その十 あねおとうと(1)
一年英語科ミニコンサートが行われて二日経つも、今だにその熱気は冷める気配などなかった。クラス全員が集まって確かなる「音楽の真実」を見てしまったのだからしかたのないこととはいえ、
「うちのクラス、他にも吹奏楽やってる奴とかいっぱいいるんだからそいつらも含めてまたああいうのやりたいよね」
「ほんと、観客だったら楽しいよね絶対!」
今まではなんとなく「上手」としか思っていなかった宇津木野さんと疋田さんのピアノ演奏がそれぞれ個性のはっきり分かれたものだったということから始まり、関崎の深く響く歌声などもクラス全員の前で明らかにされたというわけだった。こずえも関崎のカラオケマニアっぷりを他の女子たちに話していなかったわけではなかっただろうが、実際目の当たりにするとそれぞれ思うところもあるらしい。
「関崎くんはねえ」
「すごいよねえ」
もともと外部生の中でも本人の意図とは別に目立ちきっている関崎のこと。女子たちも最近はなぜか関崎に対して熱いまなざしを送ってきているようだ。もっともそのことを気づいているとはどうも思えない関崎、相変わらず外部三人組で行動してはいろいろと自由研究について話し合っているようだった。上総が直接確認したわけではない。図書館でたまたま盗み聞きしたらしい女子たちの噂からすると、全くもって勉強の話しかしていなかったらしいと、だけのことだ。つまりまだ、恋心の混じる気配はなしということか。
「立村、これからどこに行くんだ?」
「古川さんの家でピアノ弾かせてもらうつもりなんだ」
土曜の放課後、上総がかばんに教科書とノートをまとめて廊下に出ようとすると関崎に呼び止められた。
「そうか、練習しているのか」
「当たり前だよ。あんなすごいの聴かされたら、俺もプレッシャーだし」
冗談めかしてつぶやいたつもりだったが関崎は真に受けたらしく、
「いや、俺もこの点はお前に誤解させてしまったようで申し訳ない。俺としてはただ、立村の参考になればと考えていただけだったんだが、かえって縛り付けるようなことになってしまった。読み違いだった」
「関崎は悪くないから気にするなよ。俺が練習すればいいだけの話なんだからさ」
あのミニコンサートで変わったことを上総に絡めて言うならば、
──一年英語科の合唱コンクールは、本来レベルの高いピアノ人材が揃っているにも関わらず、結局自宅で練習するのも困難な奴がちんたら弾くに過ぎないみじめなもの。
という現実をクラスメートたちに突きつけたということだろうか。実際上総にとってはこの二日間針のむしろとまではいかないけれども静電気ぴりぴりしそうな環境にいることは自覚していた。否定は全くできない。比較対照外、とも言う。
「自分が指揮者として練習する以上、お前にとことん合わせる。一緒にがんばろうな」
関崎はあまり深いことを考えていないようであっさりと答えた。自分のかばんをぶら下げて上総と肩を並べて教室から出た。
こずえと美里とは人目を避けて直接古川邸マンション前にて待ち合わせる予定だった。本当ならばそろそろパート別練習から全体練習に切り替えなくてはならない時期なのだが、あえて上総のピアノ演奏が整うまで時間を稼いでもらっている。こずえともその点の打ち合わせはしてある。とりあえず、最後まで弾くことが出来るレベルには持っていくということだ。
「明日もピアノの先生に習いに行って来るから、月曜からは普通に伴奏できるレベルにたどり着ければな」
「家ではどうやって練習しているんだ? 古川から借りたキーボードか」
「それだけじゃない、この前のテープあるだろ。あれを毎日聴いてる。ひたすら聴き込んで、少しずつ耳慣らしているんだ」
風がひんやりする。空は青空なのになぜか遠く感じる。ふたり合唱コンクールのことでしばらく語らった。
「耳慣らしとはいったいなんだ?」
興味深げに関崎が尋ねてくる。
「ピアノの練習方法。毎日のようにひたすらテープで音を何度も聴きとって、それをまねて、なんとなくこんな感じかなって練習していくとなんとかなるんだ。関崎の歌にひっぱられそうになるけれども本番は全員の合唱だからその点覚悟もできるしさ」
実際その通りだった。家に帰り、改めて録音させてもらったC組瀬尾さんの演奏を何度も聴きながら、キーボードを叩いた。今日もこずえ宅で聴きながら美里含め意見をもらいつつ練習しようと思っている。
「そうなのか。だが俺が思うに立村」
何度も、同じことを関崎は訴えてくる。
「お前は別にあのふたりと同じレベルを求める必要はないんじゃないかと思う。俺もピアノの世界はちんぷんかんぷんだが、たぶん音大かどこか行くつもりなんだろう。そういう奴は毎日五時間くらいピアノを練習して、スパルタ音楽教師にしごかれて毎日苦労していると聞いている。それも小学校入る前から厳しい特訓ともな」
いかにもステレオタイプな音大を目指す学生の姿を関崎は描いた。
「ずいぶん詳しいな」
「いや、学校にひとりかふたりはそういう奴がいるだろう」
関崎は続けた。
「俺からすると耐えられたもんじゃないが、そういう音楽漬けの生活を送っている人と、こういったらなんだが自己流で練習している立村を比較するのはやってはいけないことだというのもよくわかっている。俺は、お前が自分から伴奏をやりたいと言い出したことそのものに価値があると思っている。たとえどんなにテンポを崩そうが間違えようが俺はお前を責める気などない。とことん俺がフォローする」
自信たっぷりに言い切る関崎を、上総はため息をこらえて微笑み返した。
「ありがとう。恩に着る」
──相当こいつ、俺のことを見くびってるというか、まあ事実を見ているというか、なんていうんだろう。全く、本気でやらないとまたこんな言い方されて慰められるんだろうな。関崎、本心でそう言ってるから、下手なこと言い返せやしないよな。
改めて決意した。冗談じゃない。意地でもこの二日間で完成させてやる。
かばんの中に納まった楽譜はすでに頭の中にしっかり刷り込まれている。暗譜まであともう少し。
関崎と校門前で別れ、上総はそのまままっすぐこずえの住むマンションへ向かった。
ひとりで歩いているとやはり秋風の冷たさを芯で感じる。半そでが少し辛い。そろそろカーディガンを持ち込もうかと本気で思う。
──けど、あのテープで本当によかった。
まだ誰にも口にしていない本音をひとり歩いている間考えた。
──宇津木野さんや疋田さんのような感情溢れる弾き方だったら、たぶん俺にとってお手本にはならなかったよな。まねしようがないしさ。
まだ青々としたプラタナスを眺める。隣りをすり抜けていく高校生、中学生たちがたくさん。同じ高校の連中はいなかった。
──初めて聞いた時も思ったけど、瀬尾さんの弾き方が俺には一番しっくりくるかもしれないような気がする。あの人の弾き方ならなんとか、まねられるかな。ずっと目立たないように、気づかないように。下手じゃないけど、あまりこれぞっていう個性が特出してなかったような感じがするんだよな。何度聞いても、関崎の歌だけがどっと押し出されていて、伴奏は弾いているんだかどうだか分からない。けど、うちのクラスのふたりだと関崎よりもピアノのうねりに飲み込まれるようだし。
偶然の産物とはいえ、上総としては瀬尾さんに心から感謝している。とりあえず自分の目指すべき方向はこちら。いるかいないか分からないくらい控えめに、それでもしっかり旋律を保たせる。これで行こう。




