その八 関崎との呼吸(4)
それにしてもあぶなかった。いろいろな意味において、
──B組の人たちがいるとはな。
救いなのは美里が混じっていなかったこと。この点だけは助かった。わらをも掴む思いで関崎にしがみついたはいいが、美里と静内とのにらみ合いが続いている状態で音楽室に入ろうものならまたどんぱちが起きぬとも限らない。いや、どちらにしてもB組担任の野々村先生が上総を露骨にひいきするような顔してくっついてきたら、また別の問題が起きるのも確実。どちらにせよ、今は回避できてなによりだ。
取り急ぎ、時間もあまりないしピアノの練習に没頭することにする。こずえから借りたキーボードもかなり役に立つのだが、やはり押した感触がピアノとは全く異なる。やわらかい感じと言えばいいのだろうか。思い切り叩いてその力の強弱による違いがない。ペダルも踏めないのでどことなく音色がぶっきらぼうなまま。その点本物のピアノだと、下手な演奏でも少しは色がついてくるような感覚が確かにある。
「恋はみずいろ」から弾きはじめてみることにする。グランドピアノの前に座っている女子も何か聴き慣れない曲を一生懸命練習している。同じ部分の繰り返しのようだ。何度も和音を確かめるように弾いている。B組グループとは全くの別世界にいる。
「立村、これ、自分ひとりで練習して弾けるようになったのか」
いつのまにか関崎が後ろにいる。ピアノの木目に映っているのですぐ気づいた。
「厳密に言うとそうじゃないけど、まあ、ある程度は」
「だったら、本番まではなんとかなりそうなのか」
「弾くだけならたぶんね。ただ、これから合唱と合わせなくてはならないからさ」
だから関崎に手伝ってもらうつもりで呼んだんだ、そう言い掛けた。関崎が遮った。
「一応指揮の方法は先生から習ったんだが俺には全く何がなんだかわからん。本当なら歌うだけに専念したかったのだが、藤沖があそこまで言うのなら仕方ない。なんとかしなくてはならない」
関崎なりにいろいろ考えてはいるのだろう。ただ上総も指揮者を一度経験したことがあるけれどもそれほど大変だったという記憶はない。たぶん他の同期だった男子評議たちも同じ感想じゃないかと思う。
「俺の記憶だと伴奏の時誰も指揮者のほうなんて見てなかったような気がするな」
「それはないだろう?」
「いや、そうだったと思う。みんな好き勝手に合わせて歌っていたし俺がやってたのは歌うタイミングを計ることと、とりあえず盛り上げる時は手を大きく広げるとか、最後とめるところを間違えないようにすることくらい」
確か、そうだった。誰からも文句は出なかった。
「本当にそれでいいのか。俺たちも合唱コンクールは経験したがかなり熱心にやったぞ。とりあえず合わせてみるか」
「そうだね」
改めて「恋はみずいろ」を弾き直した。関崎の方を見る余裕はない。まだ楽譜と鍵盤のみ見つめるに留める。関崎が一生懸命両手で縦線を描くように振り始めたのだけは確認した。B組連中の細いハーモニーとグランドピアノの全くかみ合わない伴奏練習と「恋はみずいろ」のなだらかなリズムとが混じりあい、うるさくはないがまだらな音色が響き渡った。
「だいたいこんなところだけど、ちょっと弾き間違えた。ごめん」
かなりゆっくりすぎるくらいゆっくりと弾いていたのだが、和音を押し損ねたところが何箇所かある。それでも止めるわけにはいかないので一気にラストまで押し切った。
「俺もよくわからないんだが、指揮者のほうを本来は伴奏が見てやるんだろう」
「そう。本番ではそうしないと」
関崎は腕を組み首をひねった。
「とにかく俺がやらねばならないのは、曲を完璧に覚えて、どのくらいのスピードで持っていくかを決めないとまずいということだな」
「そうだね。テンポは関崎が決めてくれないとまずいよ。俺もそれに合わせられるかという問題もあるんだけど。中学の合唱コンクールではとにかく、スピードだけは歌いやすいようにするよう練習したよ」
「テンポか」
しばらく上総の座っている椅子の後ろを何度も往復していたが、
「ひとつ思ったんだが」
切り出した。
「やはりここは歌がないとつかめないだろ」
「確かに、合唱とあわせたらまた変わってくるだろうしさ」
「だったらこれから俺が歌って見る。立村、それに合わせてやってみてもらえないか?」
──え?
頭の中が蚊に刺されたようにじんわり熱くなってきた。思わず振り返って関崎の顔をまじまじと見つめてしまった。関崎は別段ふつうのことを話しているようなつもりでいるらしい。
「そんなに変か? いや俺としては、実際歌のテンポがどのくらいかを確認するなら生歌でやるほうがずっといいと思うんだ。俺も正直、歌がうまいとは思わないが、それなりに記憶はある。ああそうだ、『モルダウの流れ』ならフルでいける」
「関崎、あのさ、それ、ここでか?」
ここは少なくともカラオケボックスではない。
「それに他のクラスの人もいるしさ。ピアノ練習している人もいるし」
「いやみんな歌っているか弾いているかだろ。それぞれ別々だ。気になるなら断ってくる」
上総が止める間もなかった。関崎はまずB組でいろいろ指導中の静内菜種に駆け寄り、何かを説明していた。笑顔で静内が頷くと今度はグランドピアノの女子に何かまた挨拶をしている。そちらは無表情で頷いている。とりあえずなんとか承諾は得られたようだった。戻ってきた関崎はすぐに上総に親指を立ててOKの合図を送り、
「みな、少し待っててくれるそうだ。すぐやろう。『モルダウ』は弾けるか」
「たぶん」
「恋はみずいろ」と違い、「モルダウの流れ」には少し手を焼いていたがそんなことは言えない。上総は呼吸を整え背を伸ばした。後ろを振り返り軽く会釈でB組およびグランドピアノの女子に返した。と同時に、弧をそのまま持ってくるようにみな興味深げに近づいてくる。なぜか、東堂がにやにやしている。
「関崎いったい何言ったんだ」
上総が小声で問い正すと、関崎は当然といった風に胸を張った。
「せっかくだったら本番と近い雰囲気の方がいいから、聴いてもらえないかと頼んだんだ」
「ちょっと待てよ、それまだ早いだろ?」
慌てる上総を自信ありげに関崎は制した。
「大丈夫だ。どうせ練習だ。失敗は早いほうがいい」
「そういう問題じゃないって!」
こいつはいったいどういう思考回路をしているのだろうか。やる気に溢れて合唱コンクールに向かってまっしぐらに進んでいる、それは悪くない。初めての指揮者としても怖気づくことなく努力と根性で突っ切ろうとしている。しかし、またもその中に引きずりこもうとするのか。一度や二度ではない。関崎とからんでからというもののこういうパターンがあまりにも多すぎる。
「関崎も歌うの好きだよね」
近づいてきた静内が関崎に話しかけ、肩を軽く叩いている。上総には目を向けようとしない。他の女子たちも声こそかけないが関崎だけに視線を集中させている。一方男子連中は上総を見ながら、
「へえ、立村ピアノ初公開じゃん。見ものだぞこりゃ」
などと茶化している。もろ、見世物状態であることに代わりはない。
──あの野郎、あとでとことん文句言わないとな。クラスでもまだ弾いてないってのに!
しかたなく指を鍵盤の上に載せ、指を思い切り長く伸ばしつつ弾き始めた。なんとか最初は間違えずにすんだのが救いだ。できるだけテンポが速くならないように意識しながら、関崎の歌声に合わせてリズムを刻んだ。関崎の声質については、二回もカラオケボックスでご一緒させてもらったのだからよくよくわかっている。さらに音程に崩れがないことも、非常によく響く歌声ということも。聴くだけでいかに関崎がのりのりなのかがよくわかる。こいつの歌好きぶりはマイクがなくても十分いける。二度あることは三度ある。もう疑いなし。
無事弾き終えた後、一瞬の間があり、B組連中からの大きな拍手とため息、上総が振り返るとグランドピアノ側からも上級生の女子が笑顔で激しく手を叩いているのが見えた。
「やるなあ、関崎、指揮者なんてもったいない、なんで合唱にまわらなかったの。私だったら絶対そっちに回したのに」
「うちのクラスにはよんどころない事情がある。しかたないんだ」
いつのまにか顔を出している名倉も、関崎に向かい手を差し伸べている。どうやら握手を求めているらしい。夏休み自由研究最優秀トリオの称えあいをぼんやり眺めていると、上総の肩を叩く奴が何人かいた。
「立村、まあ落ち込むなって」
顔見知りの奴ら、特に東堂がへらへらしながら話しかけてきた。
「うちのクラスみたいにやる気ありすぎな方が珍しいんだって。他のクラスも似たようなもんだからそんななあ、めげなくたってなあ」
口々に慰める。慰めるということは結論はひとつということになる。
「東堂、ひとつ聞きたいんだけどさ」
「はいはい」
機嫌よしの東堂に、上総は念のため確認した。
「もしかして、うちのクラスになら勝てる、と確信したんじゃないのかよ。伴奏もこの程度だし、歌がうまい奴は指揮者だしってことで」
「そんなひがむなよなあ。ま、ある意味事実ではあるけどねえ」
B組男子連中のみ、大笑い。ため息つくしかない。とりあえずここでわかったことは、関崎が青大附高のマイスタージンガー候補であることと、それに伴う上総のピアノ能力があまりにも差がありすぎるということだった。




