その七 老師訪問(4)
老紳士のピアノに関する指導はごくごく自然なもので、取り立てて何がというものはなかった。教え方が下手だとかそういうわけではない。今まで上総が習ってきた肥後先生、および野々村先生の説明とほとんど変わらないというだけだった。
「このメロディは少しゆったりと力を抜いたほうがいいね、後半の盛り上がりに向けてエネルギーを溜めていくようにして、最後の『モルダウ』の部分に重なるように」
などと、ピンポイントのアドバイスを行うのみにとどまった。
すでにある程度曲が指に入り込んでいることもあってつい、先走りたくなってしまうくせがあったことに気づかず、これからはバランスよく弾いていかないとまずい。この点を意識できたことは収穫だったと思う。何度か繰り返し通しで弾いて行くうちに、なんとか形は整ってきたような気がする。「恋はみずいろ」に関しては途中の間奏の部分がまだ手こずってしまっているところがあり、もう少し集中して練習することを薦められた。
「一番しか歌わずに終わるというやり方も、いや、どうかと思うが、学校の方針だししかたないだろう。だがせっかくの聞かせどころを楽しめずに終わらせるのはよくないね」
上総が察するに、おそらく老紳士の考えは曲のテクニックよりも「感情」を込めて弾くことを重視してほしいということのように思えた。それが証拠に途中何度か和音をとちっても特に何も指摘してこなかった。かわりに「モルダウの流れ」後半部分は何度も弾きなおしを指示された。あまりにも淡々としすぎているからだそうだ。
その間、父は無言で聞き入っていた。何も声がしなかったから、たぶんそうだ。
「みなさん、お茶がはいりましたよ」
ご主人の奥さまらしき女性が現れて声をかけてくれるまで、部屋に閉じこもって約一時間半、ピアノと格闘していた。それほど長いとは思わなかったが時計を見上げた時ちょうど朝十時を回ったところと気づいた。
「熱が入ってしまってすっかり時間が経つのを忘れてしまったよ。とりあえずここまでにしておこうか」
「ご教授、ありがとうございます」
立ち上がり、改めて礼をした。楽譜立てをたたんでピアノの蓋を閉じた。
「いや、私もひさびさに人にものを教える楽しさを思い出したよ。立村くんも、将来楽しみな息子さんを持ったね」
上総からするとお世辞そのものにしか聞こえない。一方「立村くん」と呼ばれた父は恐縮しまくり、やたらと湯のみを握り締めている。
「いや、あの、僕の方こそ息子をここまで導いていただき、恐縮しています。感謝の言葉が見つからないくらいです」
「いやいや、まだまだこれからだよ。一通り彼のピアノの技量は把握したから来週からはもっと深いところを進んでいけそうだね。上総くん、とりあえずだ。うちのかみさんが用意したホットケーキでもいかがかな。ささやかだが味は保障するよ」
「恐れ入ります」
上総ももちろん頭を下げたが、父のお辞儀の方がほとんど敬礼に近かった。
朝ごはんはすでに消化が終わっていたようで、奥さまお手製のホットケーキの匂いに思わずつばが出てくる。腹が鳴りそうだが父にまた「お前、食べることしか考えてないのか」とかいやみ言われそうなのであえてこらえた。
「さあさ、どうぞ。それにしても立村さんの息子さんはお話を以前から伺っておりましたけれども本当に立派にお育ちになったわね。男親としてご苦労なさったかいがありましたわね」
内庭のベランダに案内された。玄関に上がったときには気づかなかったのだが、この家には内庭が用意されていて、そこからさるすべりの鮮やかな花や盛りが過ぎたとはいえまだ現役のひまわり、色の濃い目のしぼみかけた朝顔などを愛でることができる。さほど広い庭ではないけれども、やさしい色合いの草木が枝を伸ばしているのを眺めているとなぜかほっとした。
「秋ですね」
父がさっきまでの過剰な緊張感を少し解きつぶやいた。老紳士も答えた。
「そろそろ萩、次にききょう、菊、さまざまな秋の花がお目見えする頃だ。この歳になると薔薇のような華やかな花よりも、いわゆる秋の七草のような野草をのんびり愛でるほうが心休まる、そういうものだね」
「わかります。僕もそれは感じます」
「上総くん、君はどう思う?」
また上総に話を振られた。どう答えるべきか迷うが、もう父も上総に発言をまかせているような感じがする。思った通り答えることにした。
「僕もあまり、花はよくわかりません。ただ、花屋さんで売っているものよりはこういう花の方が好きです。いわゆる野草のようなもののほうがいいような気がします」
「野草か。そうだね、私もそう思うよ。立村くん、わかるかい」
ホットケーキに手を付けず膝に手を置き、老紳士の言葉を聞くのみ。
「申し訳ございません。勉強不足でお恥ずかしい限りです」
「いや、謝ることはないよ。せっかくだからホットケーキのバターが染みとおらないうちに急いで食べようじゃないか。さあ、どうぞ」
気さくに話しかけてくれる老夫妻の前で、上総はナイフとフォークをしっかり持ち、粗相しないように丁寧に切り分け口に運んだ。父も続いた。紅茶はシンプルな味わいで、朝飲むのにちょうどよかった。ホットケーキが自然と口でとろけてくる。
草木のかすかなざわめきが聞こえる中、老紳士は手を止めじっと上総の顔を見つめている様子だった。気づかないふりをしていると、
「上総くん、君はずっとお母さんから習ってきたといっていたね」
尋ねてきた。急いで飲み込み、
「はい、長期休暇のみです」
答えると、
「今まで何かスポーツをしたいとか、習い事したいとか、そういう気持ちになったことはないのかな」
さらに問われた。答えは決まっている。
「あまり意識したことがなかったのと、中学に入ってからは委員会活動が忙しかったのもあってそこまで考えたことはありませんでした」
事実をあっさり答えた。
「それはもったいなかったね。ということはだ。今回の合唱コンクールという突発的な出来事が起きなかったら、君もピアノをこんなに熱心に練習しようとは思わなかったわけなんだね」
「たぶんそうだと思います」
答えてみて改めて実感する。
「これまで君にとってピアノは、君のお母さんとの接点に過ぎなかったというわけなのかな」
「母との接点はたくさんあるので、そのひとつに過ぎないといった感じでした」
これも事実だった。ピアノは確かに仕込まれたけれども、それ以外にも茶道のさわりやら料理やら家事やら、いわゆる嫁入り準備に近いことは母からすべて手ほどきされてきた。その一方、運動関係の活動には体育の授業以外参加したことがない。品山小学にはそれなりに運動部が存在していたけれども最初から上総の意識からは消えていた。青大附属においてはひたすら評議委員会に没頭していたので、年に一回の球技大会……主に卓球……を除外すると全く接する機会はない。
「お母さんに教えてもらっていた時、ピアノを弾くのは楽しかったかな」
「いえ、あまり。母は非常に厳しい人だったので、習っている間は正直辛いところがありました」
突然父が鋭い目つきでにらんでくる。だが事実だ、本当に事実なのだからしょうがない。その一方で老紳士はゆったり微笑んでいる。
「そうか。今回の合唱コンクールで伴奏に選ばれたことについて、君のお母さんには報告は?」
「してません。母は仕事の関係で忙しいことがよくわかっていますし、楽譜を見た感じだとたぶん、なんとかなりそうだと思ったのでまだ伝えていません」
「それでは、上総くん、もうひとつ聞きたいのだけれども正直に答えてもらえるかな」
もう行くところまで行くしかない。父がまたぴりぴりし始めたのを感じつつ腹に力を込めた。これが度胸というものだ。
「お願いします」
「今、ひとりでピアノを弾いていて、素直にどう思った? お母さんと稽古している時と比較するとどうかな」
「もちろん楽しいです!」
父がナイフを取り落とし、慌ててテーブルにもぐっている。と同時に思い切りすねをひっぱたかれた。蹴り返してやりたいが人様の家ゆえさすがに控える。本音なんだからしかたない。そうだ、うれしい、楽しい、時間を忘れてしまう。昨夜真夜中までキーボード相手に「モルダウの流れ」と格闘していた時も、こずえの家で「エリーゼのために」やら校歌セッションやったりした時も、音楽室で肥後先生や野々村先生に見てもらっていた時も、そして、
──さっきの稽古も、もちろん。
力がふうっと肩から抜けていくようだ。上総は感じたことをそのまま、ホットケーキと紅茶の香りに包まれたままもう一度、自分の中につぶやいた。
──母さんがいないところでピアノ弾くことがこんなに楽しいことなんだって、本当に気づかなかった。あの、伴奏の話が来るまでは。




