梅雨の季節の思い
久しぶりに投稿します。
梅雨の季節に思う世の常の事をダラダラと書いてみました。
梅雨時の季節は、着用している背広がしんなりとする。
別に濡れているとかではなく、気分的に湿気が水分を衣服が吸っているように感じるだけなのではあるが。
この感じると言うのが、サラリーマンにとって何ともはや不快にさせる要因ではあるのだが、昨今の省エネ対策でオフィスないは、適度な温度設定と言うことで涼しいわけではなく、湿気がほんのりと漂う。
初夏にありがちな通り雨の前にある梅雨時の一日中、どんよりとした曇り空で小粒に降る小雨が、外だろうと中だろうとサラリーマンにとっては、不快でしかない。
それでも平日の昼の休憩を過ぎれば、社会人という人間社会の規則に従い、労働に勤しまねばならない。
不快に感じるのは、感覚として感じるわけだから人の心にそれなりの変化を及ぼす物で、どことなく仕事場はどんよりとした動きと言葉で作業が交わされる。
寒さの中にあるキンキンした声ではない、間延びした口調が端々に入るのでどうしても倦怠感を増幅させる。
こうなると不快感は、増幅するばかりで、リフレッシュとして席を立ち、タバコをすいに行く者、飲み物を買いに行く者などまちまちになる。
座席は、所々、空席になるが、そう長くは社会人として空けれるわけもなく、時間を置いてポツポツと戻ってくるわけだが、一応にして、ちょっとした溜息が口に出来るか、出ないにしても着座に心の隅で吐かれる。
人間の心理的には、当然なわけだが人は、何かしら働かねばお金が稼げない。
そうでないと、ホントに飢え死にをしかねない。家族を養わなければならないものもいる。
こうなると拘束された自由というのが、ここにあるように思うのは、相当、考える余裕があるもので自分自身の心に正直な者かもしれない。
多くのサラリーマンは、そんなことは百も承知で意にそぐわない状況下でも働くのである。
気持ちを押し殺し、自分を撃ち殺し、内面の心を押さえつけ、社会の役割を演じる。
それにより、多くの人は認められ、生きていると自分に思いこませるのである。
この梅雨時のジットリと肌を舐めるような気温は、湿度が高いという言葉に置き換えられて、人は「しかたがない」と自分に納得させながら生きる。
弱気を見せない。そうしないと蹴落とされると教え込まされている。
事実、蹴落とされるとまでは言わないまでも、そのような目があり、それが評価となっているのは間違いない真実である。
それは、湿度が高くジットリとした不快感を与えようと自分自身は、そんな事など気にする。
こともなく頑張る自分をアピールし、少しでも上を目指す。
それが役職に直結し、収入という金銭報酬に還元されるのだ。
梅雨時の季節は、着用している背広がしんなりとする。
そんなことは、一、社会人として放り出された人間にとっては、我慢するべき物であり、絶える物であり、打ち勝つ物として教え込まれている。
一部には、それを否として独立独歩で進む者も確かいる。
そんな人間は、ほんの一握りであって、その人間は、羨望の的であり、陰口を叩かれる存在でもある。
ある物にとって見れば、目指すそんざいであろうが、大半はこの背広がしんなりとする状況下に耐え忍ぶことを要請される労働者になる。
それでもまだいいほうかもしれない。
世の中には、それすらにも慣れない者もいる。
と、下を見せられる。感じさせられる。
それが世の理なのだろう。
背広の下のシャツも朝のパリッとした感触は、いつの間にか湿気と自分の発する汗で何処となくしんなりとし始めている。
背広とシャツ。そして、スラックス、靴下。
サラリーマンと梅雨の関係は、ほんとのところはそんな不快極まりない仲でしかない。
実際には、それを忘れさせるかのように道端のどこかに紫陽花が、桃色、紫を華やかに彩り、咲きサラリーマンに一瞬の別の意味での心の安らぎを与えている。
しかし、紫陽花の花言葉は「移り気」「高慢」「辛抱強い愛情」「元気な女性」「あなたは美しいが冷淡だ」「無情」「浮気」「自慢家」「変節」「あなたは冷たい」であることを何人が知っているだろうか……
よろしかったらご感想など書いて頂くと嬉しいです。






