その三 伴奏者面接(5)
──なんだか妙な雰囲気だな、さっきから。
あの音楽の授業から放課後に差し掛かるまでの一年A組に漂う違和感はなんなのだろう。
教科書をしまいこみ、まだ椅子に腰掛けたまま上総は評議たちの発言を待っていた。さすがに今日は正式発表しないとまずいだろう。藤沖とこずえが評議である以上、きちんと時間を取って説明するはずだ。それこそ評議の仕事でもある。
「えっと、悪いんだけどちょっとだけ残ってくれる?」
「えー? 悪いけど今日用事あるから明日ね。あ、それか電話で決まったこと教えて」
「私もこれから部活だし」
ため息顔で「やっぱりこうだもんね、私もほんとは図書局当番なんだけどさぼってるんだよ」と愚痴を言うこずえだが、すぐ気を取り直し、藤沖と一緒にいる関崎に声をかけた。
「じゃあ女子はまた後でってことで、残れる人残って。藤沖もさすがに今日はいなさいよ。それと関崎、あんた、合唱コンクール経験あるでしょが」
「もちろんだ」
「問答無用まあいっか。さてと。今日はさ、合唱コンクールの大まかな練習予定を発表したいんだけど、みんなよい?」
それでも結構残っている。女子たちも十人はいるし、男子連中にいたってはほぼ全員揃っている。優秀だ。
「三時間目に音楽出た人なら分かってると思うけど、とりあえずうちのクラスの伴奏は立村ってことで話が決まってるんだけど、それでいい?」
ぐわり、と生ぬるい空気にひたひたせまる。こずえは全く無視して続ける。
「夏休み中、私と直接話をした人たちなら分かってると思うけど、宇津木野さんと疋田さんが今回は十月の学内ピアノ演奏会に集中してもらわないとまずいってことで残念ながら伴奏辞退になっちゃったわけ。うわーん、もったいなーいとか言いたいけどしょうがないよ。十月はみんなで応援に行くからね」
明るく話を持っていこうとするこずえの努力も届かない。どうもねっとりした恨みに近い感情が漂っているようで、その張本人たる上総は非常に居心地が悪い。男子連中は何も考えていないのが分かるし、詳しい事情なんて知ったことじゃないと思っているかもしれないのだが。なぜか女子たちのみ無言で不満を訴えているようだ。
「ごめんなさい」
宇津木野さんがおずおずとこずえの前に立ち、申し訳なさそうに頭を下げた。
その隣りに疋田さんも拳ひとつ低い位置に立ち、
「今回は、私たちのわがままでみんなに迷惑かけちゃって、ごめんなさい。いつかこの分、ちゃんとお返しするからね」
泣きそうな顔で訴えた。一見そっくりさんに見えたがよくよく観察するとそうでもない。宇津木野さんはあまり人と話をするのが得意でないらしく、反対に疋田さんはこずえに近い感覚で世話焼きタイプのようだ。音楽室でもクラシック曲を演奏するなどといったクラスメートに猫の小判状態のことをするよりも、その場で伴奏を初見でさらってしまうと言う形を取るよう持っていったのも疋田さんだ。
「古川さんも、ごめん。あ、それと」
露骨に気まずそうな顔で上総を見た。座ったままの上総に宇津木野さんを伴い向かい合い、
「立村くん、ものすごい負担かけてしまってごめんなさい。本当に、助かりました。ありがとう」
ふかぶかと頭を下げた。急いで上総も立ち上がる。こういう時はきちんと礼を返さねば。
「いや、こういう時しか手伝えないから、あの、俺もほら、弾いた感じがあの程度だから、かえって申し訳ないんだけど」
誰もフォローしようとしない。沈黙の女子たちがかもし出すむかつきのオーラとでも言うべきか。この感覚を上総は日常的に感じているのでむしろ慣れ切っている。しかし、あまり気持ちいいものではない。
「ごめんなさい」
また、宇津木野さんが目を伏せてつぶやいた。あまり深い追求はできそうにないということがなんとなくわかった。知らぬふりを通そう。
「それでなんだけど、問題は合唱よね。ご存知の通りうちのクラスは人数が少ないじゃん? パートを分けるだけでも結構大仕事よね。まあそのあたりは、吹奏楽のみなさまにお手伝いいただきたいんだけどどう?」
「コンクールの合間になるけどそれでいいなら了解」
吹奏楽男子の多いA組。ありがたい。
「さっすが頼れる! 私も音痴じゃあないとは思うんだけどこのあたりはやっぱプロに任せたいねえ。それと、肝心要の指揮者。今までのパターンで行くとなると男子評議委員の指定席ってとこなんだけど、藤沖、あんた文句ある? あんたがいないとバスパートがきつくなるってのはあるんだけどさ、受けてくれるよね」
「俺がか」
「そうだよ、大抵他のクラスもそうじゃん!」
どことなく息苦しさ漂う夏の匂い。上総は椅子に座りなおして様子を伺った。
「古川、異議ありだ。俺は指揮者向きではない」
丸刈りの頭を大きく振り上げ、藤沖ははっきり断りの言葉を口にした。
隣りの関崎も口をぽかんと開けたまま硬直していたが、やがて、
「どうしたんだ、お前らしくない」
これもまた、きわめてありふれた言葉をかけていた。
上総が伴奏者になるよりもはるかな衝撃がA組連中の中を走り抜けている。
それまでむっつり黙りっぱなしの女子たちが勢いついたように問い詰めてくる。
「えー、ちょっとちょっと、話が違うよ。藤沖くんがやってくれるんだったらまあいっかって感じで女子たちも納得してたんだけど」
「そうそう、中二の時やった合唱コンクールも大抵評議がやったじゃん」
──いや、全員だったけど。
飲み込む、飲み込む。今の上総は評議どころか委員会に一切関わっていやしない。
「男女関係なく聞いてくれないか。俺の合唱コンクールにおける考え方を、今ここで伝えたいんだ。いいか、古川」
女房役の古川も、丸刈り姿の藤沖が肩をいからせて訴えるのを無碍にできなかったらしい。最初はさすがに驚いていたようだが、すぐ気を取り直し、
「わかったわかった、じゃあ、あんたが大将ってことで藤沖、合唱コンクールについて語りなさいよ。その代わり納得いく理由がなければあんたが指揮者辞退なんていう非常識なこと受け入れないからね」
元青大附中生徒会長の藤沖は、やはり今も押し出しよく迫力のある姿を保っていた。前に立ち、汗を手の甲でぬぐいながら語り出した。
「合唱コンクールとは、クラスの団結を確固たるものにするために行われる学内イベントだということくらいは、ここにいる全員理解しているだろう。俺も最初は楽しみにしていた。お世辞にも美声を持つわけではないがな、ひとつのことに集中して素晴らしいハーモニーを奏でる感動はぜひ味わいたかった」
ひとりひとりに語りかけるように、身体の向きを代えつつ、
「だがうちの学校は意外と合唱に対するこだわりを持っていない。学祭が控えているせいといえばそれまでだが、よりによって伴奏者に負担をかけるようなピアノ演奏会を十月に行うなどといったスケジュールからしても明白だ。また、諸先輩方からも聞いたことなんだが、音楽担当の肥後先生が合唱コンクールというものに対して批判的だというのがひとつの理由とも聞いているんだ」
──あの肥後先生が合唱コンクール嫌いなのか?
初耳過ぎて驚く。上総とは違う。上の先輩たちとのつながりが比較的薄い……本条先輩除き……上総には、未確認情報である。男子たちが顔を見合わせてささやき合っているのだけが聞こえる。
「理由は今のところ不明だが、そのこともあり来年以降は合唱コンクール自体がなくなる可能性もゼロではない。いや、かなりの可能性でそうなるだろう。となると青大附高最後の合唱コンクールである以上、俺たちはこの貴重なチャンスを生かすため全力を尽くさなくてはならないことになる」
──合唱コンクールがなくなるのか? それはそれで別にいいけど、肥後先生そんな子と考えている風には全然見えないな。
藤沖の話を聞きながら頭の中を整理して見る。あいつが上級生受けよくありとあらゆる情報をかき集めていることはわかったが、それと指揮者辞退とのつながりが見えない。
藤沖は腹から重たい声を出して語り続けた。
「失敗する要因を出来るだけ減らしていきたい。だがたぶん大丈夫だろうとたかをくくっていた。なにせ過去の伴奏者がふたりもいるクラスだからな。しかも半端な腕前ではないという話を、噂で聞いた」
「藤沖、やめなよ」
こずえが止めるが無駄だった。藤沖は不意に関崎の顔を見て、すぐ腕をひっぱり前に引きづり出した。「おい、いきなりなんだ、おい」と関崎が戸惑った状態でギャラリーの前に立つ。
「合唱にとって伴奏は非常に重要だ。要といってもいい。それが今回は、やむをえない事情とはいえほとんどピアノに触れたことのない立村に任せられたということになる。はっきり言おう、それは緊急事態だ」
──何も大げさだな。一応弾けるって。
要するに上総とアイコンタクトを避けたいんだろう。露骨に嫌がられるのは仕方ないとはいえあまりいい気はしない。しかし周囲は妙に頷いている。伴奏辞退の二人組だけが困った顔して俯いているのみだった。伝わるものは伝わっているのだろう。
藤沖は上総をじっと見つめた。仕方ない、上総も受け止める。
「お前が自分から手を挙げたというのは俺も驚いたが事情が事情だ。頼るしかない。だが、最初で最後になるであろう合唱コンクールで全力を尽くさねばならない中、音楽の耳を持たない俺が指揮者として仕切るべきではない。これは評議だから指揮者、といった短絡的な発想ではない。音楽の流れとハーモニーをつかめる誰かでなくてはならない、そしてここにいるこいつが」
関崎の背中を藤沖はどんと押し出した。
「音楽的感性、およびクラスの要としてまとめる最強の指揮者になる。俺が保障する」