BENクー 著 『伝説の雨』
人間が治水に技術を傾けることになる遥か昔、すでに耕作は行われていたが、豊凶の鍵となる水はすべて天の恵みだけが頼りであった。
そんな時、遂国において連年日照りが続き未曾有の飢饉が起こった。川は涸れ、雨も丸一年以上も降らなかった。
この飢饉は、遂王・蓮に苦渋の決断を迫ることになった。それは、雨を呼ぶ巫女で名高い隣国「蚩国」を併呑べしとの声が起こったのだ。
当時、雨を呼ぶには自国の巫女の力が必要とされ、もしも他国の巫女の力を得るためには、その国を併呑するしかないと考えられていたのだ。
また、他国を併呑するということはその民を奴隷化することを意味し、引いては戦争によってどちらかの国が滅亡することをも示唆していた。
ただ、そもそも遂国と蚩国では民の規模において大きな差があり、もし戦争になった場合、あきらかに蚩国が奴隷化されるのは目に見えていた。
この遂国の不穏の声は程なく蚩国にも伝わり、両国の王は、琢鹿と呼ばれる中立地帯の草原において他者を交えず会談することになった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「久しぶりだな、蓮。少し痩せたようだな」
「お前もな、尤」
二人の王は、お互いに両手を取り合って固い握手を交わすと、白く乾いた草の上に向かい合って座った。祖父の代からの盟友である両王は、幼い頃からの知友であり親友であった。
「ところで遂国の噂は本当なのか」
「……本当だ。すまぬ、尤。我に力がないばかりに」
「そうか。で、お前はどうする気だ」
「どうするも何もない。お前の国を併呑など誰がさせるものか」
「そうか。で、それで国は保てるのか、民は助けられるのか」
「………」
「蓮よ。お前の国と我が国とは広さも民の数も違い過ぎる。おそらくお前がどんなに反対しようと、このまま日照りが続けばいつかは我が国を併呑しなくては済まなくなるのではないか」
「………」
「蓮。我はな、いつか呑み込まれるものならお前に呑み込んでもらった方が良いと思っているのだ」
「尤。な、何をばかなことを!」
「まあ聞け、蓮。国とは民あってのものだ。これはお前の父も我の父も共に語っていたことではないか」
「………」
「今、遂国では雨を必要とする民が大勢いる。これを救うにはどうしても華の祈りの力が必要なのだろう。違うか、蓮」
「………たしかにそうだが。だが、それではお前を」
「そうだ。我を倒さねば華を手に入れることはできぬ。戦わねば巫女も民も遂国のものにすることはできぬからな。」
「我にそんなことができるか!」
怒気を満面に遂王・蓮は、思わず蚩王・尤のむなぐらを掴んだ。だが、掴まれた尤は微動だにせず、そっと蓮の手首を握るとゆっくりと元の草の上に座り直させた。
「蓮。我は蚩の民のために命を懸ける。だから一人でも戦わねばならぬのだ」
「一人でもとは…」
「そうだ。我一人だけ民のために死ぬつもりだ。だから、お前に頼みがある。我の命と引き換えに蚩の民を奴隷にするのは止めて遂の民と同等に扱って欲しいのだ。分かるな、蓮よ!」
「………」
「蓮、我は考えたのだ。『民あっての国であるなら、ほかの民同士が同じ立場で一つになるのも間違いではない』とな。だから、戦はするが我一人だけがお前の軍に向かって行くつもりだ。お前は我だけを討て。そして、我と引き換えに蚩の民を新しい遂の民として迎え入れてくれ。頼む!」
尤は、こう言うと蓮の肩に両手を置いて深く頭を垂れ、あとは一言も語らなかった。ただ、二人の座っている草の上に4つの滴が流れ落ち、白く乾いた草が元の鮮やかな緑色に染まっていくばかりであった。
遂王・蓮は、蚩王・尤の姿に思わず目を伏せた。それはほんの一瞬のことだったが、彼にとって生涯最も長い瞑目の時間に思えた。
だが、その瞑目は尤の声によって破られた。ただ一人、真っ直ぐ遂王に向かって行った尤が、弓の射程に入った瞬間に雄叫びを上げたのだ。
「蓮よ。我との約定、たがえるな!」
雄叫びに目を見開いた蓮は、手にした刀を振り上げると迷いを振り払うように号令を下した。
「放てーっ!」
蓮の前に居並んだ弓弦の音が鳴り、数瞬後、突き立つ矢の音が草原の周囲に響き渡った。その瞬間、遂軍には沈黙が、蚩軍からは嗚咽の声が流れてきた。
「尤、す、すまぬ…」
蓮は、小さくこう呟くともう一度目を瞑った。そこには、無数の矢を正面から受け、天を仰いだまま倒れている親友の姿があった……
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降り出した雨を見たとたん、人々はただ呆然と立ち尽くすばかりだった。今、目の前で奇跡を見ているからだ。
「尤。す、すまぬ…」
遂王・蓮は、黄土が黒く染められていく様に身体の震えと涙が止まらなかった。
干上がった黄土に雨を呼んだ巫女・華は、降り注ぐ雨に涙を紛れさせながらそっと自分のお腹に手を置いた。華は尤の子を身篭っていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
遂王・蓮は、この出来事の後に自らの名を「人」に変えた。
そこには、神の力に敗れて友の命を失わせた自らの無力さに対し、『我(王)とは神ではなく人である』という意味が込められていた。
のちにこの一族は、遂人氏という名で中華の伝説の中で語り継がれることとなった。
また、のちに竜と名付けられた華の子は、蓮の後に遂国の王となり、新しい食として家畜を養う知識とそれらを生贄として捌く知恵を広め、厨と儀式を司るという意味を持つ「庖義」(ほうぎ)=伏義と呼ばれるようになった。
伝説の中で、伏義は中華最初の王とされている……
- 完 -