その五 野々村先生との補習時間(2)
自由研究の話を切り上げた後、野々村先生は上総の手こずっていた二問目の問題をさらさら解いて説明してくれた。三問目、四問目も同様だった。しかしいかんせんその説明自体が日本語として入ってこない。決して難しいことを言っているわけではないのだろうが、頭の周りに硬い城壁が張り巡らされているようでいくら叩いても響いてこない。
「立村くん、この問題だと難しいかしら」
手ごたえのなさを感づかれたのか、野々村先生は不安そうに上総を覗き込んだ。
「すみません」
「謝らなくてもいいの。でもそうね、この問題は立村くんには不向きのような気がします」
じっとプリントを見下ろして、
「今回初めて補習の内容を見させてもらったけれども、やはりやり方を変更する必要があります。来週までには新倉先生とも相談して別の方法を考えるようにしましょうか。それともうひとつ、気になることがあるのだけど」
折り目正しく手を膝に置き、野々村先生は尋ねた。
「この前、合唱コンクールのことで麻生先生と話しているところを偶然耳にしてしまったのですが、立村くんが伴奏を担当するのは決定したの?」
やはり聞かれていたのだろう。わかっているが自分から説明するのは気恥ずかしい。
「はい、今日もこれから音楽室でピアノを弾かせてもらう予定です」
「肥後先生が見てくださってるのね」
「昨日は二時間、練習を見ていただきました」
「テスト前なのに?」
まじめな顔で問われるとまた謝らなくてはいけないような気持ちになる。
「合唱コンクールはどのクラスも真剣に取りくむ行事だし、一生懸命なのはよいことですけれど、ただお家にピアノがないといろいろ不便でないかしら」
みな口をそろえて心配してくれるがもう腹をくくっている上総に怖いものはない。
「友だちがキーボードを貸してくれる予定です。それで家では練習するつもりです」
「でもキーボードだと鍵盤の感覚が全然違うでしょうし」
何で誰も彼もが上総に伴奏への不安を植え付けようとするのだろう。なんだか正直いらいらしてくるところもある。一番楽天的なのは確かに当の本人である上総なのだが、ある程度ピアノの稽古も途切れ途切れながら積んでいるし、まあなんとか「エリーゼのために」くらいはとちらずに弾けたのだからと安易に発想しているところもなくはない。
「私、少し不思議に思ったのですけれど、なぜ立村くんは今までやろうとしなかった伴奏に興味を持ったのかしら? 中学の合唱コンクールでは伴奏ではなく」
「評議委員だったので指揮者でした」
「でも今回、A組には他に弾ける人いなかったの?」
──だからいなかったからこうやって立候補したいんだけどな。
同じことを繰り返すのは正直面倒だが、野々村先生がここまでの経緯を知っているわけがないので仕方なく説明する。そう、誰も代わりの伴奏者がいなかった。これにつきる。
「十月のピアノ発表会が関係しているということなのね。今年初めての企画だからみな、一生懸命に練習しているしこれ以上負担できないところがあるのかしら」
「僕も、直接他の人たちに聞いたわけではないのではっきりしたことは言えませんが、みなピアノが本当に上手な人たちばかりですし集中したいのかもしれません。難しい曲を弾くためにはそれなりの準備が必要だと思います」
上総はここまで言い切り、
「僕も、歌うよりは弾くほうが正直、気が楽です」
今まで口にしたことのなかった本音を、ちょこっとだけ出してみた。
野々村先生は腕時計を脈の部分で確認し、ノートをまとめて立ち上がった。
「少し早いのですけれど、今日の補習はここまでにしましょう」
「いいんですか?」
まだ別グループの補習チームは和気藹々と二次方程式について語り合っている。野々村先生が立ち上がったのをいぶかしげにみな見つめている。ついでに上総が座っているのもじろりとにらんでいる。
「野々村先生、もう終わりですか」
新倉先生が声をかけてきた。
「はい、立村くんの件についてはあとでまた連絡しますので今日はここまでにいたします。少し気になることがあるので」
きっちり一礼をした後、
「音楽室に立村くんを連れていってきます。肥後先生にもお伝えしたいことがありますから、それでは失礼します」
気になることを一言付け加えると、しずしずと扉を押した。上総に振り返り、促すように頷く。上総もしかたなく、新倉先生と他の学生たちに頭を下げると野々村先生に従った。
──肥後先生にお伝えってなんだろう。また俺が伴奏やるの無理だとか言うつもりかな。
どうも野々村先生の言動をまだ捕らえかねている。本当は上総が落ちこぼれてしまっている補習の状況を確認し、場合によっては手伝ってくれるつもりだったのかもしれない。少なくとも上総はそのつもりで受ける覚悟だった。しかしふたを開けて見ると実際数学の面倒よりも自由研究や合唱コンクールのことばかり。うまく言えないのだがいわゆる個人担任に近いようなつながり方をしようとする。青大附属の先生たちが距離を積極的に縮めるタイプなのはいろいろな場面で知っているつもりだが、それでもやはり意外である。
──どっちにせよ、俺が明日以降やらなくちゃいけないのは。
ため息と共に覚悟をする。
──自由研究で一泡吹かせてやると盛り上がっていた清坂氏と羽飛のふたりに、土下座することだよな。俺にひっぱられて評価下がったなんて言ったらたぶんあのふたりのことだから責めたりはしないかもしれないけど、でもきっと、いや絶対、悔しいよ。清坂氏なら泣くかもしれないな。
すれ違う生徒たちの「さようなら!」の挨拶に笑顔で会釈しながら、野々村先生は上総の隣りで静かに微笑んだ。一重瞼の落ち着いた表情が隣にある。
「私も、音楽は結構好き。ピアノではなくエレクトーンを小学校の頃習っていて、中学受験の準備と同時にやめてしまったけれど、たまに弾いたりしますよ。友だちの結婚式とかに」
人前でさらせるくらいなら相当弾ける、という認識でいいのだろうか。
「だから演奏を聴かせてもらうのは本当に大好き。この機会ですし、肥後先生にお願いしてそのレッスンを見学させてもらえないかしら」
──いや、こちらに断る権利なんてないんだけどさ。
昨日の肥後先生直々のレッスンはテスト前でかつ生徒たちがほとんどおらず、吹奏楽部の練習も……もちろん肥後先生が顧問に決まっている……しなくてもいい時期だからだろう。ああいうわかりやすいレッスンならもっと受けたいし、もしピアノ教室だったら習いに行きたいとも思う。だが人に、野々村先生のまん前で「指遣いが違うのでもう一度やり直し、ほら、僕のやり方をよく見て覚えるんだ」などと言われているのを見られるのはかなり、いやめちゃくちゃ恥ずかしい。数学の問題ならまだ、最初から上総の能力外だと割り切っているのでその気持ちも半滅しているが、ピアノについてはまだプライドがちょこっとだけ残っている。」
「でも、本当にまだ、全然弾けてないのでできればもう少ししてから」
「いいの、今だから見ておかないとわからないものもあります」
野々村先生は意見を引っ込めようとせず、とうとう音楽室にたどり着いた。扉の中から合唱らしき歌声が聞こえる。どこかのクラスが練習をもう始めたのだろうか。
「失礼します」
野々村先生が扉を開き、その後ろから覗き込み、その集団が見慣れた奴らということに次の瞬間気づいた。女子たちのソプラノパートだけだったから気づかなかった。「恋はみずいろ」を、一年C組の生徒全員が集まって熱心にパート別練習に勤しんでいた。背を向けている男子のひとりが空に三角形を熱心に描いている。羽飛らしき男子が数人歌詞を読んで歌合せをしている。まだ上総が来たことに気づいていない。
「やありっちゃん」
のんきに声をかけてきた南雲に目で合図を送り、上総はまっすぐアップライトピアノの場所へと向かった。




