その四 練習開始(2)
「ちょうどタイミングよかったね。テストの前三日間くらいはほとんど音楽室に誰も寄り付かない。こうやってゆっくり話せるのもこれからはそうそうなくなるだろうしね」
珈琲を勧められ、静かにいただく。肥後先生は机の上で楽譜をめくりながら、
「テストが終わればどのクラスも合唱コンクールの自主練に忙しくなるし、ピアノももしかしたら取り合いになるかもしれないね。僕も少しかんたんに考えていたところがあって君には申し訳ないのだけど、すでに夏休みから合唱の練習に励んでいるクラスもいるようで、音楽室を貸してほしいと申し出が増えてきている」
上総の顔を見て、また穏やかに微笑む。
「ただ立村くんの場合は少し特別だし、できるだけ優先して練習してもらうよう場所は整えておくよ。多少他の生徒たちからは嫌味な目線を向けられるかもしれないがそのあたりは我慢してくれたまえ。それとだ。指揮者たち集めて講習もしなくてはならない。みな、これから一ヶ月は大変だよ」
ということは、難波も関崎もさぞびしびししごかれることになるだろう。
「高校の合唱コンクールは本格的なんですね」
控えめに感想を述べると、
「そうだね、確かにみな一生懸命だし毎年楽しみにしている人もたくさんいるようだね。特に団結力のあるクラスは大変だ。朝、夕それぞれ練習に余念なく、肝心要の勉強を全部居眠り時間に費やしてしまっているケースもあるみたいだと先生たちからは聞くよ」
そこまで人事のように肥後先生は語り、
「時間がもったいないから、まずは弾いてみようか」
まだほとんど手のついていないアイス珈琲を机に置いたまま立ち上がった。
肥後先生は上総の隣りに座り、何度か右手のメロディを繰り返させた後、左手のパートを一緒に引いて音を重ねてくれた。
「次は左手も同じ要領でやってみよう。それと、指使いはきちんとあわせるように。何度も言うようだけど、どうも君の指遣いが気になるんだ。人差し指と中指を入れ替える。このタイミングを覚えてもらわないとな」
なんとなく勘で弾いていたところもあるのだが、肥後先生にはどうもそれが気になってしかたなかったらしい。言われる通りにあわせるが、なかなか慣れない。
なんとか「恋はみずいろ」最後まで曲がりなりにも最後まで行き、次の「モルダウの流れ」の譜面を開いたところで、思い切って聞いて見ることにした。
「先生、この曲のテープとかはありませんか?」
「テープ?」
「いつもは最初テープで曲を何度も聞いて頭に覚えこませてから弾くようにしているんですが、それだと問題ある感じでしょうか」
一応お伺いを立てて見る。子どもの頃から同じパターンで習っていたこともあり、そのパターンを崩されるのがどうも落ち着かない。
「テープで覚えるというのは少し邪道なような気もするが、君の親御さんはそのように教えてくれていたのかな」
母のやり方を簡単に説明すると先生は首をひねりながらも、
「だが耳で覚えるのも一理あるな。そうだ、僕が弾いて録音しておこう。それを何度も聞いて覚えるなり、まだクラスのみんなに合わせられないうちはそのテープで合唱の練習をしてもいい。君に関しては特別にそうすることにしよう」
──俺に対してはすべて特別なんだな。
ひいきされていると思われてもしょうがないのだが、自宅にピアノのない上総にとってはかなり切実な頼みでもある。一ヶ月でまがりなりにも形にするためには、なりふりかまっていられない。
「だが、今日すぐにというわけにはいかないから、テストが終わってから渡すことにするよ。僕もさすがに腕が鈍ってきているからね。最近ピアノとはご無沙汰なんだ」
「モルダウの流れ」もそれなりに最後まで弾き方を教えてもらい、気がつけばもう五時近くだった。二時間近く個人レッスンを受けたというわけだった。いくらテスト前とはいえ許されるものなんだろうか。他の生徒からしたらずるいとか言われそうだ。
「先生、ありがとうございます、あの、それと」
余計なことかもしれないがやはり気にかかる、尋ねておく。
「他に、上手な人がたくさんいるのに、なんで僕にここまで教えていただけるのでしょうか」
「そうだね、上手な人は本当にたくさんいる学校だよ。青大附属はね」
にこやかに、それでも鋭いことをまろやかに肥後先生は語った。
「僕もそのために、十月の演奏会を企画したんだよ。君も知っているだろう?」
知らないわけがない。上総は頷いた。
「今まではピアノを得意とする生徒たちが伴奏を担当するのが常だったし、今年もほとんどのクラスがそうだよ。僕の知る限り、ピアノを持っていない生徒が伴奏を行うのは一年A組くらいだな」
前にもそんなことを繰り返し言われた。俯く。
「君も知っているだろうが、ピアノに自分の人生をかけて練習している人は本当にたくさんいるんだ。そこにはさまざまな事情がある。だが、ピアノを弾くことイコールが必ずしも伴奏を弾きたくてならない、ということではない。たくさんの課題をそれぞれの先生たちから与えられて毎日練習し将来に向かって必死に努力をしている」
よくわからないが、音大目指して勉強している生徒もたくさんいるらしいとは聞いている。幼稚園や小学校の教諭を目指すために練習している人もいるらしいとはこずえの話。
「合唱コンクールの伴奏はもちろん誇り高いステータスという人もいるだろうし、僕は決してそれを否定しない。ただね、自分の生活をピアノに注いでいる人たちの中には、それが少しわずらわしく感じる人も少なくはない。かといって代わりに弾ける生徒がいないとどうしようもない、そういうさまざまな事情から仕方なく引き受ける。そういう生徒たちもたくさんいる」
──そりゃそうだろうな。
上総は頷いた。確か肥後先生は、合唱コンクールに対して懐疑的だったとか聞いたことがある。
「僕は正直、合唱コンクール自体をなくしてその代わり別の形で何か音楽に関係した行事を何かできないものかと思うことがよくあるんだ。まだ高校一年くらいだと男子は特に声変わりもまだ落ち着いてない生徒が多くて歌うのに苦労しているのをよく見かける。そういうものよりもむしろ、身近に音楽を楽しめるようなイベントを考えたほうがいいんじゃないのかなと、そう思う。でも、今回立村くんのようにピアノを日頃触れていないにも関わらず伴奏に挑戦しようとする生徒が出てきた。これは面白いことなんだよ」
「面白い、ですか?」
頷き、上総に楽譜をまとめて手渡した。
「立村くんの今回のお役目は、ただ伴奏を行うだけじゃない。たくさんの人たちに、ピアノ専門の生徒さんたちではなくても楽しんで伴奏にチャレンジすることができるということを知らしめる、スポークスマンのような立場なんだよ。君にいきなり難しいクラシックの楽曲を弾くことができるとは思っていないし求めてもいない。君のクラスの素晴らしいピアノのソリストたちを超えてほしいとも思っていない。ただピアノを弾くのがなんとなく好きで、それでもチャレンジしてみたいから手を挙げてみた、そういう気軽な気持ちでもしっかり伴奏をこなせるんだということをアピールして、次回からは今まで控えめにしていた生徒たちも立候補してもらえるようにしたいんだ。音楽はね、専門家だけのものじゃないんだよ」
──どういうことなんだろう? 俺ってそんな重たい任務あてがわれてるのか?
半分以上意味不明だった。芸術家の考えることは正直わからない。画家もそうだが、音楽関係者も。
「ベストを尽くします」
お礼を伝えて頭を下げるに留めた。とりあえず肥後先生も上総を気に入ってくれたことだけはなんとなくわかった。それだけは感謝したかった。




