その七 老師訪問(5)
しばらく父と老紳士との間で仕事に関する会話が続き、そろそろと立ち上がったのは十一時半過ぎだった。
「思わず長居をしていしまい、せっかくのおくつろぎのところを失礼いたしました。また来週も同じようにというのが、心苦しいのではありますが」
言いかけた父を遮るように、老紳士はは微笑み返した。
「いやいや、今回は私の方が立村くんにわがままを通させていただいたようなものだよ。この歳になるとなかなか純粋なつながりを得ることが難しいのでね。特に上総くんのような年頃の人たちとはね」
上総にも腰をかがめるようにして顔を覗き込んだ。何も、背が低いことを思い知らせなくてもいいだろうにと思うのだがあまり気にはしていないらしい。玄関から車までわざわざ夫婦で見送りに来てくれた。
「まずは、一週間しっかり練習していらっしゃい。来週にはもう少し気の利いた準備をさせていただくつもりだがね。君のお父さんと一緒にゆっくりと音楽について語ろう。上総くんにはもう少し、おいしいものが必要だと思うからね」
「あの、うちの息子にそんな、お気遣いなく」
また慌てる父に、老紳士はそっと肩に手を置き、
「私も、君と日常でゆっくり話ができることを、心待ちにしていたんだ。リタイアした後の楽しみのひとつだったんだよ。君ももう仕事のことなどどこかにおいて、ゆっくり語ろうじゃないか」
乗り込む前に上総も一礼した。老紳士はあらためて上総と父とを見比べるようにして眺め、
「それにしても、よい息子さんを得たね、立村くん」
車が動き出すまでの間、ずっと見送ってくれていた。かすかに潮の香りが漂ってきた。そうだった、忘れていたがこの家のすぐ側には海が広がっていたのだった。緑に埋もれていたせいかすっかり忘れていた。
海岸線を進みつつ、しばらく父とは口を利かなかった。
──相当怒らせたかもしれないな、父さん絶対ぶち切れてるよな。
横目で何度も覗く。シートベルトのはまり具合を直している振りをし何度か様子見する。父の口は一本にしまり、まっすぐ前を見つめている。
──けどさ、向こうから何度も俺に話しかけてくるからしょうがないじゃないか。それに、こちらだってそれほどまずいことは話さなかったよ。少なくとも失礼に当たるような発言は控えたしな。どうすればよかったんだよ、あの場所で。
海が見えなくなり市街地に入ったところで初めて父が口を切った。
「いったい、何言い出すんだか、まったく」
「悪いけどちゃんと礼儀は守ったつもりなんだけど、文句あるのかよ」
「ある、おおいにある」
吐き捨てるように父はつぶやき、ハンドルを荒く切った。
「お前なんで、母さんの話にあんなのっかったんだ」
「別に乗っかるような話なかったよ。母さんのことってなんだよ」
ぴんとこなくて何度か尋ね返した。
「ピアノのことを聞かれた時、なんで母さんと一緒に稽古したことをぺらぺらしゃべったんだ」
「困るようなことしゃべってないけどな」
だんだんあのことかと見当はついてきた。ピアノを弾くのが今は楽しいかどうか、の一言だが、別に足を取られるようなことはしていないつもりだ。
「ピアノを弾くのが楽しいと答えてどこいけないんだよ」
「何もあんなに目を輝かせて、母さんから解放されて喜んで見せることはないだろ?」
あえて冷静を装っているのであろう。上総も知らないわけではない。父にとって母の存在は「離婚」なんていう形式を乗り越えた深いつながりがあり、できれば即刻、再婚のため婚姻届を握り締めて市役所に飛び込みたいに違いない。母に関しての侮辱的な行為は上総が息子であっても許されないことだとは承知しているのだが。
「俺は何も言わなかったけど」
「瞳が物語ってるっていうんだ。もうまったく、ひやひやさせやがって」
「父さんひとりであせってるだけだろ。それと、今のうちに聞きたいんだけどいいかな」
「なんだ」
老紳士宅に滞在している間、ずっと不思議だったことを質問することにした。
「これからあの先生のこと、どうお呼びすればいいのかな」
「え?」
戸惑った風に父が上総を見たがすぐに目を正面に戻した。
「だってさ、あの家表札なかったよ。たぶん父さんが紹介してくれるのかなと思ってあえて聞かなかったけど、最後まで苗字がわからなかったしさ」
実際、今の段階でかの老紳士の名前を確認していない。父も昨夜は名前を教えてくれなかったけれども特に気にしてはいなかった。しかし玄関に表札がないと全く見当つけようがない。
「そうだな、お前にはまだ教えてなかったな」
「来週から通うことになるんだったらなおさらだよ。『先生』だけだったらかえって失礼じゃないかなって気がするし」
「確かにそうだな」
父はしばらく黙り込みスピードをゆっくり落とした。国道沿いのコンビニエンスストア駐車場に車をつけた。
「待ってなさい。確認してくる」
「何を確認する必要あるの」
「だからお前の質問を今のうちに確認する必要があるんだ」
──父さん、なにあせってるんだろう。
急ぎ早に車から降り、入り口にある緑の公衆電話へ駆け出していく父を目で追いながら、上総は改めてその「先生」と呼ぶべき人のイメージを整理した。
──父さんがあんなにへりくだって話す人。
なんとなく「立村くん」と父を「くん」付けして呼ぶところからして、あいまいな師弟関係のようなものがあるのかもしれない。また、上総には把握しきれなかったが青潟における教育問題や企業の動きなどを父と真剣に語っていたところ見ると、仕事がらみのつながりなのだろうとは想像できる。
──でも父さん、俺が知っている人たちを見る限りあんなにへこへこしないよな。俺も文句言える立場じゃないけど、何度言った? 出来の悪い息子ってさ。何か弱みでも握られてるのかな。
実際、紹介されてレッスンを受けた限りでは穏やかで感じのよい紳士だったし、これからピアノの稽古限定で通うのだったらそれでもいいと考えている。ありがたく受け取ろう。しかしなぜ、父もおまけにくっついてこなくてはならないのだろうか。上総からしたら、教えてくれる人に細かく指導されるのは気にならないのだが、外野からわいわい欠点をあげつらう輩の方がむかむかすることこの上ない。まあ、母ではなく、父だから余計なことは言われないと思いたいが、現状先が全く見えないのもまた事実。
──それにしても話がどんどん、俺と父さんの思惑を無視して進んでいるような気、するんだけどどうしたんだろう。
「さあ帰ろう」
ついでにコンビニでポテトチップスと冷たい缶コーヒーを買ってきた父。運転席に座りシートベルトを締めた後告げた。
「帰ったらまず、先生にお礼の手紙を書きなさい。それと、次回からお名前を『印條』先生とお呼びするんだよ」
「いん、じょう?」
苗字なのだろうか。珍しすぎる。父が上総の問いの前に答えてくれた。
「先生がそう呼んでほしいとのご希望なんだ。余計なことは考えず、印條先生とだけ覚えておけばいい。いいか、余計なかんぐりするなよ」
缶コーヒーはそのまま、ポテトチップスの袋を端だけ開けて上総に勧めた。
「向こうだと食べた気しなかっただろ。うちに帰ったら今度こそピザを注文するぞ。上総、食べたいトッピングがあれば今のうちに考えておきなさい」
「父さん、何か、した?」
おそるおそる上総が袋に手を突っ込みながら尋ねると、
「お前にとってもお父さんにとっても、こんな機会は一生に一度、まああるかないかだしな。せっかくのご縁だ。無駄にはできないよ。お前の下手なピアノを毎回聞かされるのはきついものがあるがな」
何かふっきれたような笑顔を見せた。




