その七 老師訪問(1)
いつもなら七時くらいまでベットでごろごろしている日曜日。夜中までキーボードと格闘し続けていたせいかまだまだ眠い。年に一度もないことが起きている。
「上総、まだ寝てるのか、早く起きろ」」
「起きてるよ、まだ七時前だろ」
六時半に父が部屋のドアを開けいきなり布団をひっぺがすなんてことは、母が出て行ってからはまず一度もない。寝起きなのかそれとも別の要因なのか、とにかく父の機嫌がすこぶる悪いことは確認した。しかたなく身を起こす。
「文句言われなくても起きるけど、もう少し言い方あるだろ」
「寝ぼけてないで早く着替えろ。それと、もちろんシャワーも浴びて身奇麗にするんだ。今日は普通のところに行くんじゃなないからな。昨日も話しただろ」
「わかってる。言われなくてもするから、早く部屋から出て行ってくれないかな」
向こうがそう出るならこちらもそうする。きっぱり追い出してやった。
──いったいなんだろ。昨日から妙に父さんおかしいぞ。
今日の午前中、朝八時半にピアノを教えてくれるという曰くありのお宅に訪問することはもちろん頭の中にあるし、準備もしている。少なくともかばんに財布や楽譜のセッティングは済んでいる。でもどう考えても七時目覚ましでも問題はなさそうな内容に思えるのだが、なぜそんなに父はいきり立っているのだろう。もう少し言い方があるはずだ。こちらもはっきり言って面白くない。
着替えを用意してさっさとシャワーを浴び、丁寧にドライヤーをかけて自分なりに髪の毛も整える。本当だったら女子がするようにマニキュアもしてやろうかとか思ったりもしたが、もちろんそんなものはない。朝食の準備のため台所に向かうと、すでに父がきちんとしたスクランブルエッグと牛乳、それにトーストを用意していた。
「遅すぎる。早く食べてスーツに着替えなさい」
「言われなくてもそうする。黙ってくれないかな」
嫌味を放って急いでかぶりつく。塩も胡椒もなしというのはどういうことだろうか。文句を言いたいが我慢する。父も通常の精神状態ではないようで、珈琲を啜りながら指先をテーブルにおいてパタパタ打ち鳴らしている。これを母のいる前でやらかしたら半殺しに遭うんじゃないかと上総は思うのだが、全く気にしていないらしい。
「洗物はこちらでしておく。とにかくきちんとした格好しろよ」
「結洲で着たスーツでいいだろ。夏物だけど」
「あれなら恥ずかしくないな。それでいい。それと上総」
時計をはめながら父が上総を呼び止めた。
「今日は、お父さんがすべてお前の代わりに話をする。だから質問されるまでは挨拶以外余計なこと言うなよ。何度も昨日言ったことだから分かっていると思うが」
「しつこいくらい言われてるから、死んだって口利かない。それで文句ないだろ」
全く、何度繰り返せば気が済むのだろう。余計なこと言うな、もちろん正しいけれども、昨日の会話中に五回以上は出てきた内容だ。客宅で失礼がないように振舞うことに依存はないし、上総も好き好んでおしゃべりしたい性格ではない。しかしそれにしても、
──そんなに俺が何かやらかしたら、首でも飛ぶようなことあるのかな。なんかおかしいよ。父さん異常だよそれ。
少なくとも普段の父の態度とは違う。もともと父は人に対して礼儀はわきまえているけれども、過剰なほどへりくだる性格ではない。権威に対する反骨心のようなものを見せることはあまりないけれども、納得いかないことには丁寧に反論する。例を挙げれば夏休み最終日の菱本先生相手の対応、大抵はあんな感じでいなす。だが、今回だけは一体なんだろう。まるでどこかのお城に連れて行かれて王様と謁見するような雰囲気だ。
──そんな相手をわざわざ自分の息子のピアノの先生にしようなんて発想が普通ないよな。なんだろ。もしかして父さん、どうしても断れない事情があるのかな。面倒な付き合いとかいろいろあるのかな。よくわかんないけどだからといって、俺にばっかり文句言うのはやめろよな。まあ行くからにはきちんとご要望にこたえてやるけど、うちに帰ったらとことん追求してやるからな。覚悟しとけよ。
心の中でのみ口汚くののしることにする。さすがに父に反抗する場では、今はない。これから出かける先はどうかのお城ではない、単なるピアノにお詳しいどこかのお偉い方なのだから。それなりの礼儀は守る。
ネクタイもきちんと締め、靴もきれいに磨き、上総が意識する限りは完璧な身なりに整えた。結洲の会に手伝いした当日着たスーツなので、まだあまり手を通していない。すぐにクリーニングに出したし、ほぼ新品状態と言い切っていいだろう。
「まあ、そんなもんだろ」
頭からつま先までまじまじと見つめ父も及第点を出してくれた。その父もほぼ同様のスーツ姿なので後ろ姿だけ見ると見分けがつかないかもしれない。普段のカジュアルなジャケットではない。これから結婚式か葬儀かどちらかに出席すると言って通用しそうだ。
「忘れ物もないか」
「ない。夜のうちに準備してるし。楽譜、財布、筆記道具、手帳、ハンカチ、ティッシュ、これで問題あるかな」
「了解」
さすがにそれは文句がないようだった。
「それともうひとつ、今のうちに」
「だから余計なこといわないから安心しろよな」
「それじゃない、上総、今日のことなんだが」
父は首を振り、上総の肩に手を置いた。
「しつこいようだが今日のことは、絶対に母さんに話すなよ」
それは言われてなかった。聞き返す。
「どうして」
「わかるだろ。お前のピアノの手ほどきしたのは誰だか考えればな」
「母さんだってことはわかるし、俺もしゃべる気最初からないけどなんで」
「ああ、それはだ」
そこまで言いかけて、父は何度も上総の肩を叩いた。
「結論だけわかっていればいいんだ。しゃべるな。それだけだ。理由など考えるな。お前はとことんシンプルに、ピアノのことだけ考えてろ」
──わかってるけどさ。でも何で。
どうしても「なぜ?」だけは消すことができない。これ以上父と口論するのもいやなので、上総はすぐ玄関に出てさっさと靴に履き替えた。父の車でいったいどこに連れていかれるのかわからないが無難に振舞うつもりではいる。
七時五十分。父が運転席に乗り込んだ。隣りの助手席でシートベルトを締めて待っている上総に、
「いいか、上総」
またしつこく確認をしようとする。ここまで繰り返されると上総としても、馬鹿にされていると思わざるを得ない。返事をしないことにして横向いた。
「話、聞こえてるのか」
「聞こえてるしもう耳にたこができるからもういいよ」
「親にそれはないだろ」
「子どもに常識なしって何度も確認するのもないだろって言いたいよ」
乱暴に父がアクセルを踏んだ。生命の危険を感じそうな運転の荒さだった。シートベルトは必要だ、絶対に。
──けど何でだろう。そんなに、神経ぴりぴりさせるような相手なのかな。
表情を読み取られないように、外を眺めながら上総は思いを馳せた。曇り空で涼しさが増す朝の天気で、スーツでもそれほど暑苦しくない。昨日よりは過ごしやすいだろう。
──そんな面倒くさい相手に習いにいくくらいなら、キーボードと学校のピアノで十分な気もするけどな。けど音楽室のピアノもそう借りられないし、古川さんの家も週に一度が限度だろうし。学校は学校でまた事情が面倒な人が多いだろうし。そう考えると習いに行って確実に教えてもらうのが一番いいんだろうけどな。まあ確かに母さんに頼むのだけは避けたいってのは、あるな。
品山を抜け青潟市街地に入ると父の激しいハンドルさばきもだいぶ落ち着いてきた。同時に父の横顔もいたって普段のものに変わってきている。正気に戻った、と言ってよい。
「父さん」
「どうした」
「確認しておきたいんだけどさ」
恐る恐る、ご機嫌を損ねないように父に尋ねた。
「挨拶はもちろんきちんとするけど、ピアノに関する話は聞かれたら答えてもいいよな」
父は黙った。赤信号でいったん止まった。
「そうだな、礼儀を守るんだったら、聞かれたことにきちんと答えればいい。ピアノ以外でも、学校のこととか、委員会のこととか。お前の先輩に当たる方だから、きっとお知りになりたこともたくさんあるだろうしな」
憑き物が取れた状態でもって父は答えてくれた。穏やかで決して声を荒げることのない、上総が一番よく知っている父の姿だった。




