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その六 鍵盤めぐり(1)

 一年A組の合唱練習は九月に入ってから本格的に始めることにする。評議・古川こずえの判断だった。誰も文句を言う奴はいなかった。

「他のクラスはすっごい盛り上がってるみたいだけどね。誰とは言わないけどね」

「C組、あれなんなのさ。羽飛もなんか最初引きずられてたみたいだけどあっという間に飲み込まれちゃったもんねえ」

 目の前でこずえが額をたたきながら美里に話しかけている。ふたり並んで歩いているその後ろに上総は黙って従っていた。先週と同じ土曜日の放課後。違うのは羽飛の姿がないことと、自転車を押して歩いていることくらいか。

「けどB組はどうなのよ、そっちも結構合唱コンクールに命かけてるんでしょ。誰とは言わないけど評議の」

「そうね。担任と一緒に燃えてるね。けど今日は私、最初から用事あるって言って抜け出してきたから大丈夫。先週約束したことだもん、いきなり昨日練習提案されても困るよね。知ったことじゃないわよ」

 ふくれっつらで……美里の顔は見えないが……文句を垂れ続ける美里。気持ちはなんと分かるので口を挟むつもりはない。

「けど立村くん、音楽室で毎日練習してるんでしょ?」

 振り返った美里はいつもの笑顔で話しかけてくる。二つわけの髪型を揺らしている。

「ピアノが空いていればだけど。今日は三年二クラスが伴奏つきで練習することになっていたみたいなんだ。たぶん九月になったらゆっくり弾けなくなるだろうな」

 一緒に音楽室を覗きにいったのだから、ふたりともわかっているはずだ。今度はこずえが立ち止まった。

「なーに、陰気くさいこといってるのさ。最初からそれわかってたでしょうが! さてさてA組は来週まで歌の練習はなし。短期集中型でとことん突っ走る予定。その間に関崎もなんとかかんとか形にしてくれるろうし、問題はこいつよ、ねえ」

「まだ四日しか稽古していないようなものだしさ。いきなりあわせろと言われたらそりゃ困るよ」

「わかったわかった、あんたには帰り、ちゃんと約束のぶつを渡すから、それで毎日練習しなさいよ。一日の終わりのお勤めも控えなさいよ」

 一瞬言われた意味がわからず首をひねると、

「あんた知らないの? 勝負事前日一週間はしっかりエッチ控えるのが決まりなんだからね。終わったら思いっきり抜きゃあいいの。まだ今は練習前だからいいけれど、そのことはよっく覚えておきなさいよ!」

「古川さん、今、何時かよく考えよう」

 上総は空を指差した。八月最後の青空が、冷たい風と一緒にまろやかに広がっていた。


 三人でのんびりと自転車を押しながら歩き、二度目の古川宅訪問となる。先週の段階で約束し、それから出来る限りこずえの家でピアノを弾かせてもらう予定だったがさまざまな予定変更も重なったためだいぶ間が空いてしまった。美里も最初は付き合えそうにないようなことを話していたが、いろいろ思うところもあるのだろう。あえてライバルA組の手伝いをしについてきてくれている。もともと上総をこずえ宅に呼ぶには女子が一緒でないといわゆる不純異性交遊の誤解を受けないとも限らないという、至極ごもっともな理由がある。

「古川さんのお母さんは今日、うちにいるの?」

「いるよ。あんたたちが来るって聞いて、張り切って料理してる。あ、うちの弟は今日用事があって夜まで帰ってこないよ。一度くらいちゃんと挨拶させたかったんだけどねえ」

「それじゃあ、ねえ、立村くん」

 美里は上総に近づき、小声でささやいた。

「お土産なんだけどどうしよう」

「俺もそれ考えてた。向こうに見えるケーキ屋で買っていこうか」

「そうだね、賛成!」

 さすがに手ぶらで行くのは気がひける。本当は美里と相談したかったのだが、この二日間いろいろと悩むところがありあえて顔をあわせるのを避けていたと言ったほうがよい。なにせ美里はB組の人間なのだから、あの担任がらみのことも触れるのが正直辛い。もっとも美里に罪はないわけで、こうやって話してほっとするところもある。まったく、まったく。

「こずえ、ちょっと悪いんだけど、私たち買い物忘れてたから、先におうちに行ってて。私、道わかるから、立村くんを迷わないように連れていけるしね!」

「えー? 気を遣わなくたっていいのに」

 ふくれっつらのこずえに上総も促す。

「いや、いいよ、俺も少し清坂氏と話があるしさ。別に古川さんをはずしてって意味じゃなくて、いろいろと」

「ああ、そうですかそうですか、私は無視ですか、ってね。でもまあいっか、いいよ、じゃあ私先にうちに帰ってるから、早く来なさいよ!」

 含むものを感じたのかはわからないが、あっさりこずえは引き下がってくれた。ありがたい。これで少しだけ、時間稼ぎができる。


 通り道側のケーキ屋は一坪程度の狭い店なのだが、先週の帰り道に何気なく覗いてみて気になるものがあった。特に美里はカットフルーツをゼリーにたっぷり詰込んだケーキらしきものに御執心だったのを上総は覚えていた。価格も大きさの割りに手ごろ。こずえと自分らふたり、およびこずえの母、弟も含めてちょうどいい手土産になるだろう。

「よし、これで大丈夫。立村くん、ちょっと割高になっちゃったかもしれないけど、半分もらうね」

 すぐに美里が半額分を計算してその金額を上総が払った。

「ありがとう、いいとこ見つかってよかったよ。清坂氏はいい店見つけるのうまいよな」

「まあね。あ、そうだ、立村くん」

 ドライアイスを入れてもらい、少し重たくなったケーキ箱をぶら下げたまま、美里は店から出るならすぐ上総に質問を投げかけた。

「ほんっとにたいしたことないんだけど、聞いていい?」

「いいよ、なんでも」

 いつか来るだろうとは思っていた。美里の耳にも届いていないわけがない。C組クラス全員の前で野々村先生がさらけ出した謎の言動と、そこになぜかA組の上総が混じりこんでいたということを。羽飛がどの程度まで説明したのかはわからないが、他ルートからもまた別の情報が流れ込んできている可能性がある。もちろん上総にやましい気持ちはこれっぽっちもないので堂々と説明する気持ちはある。

「水曜のこと、って言ったらわかるよね」

「だいたいは。聞きたいこと聞いてもらえれば全部答える」

「そっか、じゃあ聞いちゃうね」

 ちっとも気にしちゃいないといった風に、唇を尖らせ美里は上総の顔を覗き込んだ。

「うちの担任が立村くんにわけのわからないことしたって、ほんと?」

「羽飛の話したことでほとんど合ってると思う」

「え? それだったらとんでもない話になっちゃうよ。場合によっては私、立村くんひっぱたいちゃうけどなあ。だってね、貴史言ったんだよ。いきなり立村くんを連れてうちの担任が音楽室にやってきて、一時間みっちりピアノレッスンして、その後でさらに練習を毎日やるとかわけのわかんないこと言い出したんでしょ?」

「だいたい合っているけど、羽飛は肝心のこと言うの忘れてるよ」

 そうだとは思ったが、訂正しておかないと本当にひっぱたかれそうだ。

「その後ちゃんと俺の方から断ったよ。B組のことを後回しにしてまで俺の練習を見てもらう必要ないってことをさ」

「大丈夫、聞いてる。心配しないで。立村くんがちゃあんと拒否したことはわかってるもん」

 ひっぱたかれずにすむ証拠に、美里はいたずらっぽく微笑んだ。

「けど、なんでだろうね。うちの担任、なんで立村くんをひいきしようなんて思っちゃったんだろうね。十歳も年下の生徒に変なこと思うわけ普通ないし、何か裏でいろいろあるのかなとかつい思っちゃった。貴史ってばね、思いっきりありえないこと言うんだよ? 立村くんのことを野々村先生が本気で好きになっちゃってて、めろめろになっちゃって乙女心丸出しにしてるなんてね。笑っちゃう。そんなわけ絶対ないじゃない! 年下ったって限度あると思うよね」

「俺もそう思う。他の一部の男子も勘違いしているみたいだけど、それだけは絶対にありえないよな。たぶん、俺のピアノのレベルがひどすぎて心配になっただけだと思うよ」

 そうとしか思えない。少なくとも難波、更科の言葉にあるような妄想が存在しているわけなんてない。上総もこの三日間ほどは出来る限り野々村先生とすれ違わないよう教室から最小限出ないようにしていた。国語の授業が当たっていなくてよかったと心底感謝した。普通の目で意識しないで見ることできるほど、上総は人間できていないと自覚している。

 そう、ありえない。絶対に。


 ──更科のケースは、本当に、例外中の例外なんだしさ。

 

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