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その二十一 弾き納め(1)

 母からの、

「あんたちゃんと弾けたの? 迷惑かけなかったの?」 

 おそらく来るであろうと思われたせっつきもなく、いつものように朝の身支度、シャワー、その他もろもろの準備を整えた。毎週日曜朝の習慣ともなれば、父がいらいらしないうちに行動するなどの知恵もつく。

「昨日は遅かったな」

「本条先輩のところに遊びに行ってた」

 一応、評議委員会関係の人たちが絡んでいることはあえて言わなかった。

「あの、気持ちのいい青年だね」

「マイコンの打ち込み手伝っていただけだけど」

「そちら方面に関心があるんだな」

 車の中でシートベルトを締めながら話を続ける。朝七時半に出発というのもいつも通り。父に気になったことを尋ねてみる。

「そういえば母さんいつのまにか帰ったみたいだけど」

「忙しいんだそうだ」

 まずい、機嫌悪くなりそうだ。母がもう少し長逗留してくれるんではないかと父も期待していたに違いない。甘い。あの人がそんなに立村家の男子を甘やかすなんてことはない。それにへたに今、いられたら大変だ。嗅覚の鋭いあの人のこと、すぐに嗅ぎつける。

「上総、お前、印條先生の話はしたか?」

「してない」

「あの、先生のことは」

「全然」

「上等だ」

 父はほっとしたようにカセットテープをカーデッキに差した。上総も好きなタイプのイージーミュージックだった。少し目を閉じてまどろむことにした。


 ──立村くん、よかった、ほんっとにかっこよかったよ!

 土曜の休み時間、美里がA組に駆け込んできて放ってくれた言葉。

 ──お前やっぱやればできるじゃん。ほら、俺からのご褒美。

 羽飛が自分らのクラスで出たパックの野菜ジュースをぽんと手においてくれた。

 ──りっちゃん、おつかれ! てなわけでそろそろ一緒にどっかで飯食わない? 東堂もいっしょだけど、よければ俺の下宿でまたハンバーガーでもどう?

 南雲も忘れた頃にさりげなく誘ってくれる。

 なんだかんだ言って、元三年D組の仲間たちは上総を労ってくれていた。詳細を確認したわけではないけれど、他クラスではそれぞれの事情があるらしくまだ尾を引きそうな問題も多いそうだ。特に一年B組の状況は深刻で、合唱コンクール後団結が強まるどころかかえって揉め事が増えている状態とも聞く。

 ──清坂氏とあの、静内さんとのことかな。

 あまり他クラスのことには関わりたくないのだけど、なんといっても美里が関係している。そう考えると話くらいは美里から聞いたほうが喜んでもらえるのかもしれない。できれば羽飛も同席してもらおうかとも思う。


 ──そうだ、杉本の受験どうなったんだろう。

 ──霧島も最近顔出さないけど、やっぱり忙しいんだろうな。

 自分のことにかまけてしまい、後輩二人のことをすっかり忘れている。まあ霧島については黙っていても向こうがその気であればずかずか近づいてくるし、杉本にいたってはもともと上総からちょっかい出さない限り寄って来ない。月曜以降に考えるとしよう。

 ただ、とも思う。

 ──中学の話は高校にどんどん情報上がってくるけど、高校で起きたことって意外と中学には来なかったよな。俺も中学にいた時は高校の合唱コンクールでこんなにいろいろ面倒な事情が絡んでいるなんて思っても見なかったしな。

 そう考えると今回上総が校内で見直される気配があったとしても、杉本には伝わらないことになる。こずえが言った通り、指揮している背中だけでも見てもらえれば多少の変化は感じてもらえたかもしれないのだが、いかんせんこれが校舎の分かれている悲しさ。杉本にとって上総は「出来の悪い不細工な、多少話のわかる先輩」のままなのだろう。

 ──そろそろ受験校絞る時期だよな。杉本は本当に、あのなずな女学院の推薦受けるんだろうか。それとも、青潟東高に出願するんだろうか。

 もう十月ならイエスかノーかくらいははっきりしているはずだ。あすにでも中学に迎えに行こう。捕まえて、「おちうど」へ連れ込もう。


「上総、着いたぞ」

 軽く揺り起こされた。すっかり寝入っていたようだ。シートベルトを外しドアを開けると、完全に凍りついた風が吹き抜けてきた。やはり市内とは違う。厚めのコートを用意してもよい頃だ。楽譜の入った鞄を持ち、身をすくめた。

「やはり寒いな」

「コートそろそろ出そうか」

 話しつつ、玄関で挨拶し、印條先生の部屋に通された。何度も触れたアップライトピアノは相変わらずつややかに輝いている。先生および奥さんがお茶を出してくれている間に上総は確認した。

「父さん、来週以降のことなんだけど」

「どうせ反対したところでお前はやる気なんだろう」 

 ひと呼吸おいて頷く。

「しょうがない。ただ母さんには余計なこと言うなよ。上手くこちらでもごまかしとくが」

「わかった。ありがとう」

 いくら印條先生がただで教えてくれると申し出てくれたとはいえ、父としても鵜呑みにするわけにはいくまい。多少なりとも月謝が発生することだろう。ただでさえ金のかかる青大附高に通っているだけではなく、習い事の負担までかかるとなっては上総としても本気で取り掛かるしかない。たとえ趣味で、音大目指せるレベルどころか「棒のような弾き方」の矯正で終わったとしても、自分のできる限りのことを行う必要は絶対にある。

 改めて印條先生に父とふたり挨拶し、座り直して合唱コンクールに関する報告を行うことにした。いろいろ話が入り組んでいるので父と上総が交互で説明することになる。


「そうか、それは大変だった。ドラマのような展開だったのだね」

「上総の場合、芝居じみた出来事に巻き込まれることが多々ありまして」

 照れくさそうに笑いながら父は概ねの流れを説明してくれた。

「てっきり弾き間違えるとかリピート変なところうつきでかけてしまうのかとか、そのくらいの心配はしましたがまさか、一緒に歌っているお嬢さんが急病になってしまうとは思いませんでした。その後、さらに上総が指揮をする羽目になるとも、いやはや、世の中何が起こるかわかりません。今回の件に関してのみ、僕は息子を褒めてもいいのかなと思ったりもしますね。まあ話を聞いている限りですが」

「褒めたまえ褒めたまえ。僕からも最大の賛辞を送るよ、上総くん」

 穏やかに微笑みながら、印條先生は上総にウインナーコーヒーとピーナッツを勧めた。

「恐れ入ります」

「指揮自体はしてみてどうだったかな」

「上手くできたとは思えません。ただ」

 少し考えて、父を横目で見て、答えた。

「脇で演奏してくれた、ピアノの上手な人の弾き方を聴いて、その気持ちをどうやったら歌っている人たちに伝えられるか、それだけは意識しました」

「この前聴かせてくれた三人のピアニストだね。何番目の人かな」

「最初の人です」

 確か一番目が疋田さん、二番目が宇津木野さん、三番目が瀬尾さんだったはずだ。

「そうか、割と軽やかに弾くタイプの人だったね」

「僕もそう思っていたのですが、実際『モルダウの流れ』を弾いてもらったら全く雰囲気が違っていました。音楽室で聴かせてもらった感じではなくて、なにかこう鬼気迫るというか、迫力を感じました」

 正直な感想だった。こずえの説明を聞くまでもなく、宇津木野さんのほうが疋田さんよりも表現力ははるか上なのではという印象を前から持っていた。もちろん上手なことには変わりないのだが軽やかさというものが疋田さんの演奏における持ち味であり、上総個人としては宇津木野さんの溢れんばかりの感情叩きつけ雰囲気に好感を持っていたところもある。しかし、実際会場に響いた音色は、隠しマイクの影響もあるのかもしれないがある意味宇津木野さん以上の深みを湛えていたような気がする。その音に釣られる形で上総も自分の弾いた記憶と重ねて指揮をしていたつもりだった。

「本番に強いタイプなのかもしれないね。私も本当であればぜひ聴かせてもらいたかったよ。クラスのまとまりもしっかりしたようだし、勇気を出して伴奏者に立候補した甲斐があったというものだよ。よかった、よかった」

 相好を崩し、印條先生は立ち上がり折り畳み形式のクラシックな机を開いた。立ててあった二冊の本を手に戻ってきた。

「先日、立村くんからありがたいお返事をいただいて私も本当に嬉しいよ。上総くん、これからゆっくり勉強していくことにしよう。そこで用意しておいたのだが、立村くんも一緒に見てもらえるかな」

 大判の少し厚めの、青い表紙の本を開いた。いわゆる楽譜。「ハノン教則本」と「バッハインベンション」の二冊だった。見たことがない。さすがに「バッハ」がバロックの作曲家だということくらいは理解しているけれども、「ハノン」とは誰なのだろう。

「恐れ入ります、これは、いわゆるピアノのレッスン用のものでしょうか」

「その通り。上総くんの技量だとバイエルやツェルニーはものたりないような気がするし、その一方で基本的な指使いや訓練がなされていない恨みもある。『ハノン』は曲の面白みこそあまりないが指の訓練をするために有効な本だし、『バッハインベンション』は練習曲だが弾いていて楽しい。確か『ブルグミュラー25の練習曲』も弾いたことがあると言っていたね」

「はい。『アラベスク』とか『貴婦人の乗馬』とか」

 母に仕込まれたものを適当に並べてみる。

「それならもう一度さらってみても面白いかもしれないね。技量が上がってくるに従ってアラカルトでポピュラーミュージックを選んでもいいかもしれないし、また来年合唱コンクールも行われるだろうし」

「たぶん、もう伴奏を弾くことはないと思います」

 上総が遠慮がちに口にすると、先生はゆっくり首を振った。

「まだ来年のことだしその時相談することにするが、また指揮者をやるのならばできれば曲を弾けるようにしておいたほうがいいね。いきなり『モルダウ』の指揮ができたのも、君が一生懸命練習していたから旋律が身体に染み付いていたからだろうと私は見ている。聴かせる機会は確かに少なくなるかもしれない。だが、指揮をする上ではプラスになるはずだよ。まあその時考えよう」


 しばらく来週以降のレッスン予定を組み立てる作業に入った後、印條先生の奥さんが部屋に呼びかけに来た。

「みなさん、炊き込みご飯がちょうどいい塩梅ですよ。野々村さんのお嬢さんもいらしてますので、さあご一緒にどうぞ」

 ──とうとう来たかよ。

 父の顔色を伺うが、さすが大人、感情を封鎖しているのがよくわかる。

「弓絵さんも今日、ぜひ私に相談事があるとのことだったのでお招きしたのだよ。楽しいひと時をぜひ過ごしてくれたまえ。上総くんも学校の先生などと思わず、やさしいお姉さんと視点を切り替えて、さあ行こうか」

 この場では「野々村先生」ではなく「弓絵さん」と呼ばねばならない。身体がこわばるがもう行くしかない。

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