その三 伴奏者面接(8)
家に戻ってから夕食もそこそこに部屋へもどり、譜面に見入っていた。
──「恋はみずいろ」はなんとななりそうだけど、問題は「モルダウの流れ」だな。
肥後先生がおっしゃったように「できるだけやさしい」ものであることはだいたい見当がつく。音楽室で他の女子が弾いた「モルダウの流れ」とは全く異なる前奏だったしそもそも短めに構成されている。
上総は何度か指を動かしてみた。ちょうど一ヶ月前に練習した「エリーゼのために」ともう一曲ブルグミュラー作名前不明の短い曲が指先に残っているのがわかる。
──「エリーゼ」はともかくもう一曲は一週間かそこらで仕上げたし大丈夫だと思うんだけどな。
とにかく右手はメロディと和音を覚えこませよう。できれば誰かにこの譜面をさらってもらい、テープに吹き込んでもらってそれを頭に叩き込めればいいのだが。いい方法ないだろうか。いつも母がテープに自分で弾いた曲を録音し上総はそれをひたすら聞き込んであわせる形式で習っていた。メロディさえ自分の中に入ればあとは意外とスムーズに弾き方を覚えられた。英語や他国語を覚えるのとほぼ同様のやり方だった。
──古川さんに頼んで、宇津木野さんか疋田さんに弾いてもらったものもらえないかな。明日聞いてみるか。ああ、それと。
学校の帰り道難波と話していた、指揮者のこと。たぶんあっさり承認されたであろう関崎の件だが、前もって一声かけておいたほうがよさそうだ。伴奏者にとって指揮者はやはり必要不可欠な存在なのだから。
電話をかけるため、居間に戻った。父がのんびりと冷たい缶ビールを飲んで和んでいる。置物として割り切り、背を向けて受話器を取った。
──立村か、よかった、俺のほうからも連絡するつもりだったんだ。
相変わらず深い響きを持つ関崎の声、貴重なバスパートがひとり欠けてしまう分どう対応するつもりなのか、こずえに聞いておいたほうがよさそうだ。上総はまず、確認を取ることにした。
「あのさ、俺が教室出て行ってからなんだけど、結局関崎が指揮者にきまったんだろ?」
──あれだけ熱く藤崎に勧められたら男子たるもの受けざるを得ないだろう。
少し戸惑いの残る言い方に聞こえた。
「そうか、ところで関崎は今まで指揮者やったことあるのか?」
──ない。全く経験がない。だから俺がしゃしゃり出ていいのかわからないが、どうなんだ、青大附属ではそういうのもありなのか?
「中学二年の時に合唱コンクールやったけど、あの時は俺でも出来たから多分大丈夫だよ」
脳裏に難波の苦虫噛み潰した顔がよぎるがあえて無視した。ついでに関崎へ、合唱コンクールに関する豆知識も伝えておくことにした。
「うちの学校、中学二年しか合唱コンクールに参加できない決まりになっていたんだ。だから俺たちも一回しか経験してない。ただ高校については今のところ全学年が参加する形式で、順位は先生たちとの協議で決まると聞いている」
──やはり大掛かりなイベントなんだな。手抜きはできないというわけだ。
「どうだろう。それぞれのクラスによるんじゃないかな。ただうちのクラスはもともとクラス人数が少ないからさ。一人欠けるだけでもかなりのデメリットにはなるような気がするよ。関崎も本当は歌いたかったと思うけど」
──それはある。
カラオケでマイクを離さないこいつの姿を二回見たら、誰もが頷くに決まっている。
──立村は、指揮者やったことあると聞いたが。
「さっき言った通りあるよ。当時の男子評議は全員担当することに決まったし。言われた通りのことしていただけだよ、たぶん」
自分でも二枚舌と自覚せざるを得ない。難波もそうだが上総がもし指揮者を担当するはめとなっていたら肥後先生にさぞ厳しい指導を受けることになるだろう。関崎も恐らくその洗礼を受けるはずだ。そんな気軽なことを言うよりも、C組男子連中が本気になって関崎を叩きのめそうとしているという事実を伝えるべきなんじゃないかとさえ思う。
──そうか、俺でもなんとかなるか。
「なるなる、関崎なら大丈夫だよ」
良心が痛む。あとは関崎の音楽センスにかけるしかない。恨むなら藤沖を恨め。
──ありがとう、立村はやはり頼りになるな。
関崎は話を変えてきた。
──今朝、詳しい話を聞けなかったんだが、古川に説得されて伴奏を受けることにしたのか?
「違うよ。誰もいないという話だったからそれならっていう、単純な理由だけど。俺程度でもなんとなりそうだっていうのもあったし」
譜面読みの段階で若干の不安があることはあえて飲み込む。
──古川の家で稽古するのか。
「たぶんそうなる。それと、音楽室でも空いている時間使って練習してもいいという話になっているし。あと古川さんからキーボード貸してもらえるからうちでも練習できるし」
──本当に大丈夫なのか?
やはり誰もが考える疑問符。もっともだが平静を装い答える。
「大丈夫だよ。その読みなければ俺も引き受けなかったしさ」
──俺にピアノの素養があればぜひお前を助けたいんだが、残念ながら楽器の演奏能力はない。せいぜいリコーダーかハーモニカくらいだ。悪いな。
「悪くないよ。ただ、指揮者の関崎の負担になりそうでそれが申し訳ない。とにかく急いでメロディだけでも弾けるようにして、少しでも合わせられるようにするからさ」
──俺もなんとかして指揮者としての責任を果たすべくベストを尽くす。立村、よろしく頼む。ああ、そうだそれとだ言っておかねばならないことがある。
「何?」
関崎はいったん口ごもるようなそぶりを見せたが、
──お前とこうやって協力しあえるようになるのが、俺は本当にうれしい。ありがとう。
「いや、そんなたいしたことしてないけど」
挨拶の後、電話を置いた。やはりあいつは関崎乙彦だった。
少し暑苦しいがやはりいい奴だ。
C組元評議三羽烏が本気でぶつかってきても、そう簡単にひっくり返せる奴じゃない。
「上総、お前伴奏やるのか?」
聞こえていたのは計算済み。上総は父に振り返りあっさり認めた。どうせばれるのなら早い方がいい。
「お察しの通り」
「ピアノだろう? 練習できるのか?」
「今聞いてたらわかるだろ、全部説明したって」
「友だちの家に通うとか、キーボード借りるとか、音楽室使うとか言ってたな」
「それ以外どうやって」
父は枝豆をつまみつつ首をひねった。風呂からあがって間もないのだろう。シャンプーの匂いが強い。
「責任重大だろう。できるのか?」
「たぶん」
「母さんに連絡してみてもらった方がいいんじゃないのか」
これだけは避けたいパターンだった。すぐに首を振る。予定に計算済み。
「いらない。母さん今の時期ものすごく忙しいし、それに練習するとなると母さんの実家に行かなくちゃいけなくなるし、その時間がもったいないよ」
「だからといって何もしないわけにはいかないだろう」
「だからそれも全部計算した上で引き受けたんだから、心配しなくていいってさ。譜面もらったけどそれほど難しくないし」
「無責任なこと言うな。合唱にあわせる伴奏というのは本当に難しいんだぞ。ただピアノが弾ければいいというわけではないんだ。まあお前が引き受けてしまったんならしかたない。誰か見てもらえる先生を探しておかないとな。一ヶ月だけ面倒みてくれる先生がいればいいんだがなあ」
言いながら父は、書斎にいったん戻り手帳を持ち出してきた。まだ電話の前のソファーによっかかっている上総を「ほら、どきなさい」と押しやり、すばやく手帳のページを繰った。
「これから知り合いに連絡して、土日の空いている日だけでもお前の面倒見てもらえる人がいるかを探してみるからな。まあ早いうちにわかってよかった。上総もこの一ヶ月は友だちの家でほたほた遊んでいる暇ないんだからな」
「父さん、さっきの電話聞いてたらわかってると思うけど」
電話をかけている父に一言付け加えた。
「これから最低週三日か四日は、クラスのピアノ持っている友達の家で練習するから、遊びに行くことはやめない形になるんだけどさ。大丈夫だよ、男女混合で保護者同伴だから問題起こるわけないよ」
説明など聞いていない様子だったお。父はすぐにつながった相手へ、事情を逐一説明した後、
「そういうわけで、悪いんですが誰か土日、うちの息子に合いそうなピアノ教室を一軒、紹介していただきたいのですが、なんとかなりますかねえ。息子についてはいつも説明している通りの、ああいう性質の子です」
熱心に頼み込んでいる。
上総としては「ああいう性質の子」という表現が非常に気になった。
「父さん、俺のこと今かけた人にどう説明しているの」
受話器を置いた父に尋ねると、一言、
「お前が自覚している通りだよ」
きわめてあいまいな答えしか返してくれなかった。




