにつれて父のぴりぴりメーターもだんだん上がってきているのがわかる。普段は物静かな父がこんなにいらいらするのを見るのはそれほどない。一体あの印條先生が父とどういうつながりを持っているのか興味深いところではあるが、そうそうしっぽを出すとは思えない。上総としては息子として最低限の礼儀を保てばいいだけの話だ。

「それとだ、上総、もし今日、印條先生から母さんの話を振られた時にはな」

 いきなり父の声音が変わった。低く、深く。

「大丈夫だってさ、母さん最近うちに来ないだろ。忙しいんだって言っとくよ」

「そういう馬鹿なこと言うな!」

 声を荒げた父を、上総は思わずまじまじと見た。テーブルが少しだけ揺れている。

「確かに最近母さんは忙しいかもしれないが、お前のいない間しょっちゅう父さんに連絡をよこしている。お前のことを忘れているわけじゃない。そういうことをきっちり頭に置いておけ。まかり間違っても、母さんがいなくてせいせいしたとか、母さんがいる生活はのびのびできるとか血迷ったことを決して口にするなよ!」

「なんで」

 父にまで気を遣いたくない。はっきり尋ねてやる。

「別に俺は嘘言ってるわけじゃないのに、なんでそんなに苛立つんだろうな父さん」

「お前のほうこそ一方的に母さんのことを避けすぎてるんじゃないのか」

「避けてないよ。避けてたらなんで結州に手伝いに行くんだよ」

「そういう問題じゃないだろ。とにかく、母さんは戸籍上はともかく、父さんとお前と家族であることには変わりないんだからな。それがわからないようだったら車の中から叩き落とすからな。覚悟しとけ」

「ああ、覚悟しとくよ、ごちそうさま」

 上総は立ち上がった。ふたりぶんの空の皿をひったくり、台所で水洗いした。台所の窓を締め切ったままだったので開けて空気を入れ替えた。水道の蛇口をひねり思い切り水を流した。これで思い切り頭冷やせと父には言いたい。ぶっかけたい。

 気まずい雰囲気が三十分近く続いても、出発することには変わらない。持ち物一式を確認し、スーツに着替えて黙ったまま上総は車の助手席に乗り込んだ。父もそのあとにすぐ運転席へ滑り込みシートベルトをつけた。上総がそっぽ向いているのに気づいたらしく、

「何子どもみたいなことやってるんだか」

 ぼそりとつぶやいていた。知ったことじゃない。今日も秋の空は爽やかだが、もう長袖で十分過ごせる時期であることは確かだった。通り道にトンボが飛んでいるのを見かけた。


 父がカーステレオでテープをかけようとしているのに気づいた。片手でハンドル、片手でカセットテープ入れをいじっている。傍目から見て危険としか思えない。それまでずっと黙っていた上総だが、身の危険を感じた以上しょうがない。父に話しかけた。

「父さん、テープなんてかけないでいいよ」

「うるさいな、お前に用がなくても父さんには必要なんだ」

「普段何もかけてないくせに」

 やはり気詰まりなのだろうとは思う。ただ運転する父にはハンドル握ることに専念してほしい。

「テープ探すなら、言ってくれれば俺がやるって」

「お前に探せるわけないだろ」

「だったら、俺の持ってきたテープかけていいかな」

「テープなんか、お前持ってきたのか?」

 驚いたふうに、それでも目線は赤信号に留めたまま父は尋ねた。まだ青潟市街に入ったばかり。もう少しドライブに時間がかかりそうだ。

「同級生に頼んで合唱コンクールの曲を弾いてもらったのがあるんだ。練習替わりにしたいからかけていいかな」

 思いついたから言っただけだったが、部屋以外の場所で聞きたい気持ちもある。車という密室のなかだったら集中して聴き取れるかもしれない。

「そんなテープあるのか」

「クラスにピアノ弾ける人がふたりいて、あと男子で歌の上手い奴がいる。お手本用に頼んだテープなんだけど。俺が弾いたわけじゃないから、下手すぎて気分悪くなんてことはないよ」

 少し渋滞にぶつかったらしい。なかなか進まない。もっともまだ七時二十分くらいなので到着に余裕はある。父はゆっくりアクセルを踏みつつ答えた。

「わかった、せっかくだから聴かせてもらおうか。これからお前のさみだれをいやという程聞くわけだし、耳を消毒しとかないとな」

 ──ひどい言い草だ。

 むっとしつつも否定できない現実がわびしい。上総はカバンからテープを取り出してカーステレオの口に押し込んだ。

 背中のカースピーカーから流れてきた「恋はみずいろ」の音色と男性ボーカルによる響きある歌声。改めて無言のままふたり聴き入るのみ。父は歌の出だしで一瞬目を見開いたようだが、すぐに視線を道路の向こうに置いたまま運転に専念した。幸い、安全運転で揺れることもなくなだらかに車は進んでいた。A組バージョンの演奏で、次にすぐ「モルダウの流れ」へと雪崩込む。疋田さんと宇津木野さんの演奏がいかに豊かな感情の伴ったものなのかが上総には強く伝わってきた。少なくとも瀬尾さんの演奏には欠けていたような気がする。


「お前、今弾いていた人たちを押しのけて、本当に伴奏するのか」

「そうだよ。押しのけたわけじゃないけど」

 テープを入れ替えて瀬尾さん伴奏バージョンを再生しようとした上総に父が尋ねた。

「ほんとにお前のクラスは災難だな」 

 しみじみ父はつぶやいた。

「親としても責任問題だな、これは」

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