その六 鍵盤めぐり(4)
高校生三人でわいわいやりながらピアノを弾いているうちにだんだん時間が過ぎていく。途中でお約束のフルーツゼリーたっぷりのケーキが届けられ、もちろんこずえがお母さんを丸め込んでおっぱらい、一休みすることにした。
「あーあ、やっぱりこれおいしいよね! 立村くんどう思う?」
「うん、甘ったるくないからいくつでも食べられるよな」
「やだよ、あんたになんかあげないよん。羽飛なら別だけど!」
あほっぽいやりとりを続けつつ、添えられた紅茶をいただく。本格的なセイロンティーだ。舌に響く。
「うちの母さんね、こういうの結構好きなんだよね。人をもてなしたくってなんない性格なのよ。だから本当は、私たちのところに割り込んできたくてなんないんだよ」
「わかる、そんな気する」
「でもね、今日はさすがにまずいでしょってことで。そうだ、ところでちょうどいいとこ、あんたに話しておきたいことがあるんだよね」
こずえはあっという間にケーキを平らげ、皿をお盆に重ねた。まだ上総と美里は半分しか手をつけていない。美里はともかく上総が残しているのは単純に、味わいたいそれだけだ。
「俺に? クラスのことか?」
「そうよ。例の水曜の件。もううちの女子たちが大騒ぎでさ。男子たちは一部C組連中覗いて白けたもんだったけど、私、ずっとどっかのテレビレポーターみたいに情報集めまくってたんだからね。えらいこった」
「そんな騒ぎだったかな」
首をひねる。上総自身の中では大騒ぎだった野々村先生との一件だけど、次の日A組の男子連中からはそんなに突っ込みを受けなかった。関崎を含め他の男子たちもあまり人の色事に興味を持つ奴が少なかったからかもしれない。もっとも考えてみれば、A組の男子連中は藤沖の恋愛沙汰についても話題にしようとしない。もともとどうでもいいと思っているのかもしれない。上総にとってはありがたいことである。
「女子はねえ、情報回るの早いからね。美里も木曜の朝、すぐ聞いたでしょ」
「貴史が水曜の夜にわざわざ私のうちに来て教えてくれたよ。なんなんだか」
それは知らなかった。上総が美里を静かに見つめると、口を尖らせて、
「だってしょうがないじゃない! 私が貴史の立場だったとしても、たぶん教えにいったと思うよ。あたりまえじゃない」
「でも、A組には来なかったよな、木曜と金曜は」
「だからそうなの! 貴史から聞いてたから、たぶん立村くん私に言い訳するのめんどうくさいだろうなと思って今日まで延ばしたの。当たり前でしょ!」
確かに上総の性格を美里は熟知している。
「お見それしました」
「わかってればいいの! でも、ねえ、こずえ、私が一緒にいて聞いてもいいことなの?」
恐る恐るといった風に、でも隠したらただじゃおかないといった凄みも利かせて美里が尋ねる。
「でなかったらここに呼ばないって。あのね、実はさ、私、C組の伴奏やる子、ええと誰だったっけ、元A組の子で」
「瀬尾さんか」
「あんた名前覚えてるんだ。珍しいね。そう、その瀬尾さんの事情をとある情報筋から聞いてきたんだよね」
含みを持たせ、こずえはフォークを握り締めつつ語る。
「野々村先生のことはまあ置いといて、瀬尾さんなんだけど、なんであの子がいきなり食ってかかったかってことみんな気にしててねえ」
「そりゃ気にするよ。本当にびっくりした」
野々村先生がらみの年上の視線に関していろいろ追求されるかと思いきや、話がそれていて少しほっとした。上総もむしろ、謎の憤りを見せた瀬尾さんの事情の方がはるかに共感できる話題だと思う。
「彼女ね、中学卒業までは音大目指すつもりでピアノ続けてたんだって」
こずえはさらりと語り始めた。
「けど、高校に入ってからは方向転換したらしくて、ピアノも別の先生につくことにしたんだって。この辺ややこしいんだけどね、最初瀬尾さんが習っていた先生は音大進学を目指す専用の子たちが集まる教室だったらしくって、あきらめることにした瀬尾さんとしてはいずらい場所だったらしいのよ」
「そうなんだ。私も瀬尾さんって話したことないからわからないけど、確か中学時代は音楽委員三年間やってたよね」
「そうなんだ、全然知らなかった」
影が薄い女子ということだけは把握した。
「でさ、方向転換したのが四月と考えてもう九月。五ヶ月しか経ってないわけよ。音大に行くったらものすごく学費かかるだろうし、レッスンだって大変だって宇津木野さんや疋田さんから聞いたことがあるけど、ほんとはんぱじゃないみたいだよ」
「だいたい想像はつく。芸事を本気で突き詰めたらそうなるよな」
上総も頷く。どういう事情かはこずえの話を詳しく聞かないと分からないが、子どもの頃から一筋に目指してきた道をあきらめねばならないというのは想像以上の苦しみじゃないかと思う。金銭的な負担というのは断念の理由になるだろう。
「で、これは又聞きなんで本当かどうかはわからないんだけど」
こずえは声を潜めた。いかにも女子の内緒話に紛れ込んだ居心地の悪さあり。
「そこのピアノの先生が、中学卒業後に瀬尾さん呼び出して、あんた才能ないからやめなさいみたいなこと、言ったらしいんだよね」
「うそ、そんな、ひどいこと言われたの?」
美里が口を覆って息を呑んでいる。
「そうそう。ただその先生の方針を知っている人からすると、才能のない人に無駄なお金をかけて音大受験勧めたってかえって不幸になるから、宣告は早いうちにという判断みたいなんだよね」
「引導渡したってことか」
「そう。そのピアノ教室では毎年中学卒業あたりにそのあたりの宣告が下されるらしいんだよ。もしその教室が趣味の範疇で稽古する子中心だったら、瀬尾さんもこんなに落ち込まなかったかもしれないんだけどね。居場所なくなっちゃったんだろうね。それで今は別の先生を元の先生から紹介してもらってのんびり続けてるってわけ」
すっかり紅茶が冷めている。飲んだ瞬間の苦味に目が覚める。
こずえは続ける。
「まあわかんないよ。のんびりって言ったけど瀬尾さん自身は一生懸命今でも練習してるんだろうし。ただね、うちのクラスみたいに、学校の演奏会優先だから合唱伴奏辞退しますなんて発想はなかったんだろうね」
「でも、瀬尾さんも確か、十月の演奏会出るんだろ? 肥後先生がそんな話していたけどさ」
音楽の授業でそんな話をしていたような気がする。上総が尋ねると、
「瀬尾さんはまだ自分が音大あきらめたなんてことを周囲に言いふらしてないからね。言う必要もないってこと。知らない人もほとんどだし、肥後先生も中学時代の実績からして当然目指すもんだと思ってエントリーさせたんだろうね。立村、あんたには絶対お誘いこないだろうけど、そういうレベルの演奏会なのよ。けど、瀬尾さんはもう階段から降りてしまっているわけだから、そりゃ複雑よね」
頬杖をつき、ため息を吐く。
「理由はよくわからないけど、いろいろ辛いんだと思うよ。周りはよかれと思って勧めたことなのかもしれないけど、気持ちの整理をするにはなかなか時間がかかるもんだよね。肥後先生や野々村先生が立村を一生懸命教えようとしてて、あんたもそれなりにがんばってて、和やかに稽古している中で、自分だけが無視されちゃったっぽい気持ちになったんじゃないかな。そんな気しないかなあ」
美里がこずえに向かい大きく頷いた。上総をじっと見上げるようにして問いかけてきた。
「立村くんなら、わかるよね」
「言葉にできないよな、それだと」
「そうだよね、立村くんなら、そうだよね」
鍵盤に目をやった。白と黒の鍵盤が並んでいるだけの楽器で、こんなにもひとりひとりの物語が奏でられている。




