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その十 あねおとうと(4)

 上総にとっての本題、ピアノレッスンに向かう。

 といっても女子三人はひたすらおしゃべりに没頭していてくれていて、かえって都合がいい。本当はこずえもふたりを連れて部屋にこもりたいのだろうが、それこそ男子ひとりを居間に残すわけにはいかないという現実もあるわけだ。

「じゃあ立村、あんたひとりで勝手に弾いてなよ」

 こずえのお許しも得て、上総はピアノと向かい合った。楽譜を立てる前に自分の顔が正面に映り込む。もうひとりの自分がいるような気がした。


 ──こちらはなんとか暗譜で行けそうだな。

 最初にさらったのは「恋はみずいろ」だった。メロディがわかりやすいのですぐに覚えられたというところもあるが、肥後先生が選んでくれた楽譜が極めて簡単だったというのが上総もなんとか形にできた理由だろう。キーボードで毎日一時間から二時間は練習しているが、やはり得意な曲を優先して弾いてしまう癖がある。

 関崎の歌声と女性らしい響きの歌詞とがなぜかぴたりと合っていて弾きながら驚いた。やはり関崎は心底歌うことに向いているのだろう。本当に指揮者に回してよかったのだろうか。やはりソロパート必要なのではないだろうか。

「立村くん、よくここまで弾けるようになったね」

 拍手はないが、美里が褒めてくれる。振り返った。

「なんとか。俺にとっては奇跡かもな」

「ほんと。でも立村くんなら大丈夫だと思ってたから実はそんなに心配してなかったんだ」

 こずえと霧島さんがほうといった目で美里を見る。いかにも信じられないかのような眼差しはやめてほしいと思う。

「だって、『エリーゼのために』あれだけ弾けるんだもん。ね、あんな長い曲を先生につかないでひとりで練習してるんだもの。すごいよ。私も小学時代ピアノ習ってたけど、自分ひとりじゃ続かないよ。誰かに教えてもらわなくてもここまでできるって」

「いや、それ大げさ。今回に限っていえばいろいろな先生に手伝ってもらったから」

 あえて野々村先生の名は出さず、美里もそれ以上つっこまなかった。

「でもさ、これからが問題だよ、歌に合わせる必要が出てくるし、楽譜じゃなくて指揮者見なくちゃいけないしさ」

 指揮者について触れていいのか迷ったが、不自然なのであえてそのまま突き進む。美里も顔色変えずにそのまま話を受け入れてくれる。

「指揮者、関崎くんだもんね。がんばってるよね」

「本当によくやってる」

「うちのクラスもなんか一生懸命練習始めてるみたいだけど、私を含む何人かが集まれないってことでそうとうおかんむりの様子なんだよね」

 話を逸らすつもりなのかたまたまなのかはわからないが、そのまま続ける。

「もちろん私だって真面目にやるつもりだけど、今日は都合があるんだものしょうがないもんね。あーあ、でもなんかやっぱり逃げるわけいかないなって気するから、あすの稽古には出るつもり」

 こずえと霧島さんは少し離れたところでふたりだけのおしゃべりに興じている。おそらく美里を放っておこうという思いやりのような気がする。そのあたりの気遣いできるのがこずえの本質だと上総はよく知っている。

「あす、B組の練習があるのか」

「うん。さすがに今日さぼってあす休むわけいかないしね。私もソプラノパートだし、合唱するのも好きだし、頑張るつもり」

 あまり深いことを言うつもりはなかった。そのまま上総は次の曲で難関の「モルダウの流れ」楽譜を広げ直した。

「本当はこっちのほうが課題曲っぽいのに。変な学校だよね、青大附高って」

 ひとりごとのようにつぶやく美里には返事をせず、上総はゆっくり前奏に入ることにした。かんたんな楽譜なのかもしれないが、演奏者によって全く表情を帰る音色を上総は理解しているつもりだった。ゆっくり、深く掘り進む。


 ──こちらの曲の方が俺には向いてるかもな。弾けるかどうかは別として。

 決して「恋はみずいろ」が苦手というわけではなく、単純に好みの問題だ。なんとなく「恋はみずいろ」の歌詞が男女の恋愛を匂わせるような甘酸っぱさがあり、口を大きく開いて歌うには抵抗があった。いや、共感がどこかし難いところがある。反面、「モルダウの流れ」の歌詞は男子にとっても歌いやすい。大きくいえば「愛」なのだろうがそれが「祖国愛」であり「自然への愛」「生きていく人々への愛」と広がっていき、決してひとりの「恋愛」につながっていかない。そこで安心するところがある。

 曲途中のふくらませかたについては、先日のミニ・コンサートの宇津木野さんの演奏を参考にした。手が届くわけもないけれども彼女が弾いている時確かに大河が見えたような気がしたからせめてそれをなぞりたい。瀬尾さんの弾き方よりもはるかに深い音色だった。

「立村くんはこっちの方が向いてるよね。なんかそんな気する」

 美里は立ち上がり、弾き終わった上総の隣に立った。指一本で鍵盤を押す。重たい音がした。

「自覚あるよ」

「やっぱりね。なんか立村くん、自分の気持ちをそのまま注ぎ込める曲を探し当てたって感じがするんだよね。上手い下手わかんないけど、それだけは伝わってくる」

「まだまだ。『モルダウ』は難しいよ。他の人たちが弾いたのとか聴き比べているけど全然感情の入り方が違うんだ。やはり世界が違うなあってさ」

「よくわかんないけど、私は立村くんの弾き方、好きだけどなあ。もう少し、繰り返し弾いてよ。私黙って聴いてる。嘴挟んだりしないから」

 ──つまりは練習しろってことだよな。

 美里の耳からしても、「恋はみずいろ」と「モルダウの流れ」との出来栄えの差は明白だったのだろう。気持ちを切り替えてもう一度最初から弾き直そうとした。その前に美里が不意に呼びかけた。

「立村くん、私、歌っていい?」

「歌える?」

 こんな伴奏で、と言いかけた。

「もちろん。中学校の音楽の教科書に載ってたじゃない。ちゃんと歌詞覚えてるってば。ほら、もっかい、最初から弾いて」

 美里のパートはソプラノだった。キーを上げたほうがいいのか悪いのかわからない。きっと美里は合わせてくれるだろう。それに任せて上総も鍵盤に指を走らせた。曲のテンポが早くならないように、とそれだけは気をつけた。背中がだんだん人の気配で暖かくなってくるようだが振り向かずに弾き続けた。ピアノにふたり、人が映っている。


「美里、ソロうまいじゃん。さすがカラオケで鍛えてるねえ」

「そんなんじゃないってば!」

 いつのまにかこずえと霧島さんがふたり、美里のそばに寄り添っていた。最後まで弾き終えた時、女子っぽくじゃれあっている。

「ねえ、ゆいちゃん、一緒に私たちも歌おうっか。確かさ、ゆいちゃんいた時、C組の合唱コンクールの自由曲、『モルダウの流れ』じゃなかったけ」

 霧島さんの反応を見ると、いつの間に乗ってきている。かつてのおきゃんな雰囲気がもどりかけているようにみえたがやはり消えている。

「そうね、この曲なら歌える、きっと」

「そいじゃ、お抱えピアニストにもっかい弾いてもらわなくっちゃあねえ。ゆいちゃんと美里はソプラノ、私はアルト、ほら、さっさと弾けっての!」

 背中をどつかれて、しかたなく上総はもう一度鍵盤に指を置いた。



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