村井紅斗 著 『先生の指』
私は泣いている。
家を飛び出してきた。母さんと喧嘩して。だって私のこと、何も分かってない。あなたのことなんて分かってる?そんなの嘘。真っ赤な嘘。きっと、私の趣味すら、私の悩みすら、何にも分かってない。私の好きなこと、全部「そんなもの」で言いくるめてしまう。母さんにとってはそんなものかもしれなくても、私にとってはそんな軽いものなんかじゃない。理解して欲しいって言うのはちょっと違う。ただ、批判しないで欲しい。批判されるのはひどくつらい。確かに私の集めているのはかなりお金を使うもので、しかもあんまり実用的じゃないけれど。お金が勿体無いとは思わない。ゴミにもするつもりはない。
もうあたりはすっかりと暗くなって、夜。飛び出してきたときはまだ、空もほんのりと赤くて、涙が出た。それから止まらなくて、今。人工的な水溜りが公園のベンチに座る私の影の位置に重なっている。私の町は田舎だから、こんな夜中に一人で公園にいても誰にも何も言われない。そもそも人が通らない。それはそれでいいなあとも思うけど、でも寂しいなあと思う。誰か自分の趣味を共用できて、それから痛みも共用できる人が欲しい。趣味が共用できる人自体、周りにはあまりいないけれど。
「…?」
下を向く私の影に近づいてくる影が1つ。目を腕でごしごしと擦って涙をふいてから、顔を上げる。
「先生…」
私の担任の教師だった。まだ20代の若い教師で、教科は世界史。彼はチカチカと頼りなく光る電灯に照らされて、缶コーヒーと、分厚い本を持っている。本というか、図鑑というか。
「もう元だよ。元先生」
「…あ」
そうだった、先生は今日で学校を辞めた。お母さんが倒れたから介護とか言ってた気がするけど。次の先生も若くてかっこいいといいよね、と友達と話していた。
「すっかり忘れてました」
「おいおい。そんなんじゃ明日から他の先生きたら、なんでー?とか変なこと言っちゃうぞ。ちゃんと覚えとけ」
先生はぐいっと缶コーヒーを飲んでから、言った。
「で、何してたの」
「いや…」
私はそこで、口ごもる。
先生のことは、大好き。だけど、言いたくないこと、言わなくてもいいことはある。
「何でもないので、気にしないでください」
「…。ちょっとすまん」
先生はそう言うと、缶コーヒーを人差し指以外でもって、空になった人差し指を私の右のほっぺたに当てた。先生の冷たい指が、私のほっぺたに軽く食い込む。
「な、な、なに…を」
「ふむ。うん分かるけど。残念ながら俺にその趣味はもう無いんだけどさ、昔は好きだったよそれ。」
「…え、何が?」
「だからお前が泣いている原因。」
先生は何を言ってる?
「んー、だからさ。まあぶっちゃけると俺ってそういう能力っていうか特技持ってるんだよね。教師とは世を忍ぶ仮の姿的な感じで。頑張れば誰にだって習得できるものみたいだけど俺は血筋でそれに特に秀いていたっていうか。知ってた?人の気持ちって、頭から両方のほおを経由して全身に回るの。右には負の感情、左には正の感情。」
「知ってなかった」
そっか、と先生は笑った。先生の指が私のほっぺたから離れる。
「さっきも言ったけど、俺の家系ってその、ほおから感情を読み取る才能に優れてるから、昔からそれやってきた。ほら、この本」
先生は缶をベンチに置いて、分厚い本の方を開く。
「本つーか図鑑なんだけどさ。不幸記録。」
ぱらぱらとページが捲られていく。名前と、会った日と、何で悲しんでいたかと。
「俺の爺さんのじいさんのじいさんのじいさんの代から続いてるんだ。戦前からずっと。」
「なんで不幸記録なの?どうせなら幸福記録作ればいいのに」
幸せで溢れる図鑑。そんなのも素敵だと思う。
「不幸記録って言うけど、俺たちが楽にした不幸だけだし。そこまでどろどろに暗いばっかじゃない」
「楽にしたの?」
「うん」
先生は自信を持って頷いた。
「私のことも」
幸せにしてくれるのかな。
つうっと、また涙が垂れる。先生のさっきの話を聞いてから。左のほっぺたに何か、血に混ざって何か冷たいものが流れている気がしていた。きっと悲しい感情が全身に回っている。先生の指が、また私のほっぺたに触れる。
「幸せになるんじゃなくて、楽になるだけなんだけどね」
口が上手く開かない。
「言えないなら言わなくていい。全部分かるから」
あのね、先生。つらい。
「うん」
母さんはね、私の好きなもの分からないの。否定するの。気持ち悪いって言うの。無駄だっていうの。
「うん」
母さんなんて死ねばいいと思う。
「うん」
そんな自分嫌だけど。
「うん」
最近ね、いらついたことがあると何でも死ねばいいって思う癖がついた。
「うん」
ただつらいだけなのにね。
「うん」
ごめんね先生。
「何が」
こんなこと言っちゃって。
「別に」
先生はつらくないの?
「つらかった」
過去形?
「お前みたいな年頃の時はね」
今は?
「つらいのかな、分からん」
何で?
「それも分からん」
それ、かわいそう。
「何で?」
なんとなく、そう思う。
「そっか、ありがとよ」
先生。
「ん?」
楽に、なった。
「おお」
あのさ、先生。本当に田舎に帰るの?
「うん」
ここにいれないの?
「うん」
そっか。
「ごめんな」
ううんいいよ。頑張る。
「…これやるわ」
え、図鑑?いいの?必要じゃないの?
「俺の代わりにお前が不幸記録して。それと、記念」
ほっぺたから読み取るやり方知らないし。
「やってみやってみ」
先生はそういって自分のほっぺたを差し出した。私はそのほっぺたに、ちょこんと人差し指を付けてみる。
―――いきたくねえなあ。そんな声が、どっかから聞こえた。
先生の指は私のほっぺたに、私の指は先生のほっぺたにくっついている。直列回路みたいに。
「聞こえた」
私は笑顔で、口に出していった。今度は左のほっぺたからも、何かあったかいものが流れてる気がした。
「先生」
「ん?」
「ありがと」
自作小説倶楽部4月期お題「××を集める男」で書きました。
なんか集めてるわけじゃない気がする…最近そういうのばっかだなあ。
全部まとめると2300字くらいだったので2つに分けたのですが後半短くなってしまい残念なことに。
プロットとか組まなかったので変な感じもしますがこれが素の自分の小説かなあとも思います。
ちなみに主人公の趣味というのは一応最初はオタク趣味とかそんな感じの予定だったんですが、人形とかガンプラとかグリコのおまけ集めとかフィギア集めとか、そんな感じもしてきました。難しい。