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その六 鍵盤めぐり(3)

 手巻き寿司の魔力は偉大だった。あっという間におひつのご飯は空っぽになり、あまった海苔にかまぼこや果物や刺身のあまりなどをくるんでひたすら食べ続けるのみ。いつもだったらここでいろいろ馬鹿話に花を咲かせるところなのだろうが、

「さあさ、いっぱい食べてね。ところで美里ちゃん、今クラス別々になっちゃったけどみんなとうまくやってる? なんか面倒よねえ、女の子同士ってねえ、お姉ちゃんもそう思うでしょ」

 などと話を盛り立てるこずえ母の存在で、つい上総ひとり無言になる。こういう時に羽飛がいれば楽だろうにと思わなくもないのだが、観察するのも必要という判断のもといろいろ眺めやることにする。

「ほんっとに面倒ですよね。なんだか中学時代に戻りたくなっちゃいます」

「みんな仲良しだったもんね、菱本先生のクラスの時は本当に楽しそうだったもんね。高校になるとみないろいろ忙しくなるし、大変なのよね。あ、そうそう立村くん?」

 いきなり上総に話が振られて慌てて背を伸ばす。もちろん手に持っているのりとくるんだきゅうりは小皿に戻す。

「はい、なにか」

「いつもうちのお姉ちゃんのテストの手伝いしてくれてるのよね。クラスで英語は一番なんでしょう? 青大附属の英語科でトップというのはすごいことよね」

「いえ、それほどでもないです」

「なーに遠慮してんのよ、事実言ってあげてるんだからさ、もっと堂々としなさいよ! ったくねえ、母さん、思わない? この態度あいつに似てるって。私いっつも言ってるのがこいつなのよ」

「ああ、うちの王子様ねえ。確かにねえ。もう少し英語ができればねえ」

「英語以前の問題じゃん、あいつは! もう、今日さ、せっかくだったら一緒にご飯食べて少ししゃべらせてみたかったんだけどね、立村とさ。面白かっただろうなって思うんだけどどう思う美里?」

「こずえの弟くんとでしょ? うーん、どうだろう。立村くんはあまりうれしくないよね。自分の鏡を見るようなものじゃない?」

 どう答えても失礼にあたりそうなので、あえて食べ物のみで口をふさぐことにした。どうも女性ばかりが揃うと、息苦しくなる。いや美里とこずえだけならばまだ平気なのかもしれないけれど、明らかに自分よりも年上の異分子女性が混じると、かなり辛い。こずえのお母さんが苦手というわけではなく、年齢というものさしの差だ。


「さってと、おなかいっぱいになったとこでだけど、本日の命題いくよ。母さん、悪いんだけどこれから三人でピアノレッスンに専念するから、ちょっと三人だけにしてもらえるかなあ」

 食器類を下げ終えた後、こずえが切り出した。台所へ向かうらしいこずえのお母さんは少し怪訝な表情を浮かべた。

「私がいちゃまずいのかしら。別に隠し事しているわけじゃないでしょう?」

「するわけないじゃん、この面子で。けどねえ」

 こずえはピアノの蓋を開けた。つややかな鍵盤が光っている。

「昨日話したじゃん、うちのクラスの合唱コンクールのこと。立村がピアノ持ってないのに伴奏者になっちゃったから、練習場所提供しなくちゃってこと」

「前から聞いてるわよ。ぜひぜひいらしてってあんたに伝えたじゃない」

「だからさあ、私が言いたいのは、まだ稽古して一週間も経ってないのよこいつ。母さんわかるでしょ。ろくすっぽ弾けないのにさ、みんなにご披露なんてことまだできそうにいないじゃん。今は稽古の時期なんだしさ」

 上総が口を挟む間もない。こずえお得意のマシンガントークが炸裂している。話を聞いているこずえのお母さんは表情を緩め始め、上総を楽しげに見つめた。

「はいはいよくわかってますよ。あんたよりもその辺は専門家ですからね」

「まだ雨だれ状態のぽてぽて弾きしかできない状態で母さんに聴かれたくないってのも、あるじゃん、そうだよね、立村、ちょっとあんた返事しなさいよ」

 ──いや、返事をしたらまたどつぼにはまるからやめとく。

 あえて飲み込み。頷くだけにする。

「何も私だってこんな面子で3Pなんて発想ないしね。母さんそっちの方は安心していいよ。ま、気になるんだったらこっそり扉にガラスのコップくっつけて聴くくらいならOK。とにかく練習中なんだからそこんとこ、気遣いしてよね」

 笑い出したこずえの母はやれやれといった風に娘を見やり、

「しょうがないわね、そんなんなら大人は退散するとしますか。別にガラスのコップはくっつけるつもりはないけど、さっき美里ちゃんたちからもらったケーキを運んでいくくらいは許してもらえるわよね」

「そりゃあもちろん!」

 なんだかそこまで気を遣ってもらわなくてもいいような気がするが、実際こずえの言うことは正しい。なんとか両手で弾けるようになったとはいえまだまだ先は遠い。こずえと美里は事情を理解してくれているので上総のたどたどしい演奏も耐えてくれるだろう。しかし、初対面のこずえ母の前でその姿をさらけ出すのは辛いものがある。

 

「さってと、うるさい大人がいなくなったところで」

 盗み聞きされている可能性ももちろんあるが、その点は深く考えないことにする。

「立村、あんた楽譜持ってきた? まずは弾きなよ」

「ありがとう、遠慮しないで弾くよ」

 ちゃんと許可も得たわけなので、さっそくかばんからファイルを取り出し、譜面立てに立てかける。二曲分がまとまっている。

「じゃあ最初は、『恋はみずいろ』弾いてみなよ」

 リクエストにお答えする形でさっそく鍵盤に指を走らせて見る。譜面を読みながらゆっくりと弾く。なんとかつっかえずに進むことができた。

「うわあ、立村くんがんばったじゃない! すごい、すごい!」

 美里が満面の笑顔で拍手してくれた。なんだか照れくさい。一方こずえは、

「まあ、一週間しか経ってないならこれだけできればってとこかな」

「辛い評価だな。否定しないけど」

「だってさ、あんたもう一曲あるんだよ。『モルダウの流れ』こっちはどうなのさ」

 勢いで二曲目に進む。こちらはなかなか手ごわい。思いっきり和音を弾き間違えたりなんなりしてしまう。やはり難しい。

「こっちはまだかあ」

「こずえ、それかわいそうだよ。まだ一週間しか経ってないんだよ。立村くんもすごく練習したんだなってことよくわかるよね」

 努力を認めてくれているのはありがたい。美里の言葉は救いだが現実は厳しい。

「あのさ、立村、できればさあと一週間で歌と合わせられるようにしたいんだけどそこまでやれる?」

 こずえの問いに思わず考え込む。そりゃ無茶だ。

「そんな非現実的なこと言うなよな」

「いやね、できれば来週から合唱の練習を開始するつもりなんだけど、たぶんみな部活が忙しいとか、演奏会準備とか、あと塾とかいろいろ理由つけて参加できない子が圧倒的に多いような気、するんだよね。今日美里が逃げ出したみたいに大嘘つく子とかも」

「悪かったわね」

 美里にはかまわずこずえは腕を組んで頷く。

「うちのクラスなんだけど、知れば知るほどいろいろ面倒な事情もちの子が多いってことが判明してね。私も毎日放課後残るよう声かけるつもりだけど、全員揃うのって物理的に無理なのよ。だったらさ、昼休みとか時間使える時にパートごとでもいいから集まって練習ってことが必要になるわけ。その時にあんたの弾いた曲がテープに入っていれば、その場で即練習できるじゃん?」

「そういうことか、なるほどな」

「そういう細切れの練習を積み重ねないと、かのC組連中を負かすことは難しいと思うのよねえ。だからさ、立村には悪いんだけどもう少しピアノのお稽古がんばってもらって、その上でテープに吹き込んでほしいわけよ。そのためにあと一週間でなんとかならない? ターボエンジンかけてもらえないかなあ?」



「ただ、一週間だろ。あまりにも無理過ぎだよ。独学でやるには限界あるよ」

「やっぱり野々村先生に見てもらう?」

 美里と一緒に無言の抗議をする。

「あっそっか、そのことも気になってたんであとで教えなさいよ。とにかくじゃあ、ここでとことん弾きな、繰り返し弾いて練習して、今日帰る時には『モルダウ』も両手で最後まで弾けるところまで持っていきなさいよ!」

 ──古川さんもそれなりに準備進めてるんだな。

 協力するつもりはある。もちろんテープを吹き込む準備はしたい。上総はすぐにピアノに向かい、『モルダウの流れ』をゆっくりと弾き直し始めた。目標は、とにかくつっかえないで録音レベルまで持っていくこと、これしかない。

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