その二十一 弾き納め(3)
繊切の音色 その二十一 弾き納め(3)
印條先生の部屋に入り立ち尽くすのみの上総に、野々村先生は手馴れたふうにアップライトピアノを開いた。かかっている黒いフェルトをたたむと、椅子をひき、
「こちらへどうぞ」
微笑みつつ手で指し示した。
「ありがとうございます」
口にすべき言葉が見つからない。扉が開いているので圧迫感こそないものの、年齢の離れた女性とふたりきりというのは母でもない限りまずありえないパターンだった。しばらく座ったまま手を鍵盤に置くか迷っていると、野々村先生はすぐに隣のピアノ用丸椅子をひっぱりだし隣に腰掛けた。
「今は誰にも聞かれていませんので、安心してくださいね」
──いや、かえって緊張するんだけどさ。
本心を飲み込む。お礼を改めて言うべきか。実際野々村先生のおかげでクラスの統一が取れて合唱まで持ち込むことができたのだから、感謝すべきなのだ。ただそれは学校できちんと頭を下げるべきであり、もっというならA組の生徒とともに行うことなのではとすら思う。少なくとも、名前を呼び合う環境で、プライベートに片付けることではないはずだ。感情が少し乱れ気味でピアノを弾くタイミングすら失っている。
野々村先生はしばらく上総を見つめていた。おもむろに口を切った。
「実は、これから私も、印條先生のもとにお稽古に上がることになりました」
──野々村先生が?
用意していた言葉も消える。上総は急いで野々村先生に向き直った。
「ピアノのことですか」
「そうです。いつかお話したかもしれませんが、私は中学受験を迎えるまでエレクトーンを習っていた時期があります。しかしいろいろあり休止していて現在に至ります。時間ができれば再開するつもりでもともとおりましたが、あえてこの機会にと印條先生へ師事させていただこうと考えました。驚きました?」
いたずらっぽく上総を見やる目線は、もはや学校の野々村先生のものではない。膝を突き合わせたまま、ただどもるのみ。
「あの、でも、印條先生はピアノの専門ではなかったと伺いましたし、あの、それに野々村先生は」
「弓絵さんと呼んでね」
「あ、あの、弓絵さんは」
舌がもつれる。エレクトーンとピアノとは鍵盤楽器とはいえほとんど別物といろいろな人から聞いていたのだが、本当にそれでいいのだろうか。
「印條先生と私とのつながりを簡単に説明しましょうか。私の父は印條先生がお仕事をなさってらした頃の側近でした。本当に子どものころから家族に良くしていただき、それこそ家族ぐるみのお付き合いをさせていただいてます。私にとっては親戚のおじさまのような関係なんです。この点が伝わってなかったのかもしれませんね」
「初めて伺いました」
父は知っていたのだろうか。もう少し説明がほしい。手抜きだと怒りたい。さすがに野々村先生……心の中ではかたくなにそう呼び続ける……にそれをぶつけるのはお門違いなのでやめておく。
「今回は、不思議な縁でこのように上総くんのお父さまとお近づきになりましたが、私にとっては様々なことへの目覚めのきっかけにもなりました。そのひとつが今回の合唱コンクールであり、ピアノであり、上総くんのレッスンであり、です」
「僕の、ですか」
名前はできるだけ呼びたくない。息が詰まりそうだが必死に受け答えする。
「そうです。きっと上総くんは私のことを、一年B組の担任で、国語教師で、かつ個人面談の担当の教師としか見ていなかったでしょうから戸惑うのも当然ですよね。学生時代の先輩だった狩野先生からもいろいろと事情は伺ってます。私のことを、ひとりの人間として認識しづらいのは当然です」
──わかっているなら、なんで。
まだ言葉が出てこない。頭の中は完全にミキサー状態。目の前の野々村先生がなぜ、こんなに接近してくるのかがわからない。手を膝で握り締めた。
「さっき、印條先生にもお話をさせていただき、快く承諾していただきました。おそらく、上総くんの前後の時間にレッスンさせてもらうことになると思います。場合によっては待ち時間も含めてご一緒させていただくかもしれません」
──ちょっと待てよ、なんか俺の想像以上の出来事が勝手に進んでいるよ。父さんじゃないけど、ドラマ仕立てに仕込まれているような気がする。
本条先輩の言葉、「とにかく人の話を聞く」これに徹しよう。それしか道はなしと見た。
「学校ではいろいろな柵がありますし、それ以上に教師と生徒というはっきりとした枠があります。それは学校内の規律を守る意味で必ず必要なものです」
野々村先生は続けた。
「ですが、一体一のお友だちとして接していくに当たってそれは邪魔なものになります。学校内では難しいでしょう。しかし、お稽古事という全く異質の場所であれば話は変わります。私と、上総くんとは同じ先生についているお弟子さん同士であって、立場はピアノの上では対等なのです。むしろ、一ヶ月早くお稽古している上総くんの方が先輩にあたるかもしれません」
「いや、それは、ちょっと」
口ごもるが野々村先生は動じない。
「私がしつこいくらい、上総くんに私の名前をこの場では呼んでほしいと言うのはそれが理由です。私たちは、ピアノを学ぶ同じ生徒であって、上下関係はありません。学校に戻ればもちろん、私も立村くんと呼びますし一生徒として接します。でもこの場では、一体一でゆっくりと音楽や人生のことについて語り合えるつながりを大切にしたいのです。ここまで、飲み込めました?」
──飲み込めた、たって、人が同じならそう切り替えなんてできないだろ。
答えることもできずにいるのが情けないったらないのだが、しかたない。それしか対応できない。上総が知りたいのは、なぜそこまで、立村家に食い込んでこようとするのかという点だった。父にそこまでベタ惚れなのか。それとも別の目的があるのか。単純に上総を教え子として心配してくれているだけなのか。全くわからない。
しばらく黙り込む上総に、野々村先生は止めを刺した。
「これも実はお話するつもりでしたが、金曜の合唱コンクールの時、上総くんのお母さまと私とはきちんとご挨拶しています。もし、別のことでひっかかりがあるようであれば、その点はご心配なく。本当よ。大丈夫だから」
様子を伺うように、わざとらしい明るさでもって語りかけてくる。
「母が? でも合唱コンクールは一般公開されてなかったじゃ」
恐ろしさが二倍になる。今回の合唱コンクールは母に聴かれないですむという救いがあったからこそ好き勝手できたところがある。コンクール後母とは連絡を取っていないし出来についても話していないのだが、まさか、あの場にいたとは考えにくい。念のために確認する。
「一般公開はされていません。ただ、上総くんのお母さまはどうしても心配だからということでこっそりと覗かせてほしいというご要望でした。またこの件はあとで話してもよろしいという確約をいただきましたから、内緒の希望ではありません」
「母は、それで」
さぞ棒のような演奏の息子にぶち切れたのではないかと予想する。さらにあのトラブルについても、間近で見ていた可能性ありだ。ぞっとする。
「いったんご覧になった後、お昼すぎにもう一度いらっしゃいました。その時は私がご案内しましたので少しお話させていただきました。どのようなご縁かはお伝えしてませんけれども」
──見合い話ってことは隠してるってことか。
血の気がだんだん引いてくる。これで雄大なる心持ちで「モルダウの流れ」弾けっていうのか。あまりにも無茶だ。野々村先生は上総の本心を読み取ることなく語る。
「頑張って指揮をしている上総くんの後ろ姿をしっかり見つめて、最後まで確認したあとすぐにお帰りになりました。本当に安心なさってらっしゃいましたよ」
──違う、俺がめまい感じているのはそこじゃないてさ。
母と野々村先生との間にどのような会話がなされたのかは、今の話だけだと読み取れない。父との見合い話がきっかけとかそういうわけではないのだろう。ただ野々村先生は上総の母ということでお相手をしてくれたらしいし、その間に息子の成長過程などを語る可能性もあるだろう。まさかとは思うが、そこで野々村先生のことを父を狙う泥棒猫だなんて思い込んだりしてないだろうか。母はいったん敵と見定めたら怖い。とことん叩き潰す人でもある。野々村先生に限ってそういうことはないと思いたいのだが、願わくば単純に息子のことをひいきしてる先生とだけ認識してほしい。
──八方塞がりってこのことかよ、まったく。
いや、反対に気があって女友達っぽいつながりになっていたらそれはそれで面倒だ。母のことだから上総の過去の交友関係もぺらぺら先生に相談するかもしれない。その流れで清坂美里の存在についても熱くおしゃべりするかもしれない。そうなると上総だけではなく、美里にも被害が甚大な可能性が高い。どちらにしても上総の明るい未来は野々村先生経由では見えやしない。どうすればいいんだろう。
「上総くん、私のために、まずは弾いていただけますか?」
野々村先生はやさしく、上総に語りかけた。椅子を軽くピアノに向けるような仕草をした。
「コンクールでは上手な伴奏の方がたくさんいましたけれども、私はずっとお稽古の段階から見ていた、上総くんの『モルダウの流れ』をこの場で、私にだけ聴かせてほしいんです」
「下手ですけど、いいんですか」
間抜けな答えを返してしまったが、野々村先生は頷いた。
「だからこそ、聴きたいんです」
しかたない。逃げられない。諦めて上総はそのまま、白い鍵盤に指を置き呼吸を整えた。
──弾いている時だけはすべてがフラットになるよな。
すべてを振り捨てるように首を一旦振り、和音を深く、沈むほど深く押した。
豊かな大河の流れを感じながら、この一ヶ月触れてきた鍵盤の音色を自分の深いところに刻み込んでいった。助けてくれた仲間や家族や先生たち、伴奏を目指すことで知ることのできた人それぞれの音楽に対する愛情とつながり、下手なりに努力する意味のようなもの。いろいろな感情がマーブルのように混じり合い、今まで自分が感じたことのない溢れるような何かが指先にほとばしる。頭の中に浮かべた自分の指揮する手を見つめ、上総はラストの高いオクターブまで一気に走り切った。
──弾き納めだ、やっと終わったよ……! 一ヶ月長かった……!
力振り絞ったあとの達成感と脱力感が混じった状態で、上総は野々村先生の顔を見た。
──お礼を言わないとな。さすがにこれは立たないとまずいだろ。
立ち上がり、声をかけようとした瞬間、息を呑んだ。野々村先生の瞳が傍目にもわかるほど潤んでいた。いや、頬が濡れている。しかもハンカチなどで拭こうとしてない。そのままじっと上総を見つめている。
体調悪くしたのだろうか。それともあまりにもひどい弾き方でめまいを覚えたのだろうか。実際そういう人もいるから否定できない。思わず呼びかけた。
「野々村先生、大丈夫ですか?」
くすんだ声で、野々村先生は上総を諌めた。
「名前で、名前で呼んでください」
「ゆみえ、さん?」
戸惑いつつ呼びかけると、野々村先生……もとい弓絵さんはそのまま微笑んだ。
「もう一度ピアノを習いたいという気持ちにさせてくれた音色なのですから。感動しても、いいでしょう?」
上総は深く一礼した。
──終──