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その八 関崎との呼吸(3)

 ──どうやって離れようか。

 プリントの花丸が焼きついて離れず、その一方で側に微笑みながら寄り添っている野々村先生の扱いに悩む。いい断り文句が見つからずなんとなく音楽室へ向かうのだが、やはり周囲の目線が痛い。事情通のものもいるのだろう。陰でひそひそ話をしている輩もいる。

 ──なんだか誤解されるのも無理ないよな。

 自分にとって生まれて初めて数学の問題で花丸をもらえたのだが、それはあくまでも書き写したことに対するものであって意味はない。ただその一方で、自分でも経験したことのない不思議な感覚が沸くのも事実だった。

「あの後は立村くん、ピアノのお稽古は?」

「はい、日曜に父のお世話になっている先生のところへ行って、いろいろ教えていただきました。あと何回かはお伺いすることになると思います」

「それはよかったわ。このあたりの教室なのかしら」

「いえ、海沿いのお宅で、僕もあまりよくわからないのですが、趣味でピアノをたしなんでいらした方と伺いました。会社を退職なさってから時間があるということでのご提案でした」

「そう、だとすると、ピアノ教室というよりも趣味の範疇でということかしら」

「おそらく、そうだと思います」

 かなりあいまいに言葉を濁したつもりではある。父の仕事と直結した関係の先生である以上、機密事項もそれなりにあるような気がするし、印條先生……なんだかこのあたりも偽名のような匂いがする……もあまり名前を知られたくないのではないかという憶測もある。

「その後はどうしているの」

「はい、友だちから借りたキーボードを使って毎日通して練習しています。あとは音楽室が空いていればピアノ弾かせてもらってます」

 事実ではあるのであっさり答えた。答えながらも逃げ道ばかり探している。どうにかして野々村先生をうまくまいてしまえないだろうか。音楽室にたどり着く前になんとか。

 階段を昇りながら、一度立ち止まり話しかけてみる。

「先生、今日はお忙しいでしょうから僕ひとりで練習します。お気遣いいただきありがとうございます」

「いえ、いいの。私も先週中途半端に終わったので申し訳なくて」

「でも、また先週のように別の人たちが」

 C組の瀬尾さんの問題のことを考えると申し訳ないのと面倒くさいのとで頭がごっちゃになる。とにかくなんとかしたいのは野々村先生とふたりで音楽室に入っていくことを避けたいだけ。階段踊り場の窓から射してくる西日がまぶしい。

「あのことは、肥後先生ともお話して希望者がいるようであればその折に教えることにしました。私も先週話したけど、エレクトーンを少したしなんでおりましたので多少はみんなのお役に立てますしね。でも、本格的に練習している人と立村くんとの立場は又別のものになりますし、私もプロのテクニックまでは教えられませんしその差はあります」

 ──いや、そういう問題じゃないんだよ。あのさ、なんと言えばいいんだか。

 後ろ向きに思わず階段を昇ってしまう。不思議そうな目で上総を見つめる野々村先生の表情に何を読み取ればいいのかわからない。とにかく、上総のピアノの技量が心配なことはわかった。なんとかしてやりたいという思いやりも理解した。しかし、これ以上はやはりひいきにつながるし互いのためにならないのではと思う。

 上総は振り返り、ふと音楽室の前を見やった。

 見覚えある姿があり。

 無骨な横顔、他の男子とふたりで肩を並べて語り合っている。

 ──関崎か!


 考える余裕はなかった。階段を駆け上がりながら呼びかけた。向こうもすぐに気づいたらしく、うれしそうに手を挙げた。

「関崎、待ったか?」

 一瞬戸惑った表情を見せた関崎と、その隣りの男子だが無視してまくし立てた。後ろの野々村先生に聞こえるように、

「ごめん、これから一緒に指揮と伴奏を合わせようか。補習終わるの待っててくれて助かったよ。すぐに入ろう。ちゃんと楽譜持ってきたからさ」

 関崎の隣りにいる男子が何かをささやきかけている。関崎も凍ったまま、

「どうした立村、俺を待ってたのか?」

 きょとんとした顔で答えた。もちろん当然の反応だとはわかっているが上総もここで手を抜くわけにはいかない。さらに畳みかけた。腕を掴んだ。なれなれしいがしょうがない。

「さっき話してただろ。やはり俺も、指揮と伴奏をあわせる練習だけはきっちりしなくちゃいけないと思ってたんだ。なんとか通しで二曲とも弾けるようになったから。誰か音楽室にいるのかな」

 ピアノが奏でられているのが聞こえる。「翼をください」だ。合唱コンクールがらみの曲であることはわかるのだがどこのクラスだかはわからない。自由曲に選ばれやすい曲であることは確かだ。

「ああ、今、B組がいる」

 関崎が目線を音楽室の扉に目をやりながら答えた。

「全員ではないんだが、グランドピアノを占拠しているようなんだ。俺もB組の女子に用があるのでこうやって待っているんだ」

 ──B組か。

 つい、後ろを振り返る。野々村先生がいつのまにか音楽室の前に立って声を聞いている。あっけにとられて三人……名前を知らない男子のひとり……で野々村先生の様子を伺うと、

「そういうことだったの。ごめんなさいね。クラスの練習ということであれば邪魔しないほうがいいわね」

 それだけつぶやき、上総に微笑みかけた。

「でも、立村くんだけはできるだけ何らかの形で練習できるようにしたほうがいいので、その点は麻生先生や肥後先生にも伝えておきますから。練習がんばってくださいね」

 気になったのは、その眼差しの中に関崎の存在が全く感じられなかったことだった。


 足早に去った野々村先生の後姿を目で追いながら、関崎がつぶやいた。

「B組の先生なのに、自分のクラスの様子を見に行かないのか」

「生徒の自主性を優先しているんだよ。いろいろ事情があるようだし」

 一呼吸おき、上総は改めて扉を細く開き覗き見た。B組の待ち合わせ相手ということになると、当然指揮者担当の静内菜種だろう。美里が混じっているのかもしれないが、好き好んで待っているとは思えない。音楽室内には十人もいなかった。男女混じっていて、その中になぜか東堂がいた。美里はいなかった。

 ──清坂氏はいないのか。でも規律委員の関崎が暇だってことは委員会がらみの欠席じゃないみたいだな。

 何度も声を合わせて発声練習をしている。それを無視する格好でなにやらピアノを弾いている気配もあるが、よくよく見ると別の学年の女子らしかった。つまり合唱は一年B組の男女有志十名ほどプラス指揮担当の静内菜種、その他ピアノ練習のための他学年女子一名。それぞればらけて練習に励んでいる。一番重要な点、アップライトピアノは蓋が閉まっている。つまり、使える。

 嘘から出た誠でもいい。上総は振り返り、関崎に呼びかけた。

「ピアノ空いてるし、入って練習させてもらっていいかな」

「お前、そんなに本気なのか」

 関崎の表情が見る見るうちに明るく輝いた。こんな喜び顔を見たのは久々だった。

「立村、わかった。全力で協力する。お前が本気でやるんだったら、俺も指揮者として義務をきっちり果たす。練習しよう。古川とも相談して、できるだけ早くクラス全員での練習に持ち込めるようやってみる。俺も正直自信がなかったんだが、せっかくお前がこんなにやる気になっているんだったら、それに付き合わないわけがない」

 ──なんだか大嘘言ってしまったんだけどな。 

 両肩を揺さぶらんばかりに関崎は何度も上総に語りかけ、はっと気づき隣の男子に、

「そういうわけで名倉、せっかくだから音楽室で待ってようか。俺は今からこいつと合唱の指揮と伴奏の練習をする。その後静内と一緒に学食あたりで自由研究のことについてもう一度話し合おう。それでどうだ?」

 ──そうか、自由研究の仲間同士で待ち合わせをしていたということだったのか。

 一気に謎が解けた。ふたりの話し合いには用がなく、上総はすばやく音楽室にもぐりこみ、B組の集団に一礼し、グランドピアノの女子先輩にも軽く頭を下げ、まっすぐ奥のアップライトピアノに走り寄った。


「立村か、ピアノの練習か」

「そう、ごめん、邪魔しないようにするからさ」

「OKOK、お互いさまだよん」

 東堂の呼びかけがなぜか心地よい。B組の女子たちがいつもの上総に対する冷ややかな眼差しを投げるが関係ない。明るい西日が差し込む教室で、アップライトピアノの蓋を開き、上総はすばやく楽譜を立てた。関崎が続いて入ってきて、B組の静内らしき女子と話をしているのだけをちらと見た。微笑みあっているのだけ確認した。

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