その三 伴奏者面接(7)
しばらく説教されていた難波を待ち、音楽室を出たのは四時半過ぎだった。
「明日から昼休みと放課後を使って練習にいらっしゃい」
ありがたい肥後先生のお言葉で気が少し楽になる。一方で難波の苦虫噛み潰したような表情が妙に面白い。
「何があったんだよ」
「まあ見ての通りだ。まさか見られたとはな。玄関を出よう」
靴を履き替え、すれ違う部活動中の友だちと挨拶をし、難波とふたり肩を並べて歩く。まだまだ昼間だが影が濃くなってきたような気がする。
「C組には寄らないのか?」
「もう話も片がついただろう。あとで羽飛に確認すればいいことだ」
「お前が指揮者って、そんなに揉めるようなことなのか?」
伴奏者で揉めるA組、指揮者で揉めるC組、それぞれとは思うが詳しい事情が側で聞いていても全くわからない。上総なりに質問したいことではある。
「壁に耳あり障子に目あり、これが俺の反省点すべてにつきる」
難波は歩きつつ、俯いたまま語り出した。
「伴奏者は問題ない。しかし自由曲で揉めているというところまではお前も知ってるだろう」
上総が頷くと、難波は拳を片方の手のひらで握り締めるようなしぐさをした。
「お前は知らんだろうが、うちのクラスは夏休み終わりの三日前あたりから有志が集まって練習を始めていたんだ。羽飛、天羽、更科、その他女子も交えるとかなりの大人数でなんだが」
──ずいぶん早いな。やはりうちのクラス、遅いのかな。
別の心配が心をよぎるが、とりあえずは聞き役に徹する。
「課題曲をみな気合入れて歌ってみたが、どうも物足りないというのが正直なところだった。女子たちは結構音楽好きな奴が多いしその点、それなりに意見の食い違いがあったと、そういうわけだ」
「みな熱心だな。俺たちが中学三年の時、そこまでしたか?」
「しなかったんだが、盲点が見つかったんだ」
ここで難波は頭の後ろで両手を組み空を見上げた。
「俺はあの時、指揮者だった」
「男子評議が自動的にそうなってたからな」
「そういう意味じゃない。指揮者だということはどういう意味かわかるか?」
「指揮者は指揮しないと」
「そういうくだらないボケかますな。天羽にどつかれるぞ。指揮者であるということはすなわち、観客に背を向けてひたすらタクトを振ることに専念していればいい。合唱の間もすることはひとつ、それだけだ」
「ああ、わかった」
思い当たる節がある。よくよくわかる。手を打った。
「歌わなくてすむ!」
「ご名答」
「でもそれとどう関係あるんだ?」
褒められても今ひとつつながりが見えず上総が促すと、難波は次に大きなため息を吐いた。
「すなわち、俺の歌声は今まで誰の耳にも届いていなかったということになる」
「それはそうだけど」
「歌えなかったということになる。すなわち、俺が筋金入りの音痴ということが判明したという結論に達したというわけだ」
──え? 難波ってそんなに歌下手だったっけか。
青大附中の評議委員会時代もよくカラオケボックスには連れ立ってでかけたが、そういえば歌うことなどあまりなかった。大抵秘密会議ばかりやっていたし上総は全力でマイクを拒否していたし歌っていたのは天羽と本条先輩ばかりということであまり気にはしていなかった。音楽の授業でもそれなりに全員で合唱することはあるけれど、そんなに音程が外れている奴が混じっていると思ったことはない。
「そう驚くな。俺もその時までは自覚がなかった。女子連中にぎゃあぎゃあ指摘されちまったのが運の尽きだったというそれだけだ。たぶん後期は音楽委員から逃れられるだろう」
そういう問題ではないような気もするが、黙って話を聞くことにする。
「野郎連中としてはそんなことどうだっていいだろうという意見がほぼ百パーセントだったのだが女子はやたらと合唱にこだわりを持つ奴が多く、それなら俺が指揮者に回り代わりに羽飛がパートリーダーも含めてまとめ役をやったらどうかという話にまとまった。誰も反対しなかったし俺としても大満足だった。その話がまとまったのが放課後、ついさっきだ。お前を迎えに行く前にそれだけ片をつけた。問題なく承認された。だが」
「何か問題、あったのか?」
音程が取りづらい難波を指揮者に回したらまずいのだろうか。
「間が悪かった。最終の話し合いをたまたま中庭でしていたんだが、その時に肥後先生が通りがかったような気がした。たぶんその内容を聞かれていたんだろう」
「そんなにまずい内容、話していたのか?」
興味深々で尋ねる。あまり肥後先生が神経をとがらせそうな話題はないような気がするが。難波はちろりと上総を見やり、人差し指でちょいちょいとタクトを振るまねをしてみせた。
「『どうせ中二の合唱コンクールと同じ乗りでいかにもがんばってます風に振っとけばいいよな。そんな誰も見ておりゃーせんよ』とかそんな話を天羽としていたんだ。たいしたことはない。お前もわかるだろ。そんなにハーモニーを作るとかなんとかそういうこと考えてなかっただろ」
「まあ確かに」
中学時代上総も指揮者を確かに担当したが、それなりに教えてもらって責任の重さはそれなりに認識したつもりではいる。練習もした。ただそれほど神経はとがらせなかったような気がする。
「さっきの説教の内容、わかるだろう。つまり肥後先生は俺の安易な気持ちで指揮者を引き受けたことに関して、静かにお怒りということなんだ。さすがにそこまでは俺も想像していなかった。たぶん自由曲が決まっていないことでねちねち言われるんだろうと思っていたんだが、まさか、俺を真剣に指揮者として仕込もうとしているとはな。しゃれにならない話だ、まったく」
「大変だな」
これ以上の言葉が見当たらない。難波には一ヶ月間、目を付けられた指揮者の定めとしてスパルタ指導を受けてがんばってもらうしかない。そう考えると、
「そういえばお前のクラスは指揮者は誰だ」
「ちょうどお前が来る寸前に、藤沖から関崎に代わった」
「あいつにか」
「藤沖の案だけどさ。最終決定までは確認していないけど、明日になったらわかるだろうし」
難波が二の腕をかきむしりながら唇をかみ締めた。上総をじっと見た。
「そういうことか。わかった。よくわかった」
めがねの奥の瞳が、どことなくぎらついてきたように見える。
「悪いが、合唱コンクール、全校優勝は一Cがいただく」
「お前本気でやるつもりなのか?」
関崎の名前を口にした段階で嫌な予感はしていたのだが、少し前までの指揮者特訓でため息をついていた難波とは違う、炎のようなものが立ちのぼっている」ような気がする。陽炎のよう、かもしれない。影もいつのまにか長く濃い。
「外部野郎にあっさり指揮されるA組に負けるわけにはいかないからな」
「あのさ、俺が伴奏弾くんだけどそれは違うのか?」
「当たり前だ」
それ以上難波は口を利かなかった。自転車置き場で別れるまでの間、ひたすら難波はリズムを「いち、に、っさん、と」とつぶやきながら指先で空に三角を描き続けていた。




