その二十一 弾き納め(2)
いくら上総が口先でいいこと言ったとしても、関係者である野々村先生……もといこの場では弓絵さん……が存在する以上言い訳なんてできやしない。
──そりゃ、それなりにすべきことはしたし、野々村先生にも協力してもらったし、感謝はしているけど、でもな、どうなるんだろう。
何かとてつもないへまをしでかしたわけではないしむしろ褒められてもいい内容だろう。ただ上総の場合は中学時代の問題がとてつもなく大きすぎることも確かだ。どのくらい中学担任・菱本先生から申し送りされているかはわからないにせよあまり知られたくないことも混じっているのは否めないだろう。
──頼む、父さん、上手く、相手を傷つけないように丸くおさめろよ。
いつも印條先生のもとでは洋食のランチをご馳走になるのが常なのだが、今日は珍しく和食で、栗が炊き込まれたおこわだった。栗の皮をむくのが面倒で上総は一度も作ったことがない。母もあまり得意ではない料理だった。
「弓絵さんにお手伝いしてもらったのよ」
──これは下手なこと言えないな。
薄い黄身がかった色の栗にごまがかかっている。あまり勘ぐりたくはないのだがただの白米ではなくあずき入の赤飯というところに思惑を感じてしまうのは悪趣味だろうか。父の様子を再度横目で伺うが、とりあえずは紳士の振る舞いに徹している。野々村先生は台所に入ったままなのでまだ挨拶はしていない。食欲は湧いているのだが喉に通るかどうかは微妙なところではある。
「ちょうど、ご近所さんから収穫したての栗をどっさりいただいてね。とてもだが私たち夫婦では食べきれない。ぜひ遠慮なく召し上がってくれたまえ」
「恐れ入ります。遠慮なくいただきます」
父の挨拶に合わせて上総も頭を下げる。とはいえ、野々村先生が席につかない以上手を付けるわけにもいかず手持ち無沙汰にしていると、ようやくエプロン姿で現れた。すぐにふたり立ち上がり、頭を下げた。
「ご無沙汰しております。先日は息子の件でいろいろとお手を煩わせたようで」
父親としての挨拶を強調しているようにも見える。保護者の雰囲気で余計な詮索をさせないようにとの意識だろうか。野々村先生は真っ白いエプロンを外し、紺のワンピース姿で微笑みながら座った。髪の毛を後ろにまとめているのは料理をする前提できたからだろうか。
「さあさ、弓絵さん、こんなに美味しそうにできたのだから、すぐいただかなくては」
「私、不器用なものですから奥様にすべて教えていただいたのですが、お恥ずかしい」
頬を赤らめるような雰囲気が、どう見ても学校で見る野々村先生のイメージと違う。担任ではないとはいえ、教え子に見られてさすがに抵抗はないのだろうか。
「そんなことはないんですよ。弓絵さんはさすが手馴れてらっしゃる。家事一式しっかりとこなせるお嬢さんはそうそう今時いませんよ」
奥さんが話をもり立てようとする。どう考えてもこれは父に対するアピールだろう。上総なりに用心して、美味しくいただくことに専念した。口にふくふくとした栗を箸でつまみ噛み締める。甘く、柔らかく、そして適度に歯ごたえがある。さらにくすんだお赤飯も一緒に放り込む。甘くない、美味しい。
──栗があれば作ってみてもいいかもな。
ゆったり気分で食事も終わり、すぐにティータイムへと流れた。同じ青大附高の教師と生徒ということ、及びあの合唱コンクール直後、ということもあって話題がそこに集中するのはしかたあるまい。野々村先生はプライバシーに触れない程度に、詳細を説明した。ほとんど上総の話した内容と変わらなかった。
「上総くんは本当によくクラスをまとめ、合唱ができる状態にまで持っていっていました。私も最初、A組の生徒さんたちの雰囲気を見て心配になったのですけれど、すぐに上総くんが自分から声をかけて決断し、その場で伴奏担当の人を指名して一時間だけ練習し、その後すぐ本番でしたから。きっと大変でしたよね」
上総に微笑みかける。怖い。さっき飲み込んだばかりの栗のせいか胃が痛む。
「先生のおかげです」
──まずい、ここでは弓絵さんと呼ばねばならないんだ。
言い直すのも間抜けなので黙っていた。野々村先生はそのまま続けた。
「印條先生のおっしゃる通り、担当してくれた伴奏の生徒さんは非常に感情豊かな演奏を披露してくれました。それに伴い、上総くんも旋律を理解した素晴らしい指揮をしてくれましたし、何よりもA組のみなさんが二人の想いを理解して、それゆえの美しいハーモニーとなったのではないでしょうか。いろいろな事情で合唱コンクールの賞対象にこそ除外されましたが、それでも聴衆の心を確実に捉えた点においては一番だったのではと、個人的に考えます」
「ありがとうございます」
上総なりのお礼を伝える。まだ野々村先生には学校で一言も礼を伝えていなかった。
「そうなんだね。いや、本当に素晴らしい経験をしたようで私も嬉しいよ。立村くん、君の息子さんはやはりしっかりしている」
「恐れ入ります。家で見ている限りこんなぼけっとした奴のどこがと思うことも度々あるのですが、周囲の方々に恵まれてなんとかここまでこれたようです」
──ぼけっとした、かよ。
息子貶しはいつものことにせよ面白くない。
「ですが、残念だったのは上総くんの弾く予定だった『モルダウの流れ』が残念ながらそれこそ流れてしまったことです」
野々村先生は上総を優しく見つめつつ言葉を繋いだ。
「事情が特殊ですし、致し方ないところもあるでしょう。ただ、私は印條先生から、また学校でも上総くんの並みならぬ努力を目にし、耳にしておりましたので、そのことだけが心にずっと引っかかっているんです」
「先生、いえ、それはもういいですし」
慌てて口を挟む。別にそんなことこだわっていない。指揮者で十分だと思っている。
「いいえ、これは上総くんではなく、一聴衆である私の意見です。そしてここから先は上総くん、私を名前で呼んでいただけますか?」
──ああ、とうとう来たよ。
もう万事窮す。観念した。
「はい、弓絵さん」
舌に乗せたその名前は、とてつもなく重たかった。大人たち……野々村先生と印條夫妻の満足げな笑顔に上総はまた、全身が凍りついていくのを覚えた。父だけが哀れみを持った眼差しを投げてくるのが救いだが、助け舟を出してはくれない。諦めている。
「そうだね、ここでは先生生徒という上下関係な抜きにしよう。これからはまた新しいつながりが弓絵さんにも上総くんにも生まれることだしね」
上総にとっては最悪の展開の予想が伺えるが、あとで父から事情聴取すればいいことだ。何度もつばを飲み込んで耐えた。
「印條先生、ひとつお願いです」
野々村先生は身を印條先生に斜に向けて頭を下げた。
「上総くんに私のためにだけ、『モルダウの流れ』を弾いてもらいたいのですが、先生のお部屋にふたりだけで入らせていただいてもよろしいですか?」
──ちょっと待てよ、先生、いや、あの、弓絵、さん?
大人たちは特に驚くでもない。驚愕しているのは上総だけだった。
「もちろんお部屋の扉は開けたままにしておきます。ただ私はあの場にいたものとしてどうしても彼に、『モルダウの流れ』を弾き納めてもらいたいのです」
「私たちも一緒ではだめなのかな」
愉快そうに尋ねる印條先生と、ほっとした顔の父と、妙に真剣な野々村先生。心では意地でも野々村先生と呼ぶことに決めている。
「先生たちはすでに上総くんの演奏を確認なさってらっしゃるはずです。ただレッスンではなく、最後の演奏として、私も教師ではなく一聴衆としてしっかり耳に収めたいのです」
「そうかい、わかったよ。ただうら若き女性と年頃の少年だからね、部屋の扉だけはちゃんと開けておくように。もちろん、年寄りが邪魔をすることはない。ゆったり語り合うこともいいかもしれないね。そうだろう、立村くん?」
「そこまで息子の下手な演奏に心を留めていただいて恐縮です」
もはや父は息子を、生贄として差し出すつもりなのだろう。もう勝手にしろと言いたい。
「それでは、どうぞ。私たちはここで上総くんの演奏をゆっくり堪能することにするよ」
──これって強制連行みたいなもんだろう?
印條先生夫妻と父に見送られ、上総は野々村先生に誘われる形でピアノのある部屋へと向かった。ちゃんと扉は開け放されていた。