その五 野々村先生との補習時間(3)
間が悪いと言うしかない。先日難波と帰り道話したことをもう少し頭の隅っこにおいておくべきだった。青大附属のシャーロック・ホームズの鋭い頭脳……かどうかは別としても……が目的を定めた今、即座に行動を開始するというのはすでに予想通りだったはずだ。羽飛にも早く連絡を入れておくべきだった。そうすればC組連中の動きも掴んで今日この場で野々村先生の家来みたいにおずおずと音楽室に向かうこともなかったわけだ。
「立村、どうした、あっそっか、お前も練習せねばなんないもんな」
いたってのんきに羽飛が近づいてくる。野々村先生には適当に頭を下げ、
「たまたまうちのクラスでパート練習をしていただけなんで」
ときっぱりあっさり説明する。確認はしていないが、羽飛も野々村先生にはあまりいい感情を持っていないはずだ。美里からたんまり愚痴を聞かされているだろうし、その言動には羽飛もあまり共感できないものが多いだろう。上総とはそこが違う。
「ありがとう。じゃ、立村くん、あのピアノで練習しましょうか」
みな、興味津々と言った表情でじろじろ視線をぶつけてくるのが分かる。C組の男子連中は評議三羽烏や羽飛、南雲、その他何名かは昔からの知り合いばかりで挨拶もする仲だ。ただ女子は……まあ元青大附中三年D組メンバーも何名かいるわけで……あまり好意的な視線とは言いがたい。またいつものパターンでひそひそしているのが聞こえる。
──なんで野々村先生、わざわざ俺にくっついてこようとするんだろう。肥後先生に用事があるなら時間をずらしてくれればいいのに。補習が早く終わったのはラッキーだけどさ。
「ごめん、こっち側で弾かせてもらうから、気にしないでもらえると助かる」
「わあったわあった、じゃ天羽、やるか俺らも! さあさあC組はグランドピアノに集合だ! ってなことで、まずはパート練習やるぜ!」
へらっと笑い、貴史はさっさとC組の生徒全員を呼び寄せ、難波になにやら説明しながら両手を打ち鳴らし始めた。天羽も難波も上総に軽く指で合図を送っている。まあ気にするな、とそんな感じだろう。
向こうがそうならこちらはそっとアップライトピアノを開く。鍵は開いていた。
「肥後先生が開けてくれたのね」
ひとりごとのようにつぶやき、
「向こうは向こうで集中しているようね、さあ、がんばって」
──どうでもいいけど今日の採点、いいのかな本当に。
朝一時間目が国語の試験だったから、まさかとは思うがもう丸を付け終わったなんてこと言わないだろうか。何かぴりぴりするものを首筋に感じながら、
「あまり、真剣に聴かないでもらえると助かります」
小声で答えた。弾けるわけがない。そんなに肩越しにじっと見つめられた状態で。
「そいじゃあ、いくぞ、んじゃ、ホームズ指揮頼んだ!」
「まかせろ!」
天羽と難波のやり取りと共に響き渡るアカペラの「恋はみずいろ」。まだピアノ伴奏をつけない状態らしく、途中でいったん切っては別の生徒たちが、
「ちーがう! 音がひとり、違う人いるの! もう一回歌ってみて! ハーモニー美しくなあい!」
などと文句を付け出す。男子たちも女子たちの指摘には耳を貸さないが、天羽や
「まあまあみんな、仲良くやろうよ。ね、あとでみんなで学食でアイス食べようよ」
などとのどかに間を取り持つ更科の声でみな、また繰り返し歌いだす。相変わらずピアノの演奏はない。瀬尾さんはまだいないのだろうか。
つられないように、目をつぶって雑念を払い、改めて鍵盤を見つめる。
メロディはたぶん、自分の中に昨日の段階で蓄積されているはず。そう信じよう。
どうせまだ稽古して二日目なんだから。覚えられるわけがない。
上総は弾き始めた。
楽譜を見つつ、つっかえながらもゆっくり最後まで弾くことができた。グランドピアノ周りで何度も同じパートを練習し騒いでいる連中を参考にしながら、メロディの流れをつかめたのは収穫だった。
「二日目、よね?」
隣りでまた首をかしげるようにして上総に尋ねる野々村先生、お世辞を言うでもなくただ不思議そうに、
「どうやって覚えたの」
「昨日、肥後先生に教えていただきました、それだけです」
「それにしては覚えが早いわ。私もまさかもう最後まで弾けるようになっているとは思わなかったもの」
野々村先生は指で譜面立てに置いた楽譜に目を通した。
「楽譜の読み方は学校で習ったのかしら」
「学校に入る前に、母から教えてもらいました」
──音符ひとつでも間違えると思いっきりひっぱたかれたけどな。
「初見演奏の練習をしたことは?」
「いえ、ないです」
「うちでのお稽古ではどのように曲を覚えたの?」
「母が弾いた曲を何度もテープで聴いて、それから楽譜に合わせて指動かして覚えました」
──急いで暗譜しないと昼のおやつもらえなかったんだよ!
幼年時代のピアノ稽古の思い出がどんどん記憶に映し出される。甘い想い出よりも、あの頃から始まっていた母との壮絶な日々に思わず頭が痛くなる。
「私が甘く見すぎていたようです、ごめんなさい。立村くん、本当にピアノを弾くのが好きなのね。でも、こんなに好きならなんでお稽古に通わないのかしら」
野々村先生は何度も語尾に「かしら」をつけて尋ねてきた。
「母の意向です」
──俺の性格上よその稽古場に練習しに通わせるなんて恐ろしいことはできなかったんだとさ。この前、『おちうど』のおかみさんたち相手に思う存分俺の悪口言い放ってたの、悪いが全部聞かせてもらったんだけどな。
「もったいないわ。お母様のご意向ももちろんあるのでしょうけれども、独学だけに留めるにはあまりにももったいなさ過ぎます」
──たぶん月謝がもったいないなかっただけだよ。母さんああ見えて人に対してはけちだから。
上総の家庭の事情を知らない野々村先生には申し訳ないが、ピアノを習いたいという気持ちは今のところ全くない。父が探してくれた先生のところには一ヶ月だけなら通うつもりだが、そのまま延々と続ける気はない。それこそ、私立中学で月謝の他に親への負担をかけたくないし、第一それこそピアノがない。練習しようがない。合唱コンクールが終わればこずえから借りる予定のキーボードも返すし、継続することはどう考えても難しい。
「僕は、今のままでいいと思っています」
次の楽譜「モルダウの流れ」を譜面立てに置き、上総は野々村先生を見上げそう答えた。その瞳に、どこか同級生の女子たちと同じような眼差しを見つけて、思わず戸惑った。
──清坂氏には悪いけどさ、どう見てもこの先生、嫌な人には思えない。ただ、やはり。
なんとなく、そりの合わない答えだけは浮かんできた。
──えこひいきは、たぶんしてしまうタイプの人なんだろうな。それはわかる。今、ほんとに。




