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その六 鍵盤めぐり(5)

 曲がりなりにも女子の家に夜遅くまで居座るわけにもいかず、五時少し前にこずえ宅を出た。自転車置き場までこずえが大きなキーボードをソフトケースに入れて、背負うためのバンドもセットして運んでくれた。思っていたよりも巨大だ。背負って品山まで帰ると考えるだけで気が重くなる。

「まあまあそれがあんたの定めってとこ、男の子なんだからめげるんじゃないよ」

 ため息吐きながらバンドでしっかり斜め掛けしてくくりつける上総を、こずえと美里が笑いながら見ている。

「けど、自転車で運ぶのって大丈夫?」

「たぶん、大丈夫。明るいうちに戻れればそれでいいし。それにギターとか剣道の道具とか自転車で毎日運んでいる奴だっているんだから、たぶん」

 とはいえ、かなりふらつくのも確かだった。バランスを保つのもやっとでサドルにまたがり、一足お先に上総は品山に向かい漕ぎ出した。

 ピアノの稽古が目的とはいえ、結局半分以上はこずえと美里とのおしゃべりに費やされたものだった。もちろん邪魔しにきたとか文句を言う気はないけれども、やはり練習量が足りなくなりそうな不安もあったりする。

 ──けど、本当にいろいろあるんだな。ただ伴奏弾いているだけじゃないんだな。

 A組クラスメートの宇津木野さんと疋田さんの事情を聞いた時も驚いたが、今日の瀬尾さんの話も身につまされた。中学三年卒業の段階で、夢に引導を渡されるというのはかなりしんどいんじゃないだろうか。こずえがどういうルートでその情報を仕入れてきたのかは知らないが、瀬尾さんの立場からしたらあまり人に知られたくない秘密だろうに。興味津々で聞き入ってしまった自分にも罪悪感を感じる。

 ──俺みたいな何にも弾けない奴と同じ場所で伴奏するなんて、考えてみたらものすごく屈辱なのかもしれない。宇津木野さんや疋田さんは詳しいこと知らないけどたぶん音大かどこか目指してるんだろうし、それなりのレッスンを重ねているだろうし。本当だったらそういう人たちと切磋琢磨したいのに、よりによって俺なんかと比較なんて悔しいだろうな。


 家についてから荷物を解き、身軽な格好に着替えてさっそくキーボードを取り出した。

 こずえの家で見せてもらった時よりもはるかに大きく見える。電源コードでつなぎ机の上に載せてみる。電源を入れて鍵盤の「ド」を押して見る。しっかりした音が出た。窓を閉めないとまずそうだ。次に和音の「ドミソ」を、「ドファラ」をそれぞれ両手で弾いて見る。下手したら近所騒音迷惑になりそうだ。

 ──練習の時は全部閉め切ってやらないと絶対苦情くるよな。

 本当はヘッドホンがあるといいのだが。できるだけ音を最小限に絞り、窓も閉め、カーテンもぴったりあわせた。楽譜を開き、「モルダウの流れ」をゆっくりゆっくり弾いてみた。両手で合わせて、どちらかというと野々村先生が教えてくれた通りに進めてみた。

 なんとしても、来週中にテープ録音ができる程度に仕上げねばならない。上総に与えられた使命はなかなかきついものがある。


 途中灯りをつけて手元を明るくし引き続けていると、玄関で物音がした。時計を見ると七時半過ぎだ。キーボードで練習しているうちに思ったよりも時間が経ってしまったようだった。夕飯の準備が出来ていない。そういえばそろそろ腹も空いて来た。どうせラーメンにベーコンと葱を載せて終わらせようと思っていたところだ。上総は台所に向かった。ちょうど玄関を上がってくる父が、疲れたように自分の肩をもんでいた。

「早く帰ったの」

「悪いか。その顔だとまだ食事作ってないだろ」

「ラーメン作るつもりだけど、父さんの分も一緒に用意しようか」

「当たり前だろ。お前ひとりで食うつもりだったのか。そんな殺生なことしないだろ」

 軽口をたたきつつ、台所でラーメンどんぶりを用意する。鍋に火をつけてゆだらせて、ついでに麦茶も沸かす。まだ冷たい麦茶が恋しい季節は終わりそうにない。

 

 父はかばんを書斎に置き、パジャマに着替えて食卓に着いた。

「もう着替えたんだ」

「今夜はお前を迎えに行く必要ないからな。麺が伸びる前にまず食べよう」

 出来立てのラーメンをつつきつつ、父と向かい合ってひたすら食べ続けた。しょうゆラーメンの味付けが少し濃すぎたような気がして、やたらと麦茶をお代わりしていた。

「お前にしては大雑把な味付けだな」

「疲れてるだけだって」

「何か疲れることしたのか?」

「してないよ。友達から借りてきたキーボードを弾いてただけ」

 こずえの家に遊びに行ったことは略しておいた。女子の家に訪問するなんてことは、やはりあまり聞かれたくない。たとえ下ネタ女王様であってもだった。

 父はたいして興味も示さず、ラーメンの汁を一口二口啜り、

「ところで、上総」

 呼びかけた。上総も残りの麺を箸でかき集めていたが、すぐ顔を上げた。

「どうしたの」

「明日のことなんだがな。少し予定が変わった」

「予定って、ピアノの先生のことかな」

 勝手に父が決めたことだったので適当に流していたのだが、知り合いのピアノ講師を頼って一ヶ月お世話になるということで話が決まっていたはずだった。

「そうだよ。明日お伺いする先が別のお宅となったんだ」

「別?」

 言われた意味が分からない。

「まず平らげろ。これから話す内容は、こうやって汁を飛ばしながらしゃべるもんじゃないからな。しっかし、とんでもない展開になったもんだなあ」

 ひとりごとのようにつぶやく父の様子を見る限り、面倒な展開になりそうだということだけはだいたい見当がついた。台所で洗物を済ませ、上総は何杯目かの麦茶ポットを持って居間のソファーに腰掛けた。父がもちろん真向かいに座っていて、夕刊にじっくり目を通している。

「話って何」

 早く部屋にひっこんでキーボードを鳴らしたいしシャワーも浴びたい。父を促した。すぐ目を上げた父は、上総を上から下までじっくり観察するようにし、

「ま、いいだろう」

 また独り言をつぶやいた。向き直り、両膝に手を当ててかがむようにし、

「ピアノの先生なんだが、思うところあって、ある人にお願いすることにしたんだ」

「ある人って誰。俺の知ってる人?」

「知っているわけないだろう。お父さんが昔からお世話になっている方なんだが、お前のことを話したらぜひ手ほどきしたいとのお申し出をいただいた」

 ずいぶん父の言い方がへりくだっているような気がする。違和感がある。

「その人、ピアノの先生?」

「いや、長年趣味で続けていらしたと伺っている。何度か演奏を耳にしたことがあるが、趣のある弾き方をなさるお方なんだ。趣味の範疇で独学で進んだとはおっしゃっていらしたが、もともと筋がよかったんだろうな」

 なんだか父の説明のしかたが、あいまいすぎてイメージがわかない。父にしては珍しいことだった。

「今年の春に長年勤めた企業を定年で退職なさってから、悠々自適の生活を送っていらっしゃるんだが、たまたま昨日お会いする機会があった。仕事がらみだったが、昔からお世話になっていたこともあってたまたまお前のピアノ伴奏の話をしたんだよ」

 ──どういう話だろう、また俺が馬鹿だとか間抜けだとかそういうことばっかりだろ。

 あまり面白いことではない。用心に越したことはない。

「お父さんも本当はこの方にお前のようなお世辞にも上手とは言えない奴を紹介するのはなんだか申し訳ない気がするんだが、向こう様が若い世代と触れ合う機会を強く求めていらしててね。まあ、お前は音楽を専門に勉強したいわけでもないし、なによりもその方のお人柄に触れることがきっとためになるはずだし、ずうずうしくも今回は甘えさせていただくことになったと、そういうわけなんだ」

「よくわからないけど、父さんの先輩に当たる人?」

「先輩なんてもんじゃない。本当だったらお父さんが直々にご縁をいただける方ではないんだ。お前には想像つかないかもしれないがな」

 ──とにかく、偉い人、ということか。

「だから、上総、明日八時半にお伺いすることになるが、きちんとした格好で身支度整えておきなさい。本当は制服が一番いいんだろうが、お前の一張羅のスーツを着なさい。そのくらいの礼儀は守るべきだよ。それと」

 父にしては珍しく、怖い眼差しだった。

「あの方の元へ一ヶ月お世話になる以上は、手抜きなど絶対にするなよ、下手なことしたら家から追い出すくらいのことはするからな」


 ──父さん、なんか目つきが違うよ。

「わかった。でも、明日、八時半に行くの?」

「違う、八時半にお会いするから、出発するのは七時半だ。そのつもりでいつもの時間に起きろよ、早めに今日は寝なさい」

 とにかく、やたらと面倒くさいことになりそうだという予感だけはびんびんとした。ぴりぴりした父の口調から逃れるため、上総はさっさと風呂を沸かしにいくことにした。もちろん、キーボードの練習は念入りにしておかないとまずそうだ。

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