その三 伴奏者面接(1)
こずえと打ち合わせてはおいたが、やはりいきなり立候補というのはクラスメートも仰天するだろう。この点はこずえや美里、羽飛も同じ考えで、
「できるだけ早く、先生方に手を回し、違和感ない形で決定する」
方向でもっていったらどうか?という結論に達した。
「おっはよ、立村、それじゃあちょっとこっち来な」
月曜の朝、いつものように八時前に到着すると、待ち構えていたこずえにつかまった。
「悪いんだけどさ、これから先生たち行脚してもらいたいんだけどさ」
「行脚って、ああ、あれか」
手回しの段取りは前の日の段階である程度は煮詰めてあったので驚かなかった。ただ朝一番とは思っていなかったので少し戸惑う。すぐ上履きに履き替え二階の職員室に向かうことにした。
「とりあえずねえ、やっぱ担任でしょ。麻生先生のとこ行こうか」
「了解、ただいまの時間で片付くかな」
「大丈夫。大抵先生たち七時半過ぎには来てるよ。ほら、菱本先生だってそうだったじゃん」
──思い出したくない名前だな。
夏休み最終日に締めのように現れた、暑苦しい青春野郎教師の面影を上総は頭から振り払った。こずえは気づかずに続ける。
「一応ね、夏休み中女子たちには伴奏者の話をいろいろと振ってたし、自由研究で集まるって流れで前振りはしてたから、宇津木野さんや疋田さん以外の人が弾くということで納得はしてると思うんだ。ただね、女子は理屈と感情がつながらないから、そこがちょっとね」
「言いたいことは大体わかる」
まだ薄い日差しが廊下の窓から差し込んでくる。だいぶ過ごしやすくなり、外を歩いていてもどことなく風がたなびき心地よい。制服でも苦痛ではない。クーラーなんてなくてもいい、その程度の暑さに落ち着きつつある。
「でも、まあなんとかなるよ。あんたがあれだけ弾けるならね。私もさ、本当はピアノで神経すり減らすよりも歌いたいタイプだからね」
「そうだな、古川さんは指揮者の方が向いてる」
素直な感想を伝えた。
「ばっかだねえ、それはないない。とりあえずこれからの流れでいくと指揮者は藤沖。これは固まってる。藤沖もその点は了解しているから」
──やっぱり評議が自動的に上がるというわけか。
少しぴりぴりする。藤沖との関係が修復されたわけではないにせよ、一学期末の揉め事がきっかけで上総の方が見下ろす立場に変わりつつある。そのことを考えると露骨ににらみ合いということも避けられるのではとひそかに期待はしている。
「関崎は」
なんとなく気になったので聞いてみた。
「あいつはバスパートに置くよ。本当はねえ、男子の声がもっと響く歌にするってことも考えたんだけど女子が面白くないって言うし。『いざ立て戦人よ』あたり自由曲で考えたこともあったんだけどね、戦意高揚の歌だから教育上よろしくないのではって意見もあるし」
「ややこしい問題多いな」
合唱コンクールというものはこんなに面倒な問題が多いものだろうか。中学時代は指揮者一筋で通してきた上総としても、今まで見えてこなかったものが浮かび上がってきて正直驚いている。
「しっつれいしまーす!」
廊下いっぱいに響き渡る声で挨拶し、こずえが先頭となり職員室に入る。こずえの言う通りすでに先生方のほとんどは揃っていた。一年担任中心の机の島を探す。麻生先生もいるし、野々村先生もいる。ほぼすべての先生が揃っている。
「せんせ、おっはようございまーす!」
「よお、古川も朝から元気だなあ」
朗らかに迎える麻生先生だが、上総が伴っているのを見つけて少し顔をしかめた。
「どうした、珍しい組み合わせだな」
「あのですねえ、先生。合唱コンクールの件でできるだけ早く話、つけたいんでいいですか」
こずえはちらちら周囲を見渡し、上総の背をぐいと押した。
「急ぎの用件は伴奏のことです。先生にもこのまえ相談したことなんですが」
今度は上総の肩に手を乗せ、
「諸事情により、今回二曲とも立村くんに弾いてもらうつもりです。本人も了解済みです」
上総も力強く頷いてやった。目の前で顔をしかめている麻生先生に、きっちり伝わるように見せ付けてやりたかった。
「どうした、古川、あのなんだ、我がクラスの誇るピアニストふたりを全力で説得するという展開じゃないのか? なんで、その、いきなり立村が?」
後ろで野々村先生がこちらをのぞきこんでいるのが、視界の片隅で確認できる。知らん振りを決め込んだ。まずは説明だ。こずえに目で合図を送り上総なりに答えることにした。
「古川さんから事情を聞いて、承諾しました。クラスのために協力する気持ちはおおいにあります」
一学期前に散々嫌味を言われ、さらには「関崎の下働きになれ」などとほざかれたのだ。担任のご希望通り、きっちり一年A組のために全力投球してやろうじゃないかと宣言しにきたのだ。もっと感謝しろと怒鳴ってやりたいがもちろん、慇懃無礼に通す。
「そうか、その気持ちはありがたいが、その、なんだ、他にピアノが弾ける奴はいなかったのか」
こずえに再度問う。驚くのも無理もないとは上総も思う。おそらく今まで上総が鍵盤に触れたことがあるということを中学の先生方含め全く知らないはずだ。故意に隠していたわけではなく、単純に自宅ピアノがないし聞かれもしないからという話なのだが、現在それなりに弾くことができるというのはうそではない。
「ええと、弦楽器中心にたしなんでいる人は結構いるんですけど鍵盤専門って人はほとんどいません。小学校時代に中学受験でやめている人がほとんどですし。誰もいなかったら私も立候補しようかなって思ったんですけどね。なにせ小学校一年でドロップアウトしてますから無理無理。ね、立村、そうだよね」
「そうは思わないけど」
こずえには軽く返した。せっかくなので自分の考えを述べておくことにした。
「古川さんもしばらくブランクがあるわりには十分技量があるし伴奏者には適任だと個人的には思います。ただ、古川さんの場合クラスのパートを指導したりまとめたりする方が向いてます」
「ほお、断言するか」
「はい、彼女とは三年間同じクラスでしたのでその点は断言できます」
こずえが丸い目をしてわざとらしく「うわあ、立村珍しく私のこと絶賛してくれてる!」とうひょうひょ喜んでいる。悪いが無視する。素直な言葉だ。
「俺もさすがにお前が伴奏者として売り込みに来るとは想像していなかったが」
上総をいつものようにねめつけつつ、麻生先生は額をタオルハンカチでぬぐった。
「どのくらいピアノのキャリアあるんだ」
「キャリアというほどではありませんが、小学校に入る前から親にレッスンはしてもらっていました。自宅に練習設備がありませんので他の先生にはつきませんでしたが、長期休暇の間には母の実家で一週間程度毎日練習を続けています」
「あのお母さんか」
妙に納得されるのが正直面白くないが頷く。
「素人程度の練習に過ぎませんが、ある程度の曲をそらんじることは出来ます」
「たとえば」
ここでこずえが嘴を挟む。
「土曜日に、昔のクラスメートたちたくさん呼んで、臨時オーディションやったんですよ。そしたら立村の圧勝。私ぼろぼろ、うわーんって感じ」
「そうかあ? めんどくさいから勝ち譲っただけじゃないのか?」
こずえに対して話しかける様子はからかい調子で楽しげだが、露骨に上総に対して態度が変わるのがむかつく。それは演技とは思えない。
「でもしょうがないですよねえ。こいつ、エリーゼのために弾いたんですよ。この顔でエリーゼ、ですよ。ベートーベンですよ。恋ですよ。なんなのって感じ」
「エリーゼ以外には何、弾いた」
あの後こずえの家では何曲か披露したのだ。クラシックよりは最近はやりのテクノミュージック系楽曲を即興で弾いて、羽飛を含む三人から盛大な拍手をもらい、最後はこずえと青大附中の校歌をキーボードと一緒にセッションして盛り上がった。
「校歌に、テクノな。クラシックは他にはやってないのか」
「トルコ行進曲、ベニスの舟歌、あとブルグミュラーの練習曲とか」
一般的にピアノレッスンがどういう本を使うかはわからないにせよ、曲の名前はある程度知っている。並べていった。麻生先生は首をひねっていたが、
「俺には曲の名前を並べられても全く見当つかないが、古川が見るからにはそれなりに弾けるということなんだな、こいつが」
「そうなんですよ、思わぬところに逸材発見ですよ。これで宇津木野さんや疋田さんも安心して演奏会の方に専念できるし、立村はかくし芸用の新たな発見ができるし、私は思い切り歌えるし、クラスの優勝は狙えるし、いい事ずくめですよね。あ、そうだ、一応練習環境なんですけど音楽室の他、私のうちのピアノも提供しようかなって話で進んでます。これも昨日の段階でうちの母と相談して、男女混合で遊びに来てもらって、保護者監視のもとでやろうよってことでまとまってます。つまり、不純異性交遊のご心配なし! もしご心配なら、うちの母から念書もらいましょうか?」
上総にとっては聞きなれているこずえのまくし立てっぷりだが、度肝を抜かれているのかいないのか麻生先生はただ黙って聞き入るのみ。だんだん先生たちが増えてきて空気もぬるんできたところで、膝を叩き、
「ここまで手を回しているのかいお前ら。詳しいことは後でもう少し聞きたいんだが、とりあえず今日、音楽の授業あるだろ? 俺も肥後先生に伝えておくからそこで最終確認するよう提案しとく。お前らがやる気まんまんなのは担任としてもうれしいが、なにせ立村はダークホースだろ。クラスの連中が仰天する顔は十分想像つくだろ?」
「それはもちろんです。だからこんな早くに来ちゃったんです!」
親指で上総に向かいOKサインを送り、こずえはぺこりと一礼した。
「じゃあ、早いうちにクラスのみんなにもこの話伝えときます。んじゃ、つまり、三時間目の音楽の授業がいわゆる立村の伴奏面接って奴ですね」
上総も礼をした後、急いでこずえにくっついたまま職員室を出た。野々村先生がどういう顔をしていたかは確認し忘れた。廊下に出たとたん身体中の悪いものが全部出切ったようなすっきり気分に包まれた。たぶん、窓辺から吹いてきた秋の匂いする風のせいだ。