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その三 伴奏者面接(4)

 ──鍵盤が重たい。

 指で一音ずつ押すたびにどこか納まりの悪い感覚が残る。

 母の実家で弾いたアップライトピアノとも違う、糊が鍵盤の裏に張り付いているかのようだ。それも接着剤というよりはいわゆる米を練ったような糊のような感じだった。

 ──弾きづらい、なんて言える身分じゃないけどさ。単に俺が下手なだけであってそれは分かりきってることだけどさ。

 こずえの家で奏でた時のような心地よさは全くなかった。音を必死に追うだけで精一杯だった。救いなのは目立つところでのしくじりがほとんどなかったことだろう。もっともここにいる連中の半数は部活動なり習い事で音楽を聴きなれているはずだから、上総のごまかしもあっさり見抜いているだろうが。それが証拠に最後の和音が消えた後も全く拍手が沸かなかった。

「特に先生にはついていないという話を麻生先生から聞いたけどね」

「はい、家で親に手ほどきしてもらっただけです」

「いつ頃から」

「小学校に入る前からです」

 麻生先生に話した内容をあらためて肥後先生に説明し直す。肥後先生に話すということは、音楽室内で座っている他の生徒たちにも上総のピアノ学習歴が露となることにもなる。一部の男子連中がふむふむ頷いたり話をしたりしているのが聞こえる。

「独学のせいかもしれないけれど、指の使い方が少し気になるな。悪い癖がついている。今から直すのはきついな」

 横につぶした饅頭顔で気のよさそうな肥後先生だが、言葉はきつい。

「もう少し早く決められるようだったら、誰か先生について練習することも提案したかったが、あと一ヶ月あるかないかでなかなか難しいね。全く弾けないわけではないというのはよくわかったが、今から二曲持つというのは、立村くん、かなりきついのではないのかな」

「出来る限りの手は尽くします。準備もしています」

 できるだけさりげなく上総は答えた。きつくないなんて誰も思っていやしない。舞台度胸はあるけれど、得意の英語で答辞を暗誦したり集会で評議委員長挨拶に立ったりするのとはわけが違う。しかもピアノの腕前を披露したなんてことは今までほぼない。

「君が本気でとりかかるつもりだったらもちろん力惜しまない。できるだけやさしい編曲の楽譜を探して今日の放課後にコピーして渡すよ。ただできれば、君の場合は誰か短期間でもよい先生についてもらったほうがいい。伴奏はソロで弾くのと違って歌声に合わせる必要があるから、それに見合った弾き方に絞って教えてくれる先生をどうにかして探したほうがいいね」

 ここまでのどかな口調で続けた肥後先生は、上総に席へ戻るよう指し示した。ようやくここで男子中心の拍手が鳴り響く。もちろん女子のほとんどが無視なのはしかたのないことだ。中学の負の遺産だ、しかたない。


「お前なんで今まで言わなかった」

 席につくのを待って、難波が振り返り上総に問いかけた。

「いや、言う機会なかったし」

「本条先輩からも聞いてなかったぞ」

「本条先輩にも言ってなかったから」

 思い出した、そういえば本条先輩にもピアノに関しての話題を話したことがなかった。たぶんこの瞬間も知らないはずだ。

「ったく、もっと早くばらしとけば、つぶしいくらでも聞いただろ」

「つぶしって、何を?」

 わけがわからず問い返すと、難波はそれ以上答えずに前を向いた。無視したわけではなさそうだ。すでに夏休みから準備万端の伴奏者女子が肥後先生に呼ばれて立ち上がり、ピアノを弾く体勢を整えていたからだった。

「瀬尾ちゃんよろしゅうに!」

 天羽がからかうように声をかける。どうやら中学時代A組でピアノ担当していたのが彼女だったらしい。おかっぱ髪の女子だった。当然上総は顔を覚えていない。

「では瀬尾さん、課題曲をさらっと弾いてみていただけますか」

「はい」

 こっくり頷き、瀬尾という女子は譜面を全く見ずに「恋はみずいろ」をイントロからさらりと演奏し始めた。滑らかで分かりやすい音が音楽室中に広がっていく。

 ──弾いてみたい。歌うのはお断りだけどさ。

 

 なにせほぼピアノど素人の上総が弾いた後なのだから、しっかり訓練している生徒の演奏がはるかに上なのは誰もがわかっていることだ。それが証拠に終わった瞬間すぐに男女入りまじった華やかな拍手が沸き起こった。

「やっぱ、格が違うよね、瀬尾ちゃんだと」

「そうそう。レベルが違うんだよね、あれとは」

 A組の女子たちもささやいているのが聞こえる。いやわざと上総に聞こえるような言い方にも聞こえる。その中には宇津木野さんと疋田さんが混じっていないのだけ確認した。

 ──あれで悪かったな。

 こずえが助言してくれた通り、こればかりは女子の感情の問題につきるだろう。いきなり血迷ったかのごとく「エリーゼのために」を引っさげて伴奏者に立候補した奴を受け入れるなんてそうたやすくできることではない。しかも、ふたりもはるか上の技量を持つ女子がいるというのに、だ。頭に来るのも当然だろう。

「瀬尾さん、聴かせてもらったよ。夏休み、よく練習したようだね」

「はい」

 短く瀬尾さんは答え、自分に言い聞かせるように頷いた。

「だがこれからが本番だ。合唱は生ものだし、指揮者とうまくコンタクトを取りつつ歌声にひきずられないように自分でテンポを刻まねばならない。できるだけ歌とあわせる練習を多くしてそれになれてほしい。まだ今の状態だとピアノだけがでしゃばっている。言いたいこと、だいたいわかるね」

「はい」

 瀬尾さんにはその意図がすぐ理解できたらしく、こっくり頷きそのまま席についた。

「あとは一刻も早く自由曲を決めることだ。これは大変だよ。曲を叩き込むのとあわせるのとを両方一緒にしなくてはならない。難波くん、その辺は心得ているね」

「はい、本日中には」

 難波がしゃちほこばって答えるのをみな、笑いをこらえるようにして周囲が覗き見ている。上総もそっと後ろから見下ろしてやった。さっきの仕返しだ。

 ──さすがだよな、かなりうまいよこの人。

 あとで天羽にC組専属伴奏者・瀬尾さんの腕前を詳しく聞いてみることにした。わりと上総好みの弾き方をするタイプの演奏者だ。


「それと、君たちもご存知かもしれないが」

 肥後先生が額の汗を拭きながら、全員を見渡した。

「十月の学校祭で、青大附高初めての試みとして、有志たちによるピアノの演奏会を行うことになったんだ。このクラスにも瀬尾さんを始めあとふたり、参加予定者がいるはずなんだが、そうだA組の宇津木野さん、こちらに来てくれないかな。それと疋田さん」 

 いきなり「A組の誇るピアニスト」ふたりの名を呼んだ。静かに立ち上がり控えめに前へ出るふたりを、穏やかに待ち受けていた肥後先生は、

「今日はせっかくだから、ピアノの発表会にしよう。ふたりとも練習に余念がないのはわかっているが、ここで軽くおさらいをしてみてはどうだろう? まだだいぶ先のことだが、できるだけいろいろな人に君たちの音楽を知ってもらったほうがいい。どうだろう、宇津木野さんは確か『英雄ポロネーズ』だったね」

「あのう、先生」

 宇津木野さんが戸惑って答えに悩んでいるのを、隣りの疋田さんが代わりに答えた。

「まだ演奏会の曲は未完成なので、もしよかったら、『モルダウの流れ』弾いていいですか。それと、課題曲は、ええと」

 宇津木野さんも気づいたのか、すぐに後を引き取って顔を挙げた。

「私も疋田さんと同じなので、譜面あれば『恋はみずいろ』弾きます」


 そこから先の二曲演奏は、どう考えても上総に対する遠隔の牽制にしか思えなかった。

 ──初めてみた譜面を、その場で弾けるものなのか?

 ──『モルダウの流れ』ってこんなに手が込んでいるのかよ。前奏がこんなに長いのか。

 まさに完璧。「一年A組が誇るピアニスト」ふたりの競演は終わった瞬間の二クラスまとめたブラボーコールでめでたく幕が下りた。上総の「エリーゼ」どころか、瀬尾さんの演奏すら影が薄い。満足げに席に戻ったふたりに対し、肉まん音楽教師・肥後先生の講評はやはり、厳しかった。

「よく弾けているし素晴らしい出来だけど、伴奏ではなくソロの演奏だね。できれば演奏会のクラシックをきっちりと聴かせてもらいたかったが、まあしょうがないだろうな」


 ──伴奏ではなく、ソロの演奏?

 疑問をはさむ間もなかった。前の席にいる難波が振り返り、

「無駄な比較対照するなよ」

 一言、ささやいた。余計なお世話だ。

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