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lily 著  キス 『別れの挨拶』

ひっそりとした森の奥に、古びた洋館が建っていた。どことなく品はあるものの、全体的に不気味さを漂わせているゴシック調のこの洋館に、未だ足を踏み入れたものは無く、根も葉もない噂話ばかりが街でささやかれていた。これはその洋館で起こったひとつの真実の物語である。


この洋館には、とある夫婦が仲睦まじく暮らしていた。妻は気品漂う老婦人で、優しい碧色の瞳をしていた。肌は透き通るように白く、白銀の髪は老いてもなお艶やかで、若かりしころはたいそうな美女であったことがうかがえる。夫のほうは初老の紳士であり、肌が異様に青白く、その瞳は燃えるように赤かった。年齢のことを除けば、気品漂う妻にこれ以上無いほどにふさわしい夫であった。

夫婦はどんなときも一緒だった。幸せなときも、不幸なときも、そして病めるときも――


「具合はどうだね」

ベッドに横たわる老婦人に、初老の紳士は優しい声色で問いかけた。

「いつもと同じで、あまりよくないわ」

彼女は穏やかに微笑み、か細い声でそう答える。紳士は一瞬表情を曇らせたが、すぐに暖かな微笑を彼女に向けた。

「外をごらん。今宵は月が綺麗だ」

窓の外には満月が、黄金の輝きを放ちながら浮かんでいた。老婦人は首を窓のほうへひねり、その光景を眺めると楽しげな声を出した。

「まあ、本当だわ」

そして夫のほうに向き直り、柔和な笑みを浮かべる。紳士を見つめるその瞳は、まるで恋をする乙女の瞳のようであった。

「こんな月の夜でしたね、私たちが出逢ったのは」

もう数十年も前の話である。黄金の満月が怪しげな光を放つ闇夜、ある美しい娘が人通りの少ない路地を歩いていた。若い女が一人で歩くには危ない時間帯であるにもかかわらず、彼女は闇に脅える様子も無く、ただ悠然としていた。だから通りの角を曲がった瞬間に、怪しげな紳士に声をかけられても、彼女はまったく動じなかった。

「お嬢さん、少しよろしいですか」

紳士は心底弱りきったような顔をして、彼女に話しかけた。

「私を助けていただけませんか」「ええ、私にできることなら。お力をお貸ししますわ」

彼女は紳士を気の毒に思い、そう言ってやさしく微笑んだ。

「ああ、有り難う。お嬢さん」

紳士も愛想の良い笑みを浮かべる。

「それで、私は何をすればよいのでしょうか?」「血を分けてください」

彼女はそこで初めて、紳士の歯が異様に鋭く尖っていることに気がついた。

それが二人の――吸血鬼と人間の夫婦の馴れ初めだった。


「あの時は本当に驚きましたよ」


昔を懐かしむような目をして、老婦人はくすくすと笑う。


「吸血鬼に声をかけられるなんて、ねぇ」


紳士は端正な顔に穏やかな微笑を浮かべる。


「しかし君は怯えることも無く、快く血を吸わせてくれた」

「だって貴方は本当に困っているように見えたんですもの」


それに、と彼女は少女のように悪戯っぽく笑う。


「吸血鬼と触れ合える機会なんてめったに無いと思ったの」

「君はいつまでもあの時のままだ」

「あら、私はもうよぼよぼのお婆さんですよ」


老婦人の声には過ぎ去りし過去を思う、寂しさの色が含まれていた。

そんな妻の、青白い血管が目立つ手を優しく握りながら紳士は力強く言った。


「君より美しい女性はこの世にいない」


そして紳士は握り締めた彼女の手にそっと口付ける。

老婦人はそんな彼の姿を見つめながら懐かしそうに言った。


「貴方はキスが下手だったわね。何度舌をかまれそうになったことか」

「それは君が好きだからだ」


紳士は年甲斐もなく拗ねたような顔をする。それをみて老婦人は再びくすくすと笑った。

彼女に釣られて微笑を浮かべた紳士だったが、ふと表情が暗くなった。


「・・・すまないね。夜の短い間しか君にかまってやれなくて」


吸血鬼は朝日に弱い。しかし人間である妻が活動するのは昼間だ。

愛する妻が日の光の差し込む部屋でひとり病と戦っている間、彼は館の薄暗い地下室で深い眠りを貪っている。紳士が彼女にしてやれることは、仄かな月明かりの差し込む部屋で、彼女が眠りにつくまで傍に居てやることだけだった。


「仕方ありませんよ。私が愛した人は、夜に生きる吸血鬼だったのですから」


慈愛に満ちた微笑を浮かべ、老婦人はそういった。しかし急に真剣な表情を浮かべ、こんなことを言い出した。


「貴方は神様を信じていらっしゃる?」

「吸血鬼がいるのだ。神が居ないのはおかしい」

「では天国の存在は?」

「神が居るのなら、きっとあるのだろう」


紳士は何気なくそう言った。

すると婦人は安堵の表情を浮かべ、ベッドからゆっくりと身を起こした。


「私はもうじき天国へ行くわ」

「私は地獄だ。死んだら永遠に逢えなくなるな」


紳士は冗談めかしてそういったが、彼女は笑わなかった。


「いいえ、ひとつだけ、方法があります」


老婦人は彼の瞳をじっと見てそういった。

その言葉にはどこか決意にも似た響きが含まれていた。


「私の命を、貴方に差し上げるわ」


彼女の言葉が意味することはただ一つ。


「君も地獄に行くというのか」


彼女は夫に自らの血をすべて差し出すつもりらしい。そうすれば肉体は滅びても、かつて彼女であったものは永久に彼の中に留まることができる。

老婦人は死した後も、愛する夫の中で生きることを望んだのだ。


「貴方となら、どこだって天国ですよ」


老婦人は静かに微笑んだ。

この吸血鬼にとって、彼女の願いはこの上なく辛いものだった。

確かに自分たちには死後の再会など約束されていない。

彼女がこのまま死んでしまえば、その喪失の先には何も救いが残らない。

そう考えると妻の願いには、まだ救いが残されているように感じた。

しかし救いを得るには、愛する彼女を自らの手で葬らなければならないのだ。

しかもよりによって、その命を自らの命の糧にするという野蛮な方法で。


「吸血鬼に生まれたことを、今はじめて私は咒う」


紳士は唇をきりりと噛み締め、忌々しげにそういった。

端正な顔が痛々しいほどの悲しみで歪む。


「けれども私は幸せですよ。死んでも貴方とともに居られて」


そんな彼を慰めるような、愛する妻のその言葉で、吸血鬼は覚悟を決めた。


「キスをしよう」


優しい笑顔を浮かべ、彼女に囁く。


「それなら、首筋に」


そして彼は強く愛する人を抱きしめ、剥き出しになった彼女の白い首筋を見つめる。


浮き出た青い血管に彼は舌なめずりをし、牙をむき出しかけたが、ふと彼女にもっと気の利いた言葉をかけてやりたくなり、口を閉じた。

愛する妻の最期の時、彼女が望むのは果たしてどのような言葉だろうか。少しばかりの思案の後、彼は心を決め思い出の言葉を口にした。


「―――私を助けていただけませんか、お嬢さん」

「あら」


妻が楽しげな声を出した。彼は彼女の顔を見なかったが、その表情は間違いなく笑顔だったに違いなかった。


「何をすれば良いのかしら」


「君の、血がほしいのだよ」


言い終わると同時に、彼は愛する妻の白い首筋に鋭い牙を立てた。

吸血鬼は彼女の甘美なる命の糧を味わいながら、昔誰かに聞いた言葉を思い出していた。


-――われわれの吸血行為は人間たちの求愛行為に似ている。


今ならその気持ちが理解できる。

彼は脳内でその言葉を繰り返しながら、愛する人の命を舌で舐め続けた。やがて彼女の体から一切の重みを感じなくなって初めて、彼はその瞳から涙を流したのだった。


その後この吸血鬼がどうなったのかは誰も知らい。 今も洋館は墓場のような静寂を保ち、主の思い出と共に悠久の時を過ごしている。


   キス『別れの挨拶』(了)

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