その七 老師訪問(3)
話の流れから言って、父とこの老紳士とがいわゆる「師弟関係」に近いものを持っているのではと感じてはいた。おそらく上総の存在も事細かに情報を得ているに違いない。父が母と曰くつきの離婚をしたことも、立村家の常識はずれな家庭環境もすべて知っているに違いない。
──どういうことかはわからないにせよ、命まではとられないんだしまあいいか。
詳しい事情を昨夜の段階で父から聞いていたらもう少しかしこまったかもしれない。しかし何も知らない、それが強み。本番に強い自分の根性、とことん見せてやろうかと思う。
「上総くんはこれまでピアノに触れる機会はほとんどなかったのではないのかな。それがなぜ、いきなり合唱コンクールの伴奏を受け持とうと考えたのだろう」
何度も問われたこと、答えは決まっている。
「はい、本来であれば僕以外にも演奏の上手な人たちがたくさんいたのですが、十月に予定されている学内の演奏会を優先させてほしいとの強い希望があり、伴奏者が空席になってしまいました。僕もクラスではあまり役立っているほうではないのでこの機会に少しでも手伝えればと考えた次第です」
優等生の答えだとは思うが間違ってはいないと思う。
「そうか、青大附属では演奏会をまだ続けているのか」
「いえ、演奏会は今まで行っていなかったようなのですが、今年になり初めて音楽担当の先生が企画したものと伺いました」
隣りで父がちらとにらむ。口がすべっただろうか。目の前の老紳士はふむふむ頷きながら上総の説明に聞き入り、
「かなり昔のことだからねえ。僕が知る限り、青大附属では毎年学校祭で音楽発表会を血から入れて行っていた記憶があるんだよ。そうだね、その中にはもちろん合唱も含まれていたけれどもピアノのソロ演奏がほとんどだったような気がする。時代が変わるごとにいろいろ方向性が違ってきたのかもしれないね」
となると、合唱コンクールの方が後付けということなのか。肥後先生が企画したというよりは、かつての形に復活させようとしているだけなのかもしれない。老紳士は続けた。
「僕の知っている青大附属はね、ひとりひとりの得意分野を生かすための教育に力を入れていて、ピアノをはじめとし、音楽も和楽器などさまざまな演目を用意して学校祭で発表の場を用意していたはずなんだ。となると、やはりよくあるクラス一丸となってのイベントに様変わりしたのかな」
答えに困る。上総なりの答えはある。たぶんその通りだろう。
「曲は、どんなのを弾くのかな」
「はい、課題曲が『恋はみずいろ』、自由曲が『モルダウの流れ』です」
かばんから楽譜を取り出し、老紳士に渡した。受け取った紳士はじっくりと楽譜に目を通し、
「課題曲と自由曲が逆かと思ったのだが。本格的な合唱曲ではないんだね。まあ、『モルダウ』もよい曲だが」
「あまり拘りはないようです」
また父からきつい目でにらまれた。だからなんでそんなにいらいらするんだろう。
「そうなんだね。校風が少しずつ新しい方向に変わってきているのはむしろ喜ぶべきことなのかもしれないが、しかし驚いたよ。そこでこの楽譜で練習をしているのかな」
「はい、音楽室と、友人宅をはしごして、また別の友人からキーボードを借りて家で練習しています」
いたって普通のことを答えると、大きく老紳士はため息を吐いた。
「キーボードはピアノと違いタッチの差などがあるけれども不安はないのかな」
「ないといえば嘘になりますが、引き受けた以上はきちんと結果を出すつもりです」
「出す自信は?」
答えに迷う。父が割り込む。
「おそらくクラスの仲間たちも、上総のピアノ弾きレベルは重々承知しているでしょうから、あまり期待はしていないようですよ。かえってそれがこの子には気楽なのかもしれません」
「そうかい、上総くん、正直なところはどうなんだい」
さあどうする。答えは決まっている。言い切ってやりたい。しかし隣りの父がどれだけ青ざめるかが恐ろしい。
「上総?」
何か言いたげな父と目を合わせた。帰りの車では大喧嘩になりそうだ。
「昔から本番には強いのでなんとかなると思っています」
額を押さえる父には悪いが、こればかりは本音だった。
──青大附中受験、卒業式英語答辞、文句あるかよ。
老紳士は上総の顔をとっくり眺めつつ、笑いを抑えきれないようで何度も頷いた。
「相当腹が据わっているね。だがそれだけではないだろう? もしこれがバイオリンだとか、フルートとか、どう考えても君の一夜漬けでは出来そうにない楽器相手だったら」
「もちろんそれは断ります。ピアノならまだ、ある程度は勝負できると考えたからです」
「勝負?」
ふっと老紳士の眼差しが厳しく見えた。すぐに解けた。言葉を間違ったろうか。
「父が先ほど話しておりました通り、小学校に入る前からピアノの手ほどきを母から受けていました。ある程度は自分のレベルも測ることができるつもりです。伴奏ならではの難しさがあることは承知していますが、それも含めて僕にできることなのではと見積もったところがあります」
「なるほど、勝ち目があると判断したわけなんだな。それならさっそく、今からここのピアノをぜひ弾いてもらおう。今日はそれが目的なんだからね。その上でゆっくりと改めて語ることにしようか。立村くん、それでいいね」
最後の一言は父に確認を取った。もうあきらめたのか、弱弱しい笑みで父は答えた。
「僕の教育がどれだけ失敗だったかを披露するようで心苦しいのですがよろしくお願いします」
──悪かったな、立村家の失敗作で。
父が上総に火をつけたくてならないのか、それとも妙に自分がいきがりたいだけなのか。
正直区別がつかない。自分でもなぜ、初対面の相手に背伸びした言葉を返してしまったのかわからない。思い返してみてもなんと自信ありげな言い方だろう。何様とか思われてもしかたない。
──まあ、間違えなければいい。好き勝手に弾いてやるさ。
譜面があればへまはしない。上総は誘われた黒いアップライトピアノの前に腰掛けた。隙のない磨き上げられたピアノの鍵盤が、冷たく光っている。指先を乗せ、深呼吸した後にゆっくりと「恋はみずいろ」から弾きはじめた。
古川こずえが「なんでこんな下ネタたっぷりの歌、合唱コンクールの曲にするかねえ」と勘違いした発言をしていたが実際の歌詞は決してそんな勘違いする内容ではない。ただ男子たちには「結ばれる」とか「愛し合って」とかそういう響きがどうも照れくさくなるのも確か。言われてみれば、そう思えなくもない。
曲が終わり次に「モルダウの流れ」に進んだ。こちらは「恋はみずいろ」と違いいかにも伴奏曲で旋律が和音で覆われている。その点弾きずらいところが正直あって、自分でもまだ指が動いていない。ただ時間の問題だろうという気はしている。
老紳士は静かに上総の脇に立ち、かがみこんで尋ねた。
「学校の先生にはご指導いただいているのかな」
「はい、先生たちには親切に教えていただいてます」
「一週間でここまで譜読みできれば立派なものだ。あとはそれぞれに感情を上手に盛り込むことと、指揮者と息を合わせること、これがテーマだね。合唱についてはこればかりは集団練習を積むしかないが、もうひとつのテーマなら僕でもお役に立てそうだ」
時折光る鋭い眼差しをちらちらさせつつ、穏やかに老紳士は上総と、父とに告げた。
「立村くん、来週も同じ時間に上総くんを連れてきてもらえるか。今日からさっそくいろいろと彼に伝えたいことがあるんだが、一日、二日だと難しい。幸い合唱コンクールまではあと何週間あるか、だが」
「今日入れて三回ほど、です」
父が上総の代わりに即答えた。
「まずは始めてみてからにしようか。どうも私にはね、上総くんがなんとなく自分の感情をすべて押さえ込んできていて、それを吐き出す場所を探し続けているような気がするんだ。今の演奏もそうだし、話してくれた内容もそうなんだが。確か上総くん、君は今までお母さんに教えてもらった以外の稽古事は一切していないという話だったが」
「はい、その通りです」
事実なんだから仕方ない。答えるとまた父がわけの分からないことを言い出し頭をかいている。
「よい機会だよ、立村くん。これから行う予定の三回のレッスンはぜひ、君にも立ち会ってもらいたい。必ず、気づきがあるはずだからね。上総くんだけじゃなく君にもね」
思わず父と顔を見合わせた。これはどう考えても、予想外の展開だ。父の仕込みでは決してない。それが証拠に、父の答えは、
「そんな教えていただけるとは、そんな、あの」
言葉がぐちゃぐちゃ、動揺しているのが手に取るようにわかる状態ときた。
「めっそうもない。もったいないことをおっしゃらないでください。こんな何もできないポンコツの息子に、こちらこそ恐縮です」
──息子を謙遜するにしてもここまで言うかよ、ポンコツで悪かったな。出来の悪い息子って今日、何回言った?
つくづく、間違えなくてよかったと思う。真夜中までキーボードを机において両手弾きを繰り返したかいがあったというもの。感情なんて考えている暇なんてない。とにかく、指を動かす。暗記するまで動かす、それしか考えていない。
──これから毎週、父さんの前でピアノの練習しないとまずいってのかよ。ああ、なんかそっちの方が拷問だよな。だから何もしないでいいってあれだけ言ったのに、なんだよ父さん。結局自分で自分の首絞めているだけじゃないかよ。
はっきりしているのは、ピアノの鍵盤を上総がそっと鳴らしたことがきっかけで、父を巡るパンドラの箱が開いてしまったらしいということだった。




