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その五 野々村先生との補習時間(4)

 何度か間違ったところをさらい直したり、「モルダウの流れ」の譜読みを手伝ってもらったりして時間は過ぎていった。やはり自分ひとりだと進まないものが誰かの手助けをもらうだけであっという間に進んでいく。数学の問題よりもピアノ関連のほうが野々村先生には向いているのではないだろうかとすら思う。

「立村くんはたぶん耳で覚えているのでしょうね。曲を何度も繰り返し聴いてそのテンポに合わせて譜読みを進めていくという方法を取っているのであれば」

「たぶん、そうだと思います」

「でも、合唱コンクールではせっかく譜面を持っていけるのだし、譜面を読みながら練習した方が効率的ではないのかしら」

 もちろんそれは分かっているのだが、いかんせん上総は、

「僕は数えるのが苦手なので、丸ごと覚えてしまった方が楽なんです」

 絶望的な答えをかえした。あっさり引き下がってくれると思いきや、野々村先生は頑固に、

「いえ、でも私は譜面を大切にしたほうがいいと思います。もちろん暗譜できるほど練習するのに越したことはありませんが、つい度忘れしてしまい演奏中に手が止まってしまうことも考えられます。そのためにぜひ譜面を読めるようにしてほしいのだけどどうかしら」

「読めなくはないんですけど、得意でないという程度です」

 一応は目を通してリズムやメロディーを追うことは出来る。ただ下線がいっぱい引いてある音符がどの音かを探すのが面倒くさいという程度のことだ。早いうちに適当に曲を覚えて暗譜し乗り切ることさえできればたぶん、大丈夫なのではと思っている。

 やはり不満があるようで野々村先生はまだぶつぶつつぶやいている。

「せっかくここまで弾けるのに、基礎のところが弱いともったいないわ。誰か見てあげる人いないのかしら」

 ──なんで俺の練習を見るたびみな同じこと言うんだろう。

 それでも野々村先生の説明は分かりやすい。たぶん上総が数学の基礎にたどり着いていさえすれば先ほどの補習説明も問題なかったのではないかと思う。野々村先生は直接弾いて教えるわけではなく、懸命に楽譜の音符を両方指差して、すぐに両手で弾けるよう指導しようとしている。このやり方は初めてで正直驚いたが、なんとなく腑に落ちるところもあって素直に試して見ることにした。片手ずつ練習していくよりもすぐメロディが身体の中に納まっていくのが分かる。


 その間、ライバルC組の練習は反対側においてあるグランドピアノ中心に着々と進んでいる様子だった。なぜか出てこない肥後先生。外に出かけているのだろうか。よくわからないがピアノの鍵が開いているのであれば遠慮はいらないだろう。それはC組の評議である羽飛も、元評議三羽烏も、その他の連中も同じ思いらしかった。

 ピアノの手を止めて、改めて唄に聞きいると、野々村先生がいぶかしげに尋ねる。

「どうしたの、練習は」

「いえ、どうして伴奏しないのかなと思っただけです」

 ずっと不思議に思っていたのだが、C組連中はひたすらパート練習に勤しみ、途中声をそろえたりもするけれど基本、ピアノの音色は聞こえない。最初、伴奏役の瀬尾さんが来ていないだけなのかとも思ったが、何気なく振り返って確認した限りちゃんと混じっている。合唱のパート練習も手伝っている様子だ。

「せっかくあれだけ揃っているんだったら、早く伴奏に合わせればいいのになとか思ったんですが、合唱の練習には決まりがあるんでしょうか」

「そうね。確かに私もそれは不思議に思っていました。でも、他のクラスのことに口出ししてはいけません」

 自分に言い聞かせるような口調でつぶやき、野々村先生は上総にピアノ練習を続けるよう促した。

「まだ、まだまだ歌にあわせるには練習が必要です。立村くんはもっとすべきことに力を注いでください。それが今、すべきことなんです」

 ──ごもっとも。


 だいたい一時間くらい練習を続けていた。当然のことながらC組連中も音楽室にたむろい続けているわけであり、野々村先生もまだ張り付いている。

 ──野々村先生ほんとに俺につきあってていていいのかな。

 少し心配になってくる。補習時間から熱心に指導してくれる国語の先生だが、内容が数学でありかつピアノとくると、いったい何のためにここにいるのかがわからなくなる。上総の個人的面談教師であることは確かだが、何もそこまでひとりの生徒にくっついていなくてもいいんじゃないだろうか。なんだかこのままだと美里にまたひねられそうだ。証人の羽飛もC組グループにいるし、どちらにせよ謝らなくてはならないことがひとつあるし、いろいろと気が重たい。  

 ──タイミングよく、職員室に戻ってもらえないかな。

 その一方で指導は分かりやすいのだからたちが悪い。実際、たった二日で両手弾きができるようになり、それなりに形にはなってきた。自分でアピールした分は決して大げさではないという証明はできそうだ。あとはなんとかして練習場所とキーボードを借りるなどして対応すればなんとかなりそうだが。野々村先生はどうもこだわりがあるらしい。

「とにかく、もっと基本に戻らないと。一ヶ月あればある程度は直せるのではと思いますから、肥後先生にもその点ご相談しなくては」

 ──じゃあ肥後先生、音楽準備室にいるから行って話をすればいいのにな。

 それでいて全く上総から離れようとしない先生に、どうにかしてタイミング見計らってお引取り願う方法はないか、ひたすら考えていた。


 後ろから声がかかる。振り返ると羽飛をはじめとする男女C組一同が興味津々といった風に上総の向かっているアップライトピアノに近づいてくる。練習が一段落したのだろうか。しかしクラス全員が寄ってくることはないだろうに。軽く頭を下げた。

「さっきからさ、お前の練習聞こえてくるけど、まじお前、もうこんな弾けるの?」

「うん、なんとか、教えてもらって」

 事実だし頷く。野々村先生がいなければもう少し砕けた答えもしたいのだがそういうわけにもいかない。野々村先生はやはり動こうとしない。静かにC組全員の顔を眺めている。

「すっげえー、りっちゃんやっぱ才能あるじゃん!」

 割り込んでくるのは南雲だった。野々村先生の間に割り込むようにして鍵盤を覗きこみ、

「さっきからさ、りっちゃんの弾いている音聞いて、まじ初めての弾きかたじゃねえわこれとか思っちまってさ。結構シンセサイザー系とか得意?」

「結構どころかかなり好きだよ。即興で弾いたりしたいな、とか思うし」

 羽飛が頷いている。実際奴の目の前で弾いてのけたのだから。

「けどお前、おととい譜面もらったばかりだろ? 俺が証人だが」 

 指揮棒を握り締めたまま難波が反対側から覗き込む。

「そうそう、立村ちゃーん、なんであの評議委員会全盛時代にその特技を見せ付けなかったんだよん水くせえじゃん。ピアノの絡んだビデオ演劇できたろうになあ。本条先輩悔しがるぞぜってえ!」

 明るく盛り立てようとするのが天羽。相変わらずだ。あまりにも褒められていると女子たちの間に漂う空気がまずくなるものだが、その点は更科がすぐに対応している。

「まあ、立村はうちにピアノがないからしょうがないよなあ。俺、さすがにピアノのない状態で立候補する勇気ないよ。瀬尾さんいてくれて助かったよね。感謝感謝」

 結構C組の鉄板ぶりは手ごわそうだ。こずえたちには悪いが、合唱コンクール全校優勝はあきらめたほうがいいような気がする。


「立村くん、周りの人が褒めてくれるからといってこのままではやはりよくないわ」

 水を差す発言をしたのはやはり野々村先生だった。すっと上総のつながりある友だち連中と、また冷ややかな眼差しで眺めている女子たちに聞こえるように、

「他の、真剣にピアノを弾いてきた人たちのことを考えると中途半端な形で伴奏するのはよくないと思います。ピアノがご自宅にないのであれば音楽室を利用することもひとつですけれど、できれば私が少し出来る限り観てあげたいのですけれど」

 静まり返った。

 ──あの、野々村先生、今、なんと言った?

 言葉も出ない。上総が凍り付いている中、野々村先生はさらに話を続けた。

「もちろんうちのクラスのこともありますけれど、ただあまりにも差がある状態だと学校側のコンクールとしてもやはり難しいものがあります。自己流だと限界もありますし、肥後先生もいつもレッスンが可能とは言えません。ですから私が時間のある時に」

 ──いや、それは無理、絶対無理。先生、自分のカリキュラム全く頭に入ってないだろ? てか、正気じゃないよ、その発想!


 上総も知らないわけではない。青大附属の教師たちはどう考えても通常の負担とは思えないくらい生徒たちに関わろうとしてくる。夏休み最終日の菱本先生がよい例だ。同席していた父が説教してしまうくらいに教育に暑苦しいほどの情熱を燃やしていることはよくわかっている。しかし、同時に教師という仕事が雑務の嵐であり、生徒たちと顔をあわせている時だけではないということもさまざまな場面で耳にしている。少なくともひとりの生徒にべったりくっついて個人レッスンしようとするだけの時間が野々村先生にあるとは、どう考えても思えない。そんなことしたら一年B組の生徒たちはどうなるのだろう。上総も美里に縁を切られるほど野々村先生にひいきされたいとは思えない。

「あの、先生、お気持ちはありがたいのですが僕も、土日に別の先生にレッスン受ける予定でいますので」

 言いかけた。そのとたん女子の声が勢い割り込んできた。高音、そして和音。

「先生、それなら私もお願いします!」

 ぎょっとした顔で野々村先生がその声を探した。探すまでもなく、その声の主は女子たちのまとまりの中を割って飛び出してきた。

「私、今事情があり先生についていないんです。立村くんが個人的に教えてもらえるということであれば、私にもその権利、あるはずです」

「瀬尾さん?」

 名前を、恐る恐る尋ねる野々村先生に、瀬尾さんは強い口調で訴えた。上総のことは目に入っていない様子だった。

「ピアノは家にありますが実際練習する暇はありません。他の演奏会出演する人たちと違って伴奏もしなくてはならないというのはかなりの負担です。もちろん、簡単な楽譜だからといわれればそれまでですが、演奏会にその他の曲を二曲練習するというのは本当に負担なんです。それなら、私も、個人レッスンしてもらえる権利あるのではないでしょうか? 生徒はみな、平等なはずです」


 ──どうするんだよ、これ。もう俺の手に負えないよ。

 やはり思ったとおりだった。ものすごい剣幕の瀬尾さんに飲まれたかのように野々村先生は襟を直して、早口に瀬尾さんへ答えた。事務的な口調だった。

「ごめんなさい、瀬尾さんの事情は初めて伺ったので私ひとりの判断では難しいわ。とりあえず肥後先生に相談してきますね」

 慌てて音楽準備室に向かいノックをするが返事がなかったらしく落胆の様子だった。そのまま、挨拶もせず足早に音楽室から飛び出していくのを、上総とC組一団はあっけに取られて見つめるだけだった。



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