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浅丘 柚胡 著   雪・氷 『サンタクロースからの贈り物』 2010.12.


 Present from Santa Clause ~サンタクロースからの贈り物~



 十二月二十四日、クリスマス・イヴ。午前三時。

 昼夜問わず、多くの人が行き交う東京の街はいつも以上に上品な姿の人々が溢れている。瞬く星が見えない程に明るい夜は、赤、青、緑と黄などの色とりどりの光や電飾が加わりより一層賑やかだ。

 子どもたちもまた、温かい毛布にくるまり、静かに寝息をたてている。頭の近くに飾られている大きな靴下はプレゼントを入れるための物。彼は優しく光るクリスマスツリーの光に囲まれて天使のような微笑みを浮かべていた。

 しかし、濡れ羽色の長髪を持つ少女は一人だった。大きな皿に盛られた温かいご飯を分け合う家族はいない。寒いこの夜を一緒に過ごしてくれる恋人もいない。眠れないほど自分を楽しませてくれる友人さえいない。

 彼女が持っているものは、この寒い時間をを過ごすには頼りない白いヴァイオリン。それのみだった。

 赤くかじかむ白魚のような手で紡ぎ出す音色は聖夜に相応しく、芯が通っている。心の闇を一掴みされたかのような、悲しくも聴き入ってしまう音。

 白い弦楽器と同じ色のドレスは彼女の身体に沿い、十七歳にして妖艶な姿を映し出す。長い黒髪も解き放たれて絡まることもなく宙に舞っていた。

 曲が展開部にさしかかった時、余韻も残さずに独奏を止める。そして、

「独りも……ある意味いい……のかしら」

曲に続く音は諦めの言葉だった。小さな言霊は風によって遠くへ飛ばされる。

「クリスマスってこんなに寂しいものだったかしら?」

広い高層ビルの屋上には彼女しかいなく、問いに答える者はいない。地に足をつけた黒髪の天使は、悲しさにただ嘲笑うような笑みしか浮かべなかった。


                  ☆


 銀杏の葉が色づき始めた十月頃。


 「紗雪、私の仕事を手伝ってみないか?」

唐突だった。久しぶりに帰宅した父と一緒に食事をしていた為、ステーキが喉につかえて苦しかった。

「慌てるな。といっても、慌てさせたのは私か……」

「いえ、そんなことは……」

「お前も立派に十七歳なる。橋元財閥の後継者として考えている」

「でも、香海お姉様が……」

「だからだ。香海が十歳にして財閥に貢献したからこそ、血を分けた妹の紗雪にもできるはずだ」

 紗雪は世界に名を馳せる橋元財閥の会長、橋元興起の娘である。姉は十歳にして経営の一部を携わってきた。母は有名な業界人だ。紗雪自身もバイオリンの才は秀でているが、仕事に関してはまだまだ疎かった。

 「うむ……まぁ時間は沢山あるさ。ゆっくり考えなさい」

正直、嬉しさ反面、戸惑いもある。しかし、

「やっ、やらせてくださいっ!」

「ふふ、それでこそ私の娘だ」

満足そうな父の顔は、新しい玩具を見つけたかのような子どもの顔に似ていた。

「でも、一ヶ月間経済学を学ばなければならないよ? 普通は何倍もの時間が必要だけれど……紗雪さんならできるよ」

父の秘書の一人――秘書にしては幼さが残る金髪の青年が口を開く。青い瞳が印象的だった。

「えっと、お名前は?」

「あぁ、自己紹介がまだだったね……。僕はレオ・サンタクロース。会長の秘書をさせていただいてる」

差し出された右手を慌てて握り返す。

「ど、どうも。橋元紗雪です」

「レオ君はね、優秀だよ。今、二十二歳で、ここに入社したのが半年前だ。仕事先でスカウトしてしまってね」

父の顔が緩む。どうやらかなり気に入っているみたいだ。

「凄いのですね、レオさん」

「だから、本当は彼を手放すのが少々惜しいのだよ」

「会長…大げさですよ」

「お父様ったら……」

「大げさじゃない、彼は本当に優秀な人材だ」

父は子どものように主張した。

 次の日から一日十二時間の勉強が始まった。経済学とは堅苦しいものだと思っていたが、彼のおかげで楽しく学べた。

「紗雪ちゃん、凄いね。……よくできたから、ご褒美にヴァイオリン弾いて?」

紗雪『さん』から紗雪『ちゃん』へ変わっていった。

「私が弾いたらご褒美じゃないですよ?」

「確かに、そうかもね。じゃー……一緒にヴィオラでも弾こうかな」

 「よくできたね」と言っては、休憩の間に二人でチャイコフスキーやベートーベンのヴァイオリン協奏曲を奏でた。彼の音色は相性が良くて、心地いい。

「レオさん、なかなか上手ですね」

「皮肉? これでも発表会とかよく出ていたんだ」

「えぇ、皮肉です」

「でも、紗雪ちゃんに褒められるのは光栄だな」

彼は微笑んだ。

 レオさんといる時間は楽しくて、あっという間に駆けていってしまう。本当に、自分を優しく包み込んでくれる。――彼がそばにいるのが当たり前になっていた。



 経済学を学ぶという一ヶ月は過ぎ、彼との時間はもう終わってしまう。

「紗雪ちゃん、今日はお出かけでもしようか?」

あと、残りわずかの時間を惜しみ始めていると、声をかけられた。

「お出かけ……ですか?」

「うん、デート。といっても、ただのドライブだけどね」

「行きますっ!」

『デート』という響きに過剰反応してしまうのは、何故だろうか。触れなくても自分の顔が赤いのがわかった。自然と胸が躍る。

 ヘルメット越しに風が当たって、十二月の冷たい風にスカートは揺れ、外にさらされた肌の一部は風があたり、少し痛い。けれど、そんなことはどうでもよかった。近づいたことのない、この距離感に戸惑っていたのだ。

「平気? 大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

本当は大丈夫じゃない。この心臓の高鳴りを抑えるのが大変だ。

「……疲れてるでしょ? 休憩しよう」

近くにあるサービスエリアへ彼はバイクを止めた。

「何か、温かいものでも買ってくるね」

――彼と、離れたくない。

ヘルメットを両腕で抱え込みながら、紗雪は青い空を見上げ、呆然とそう思った。

 「お姉さん、かわいいね」

「今、ヒマ? 絶対、ヒマだよね?」

突然、赤髪と金髪の男が話かける。

「い、いえ……彼を待ってるんです」

「彼? そんな人いた?」

「だって、もう五分くらい待ってない、君?」

「ひどいなぁ、女の子を五分も待たせるなんて」

そういって、赤髪が一歩近づき、彼女の腕を掴んだ。

「ねぇね、名前は?」

「誰でもっ、いいでしょっ」

手を振り払おうとしても、解けない。

――痛い、レオさん……、助けて。

「ほら、こっち来ようよ。俺たちと遊んだ方が、楽しいよ」

「いやっ、離して!」


 バシャッ……


 「熱っ……!」

「彼女の手、離してもらえませんか?」

――レオさん。

心の中で現れた彼の名を呟く。

「てめぇ、何すんだよ!」

「火傷してんじゃねぇか、どうしてくれんだよ」

「はぁ、すいません。転んでしまって。一刻も早く彼女に温かい物を届けたくて」

「ふざけんじゃねぇぞ?」

こんな人たちを相手に、勝てるだろうか?

「あぁ、ふざけちゃいないさ。ただ、彼女の手を離せって言ってるだけですよ」

彼の気配が一瞬、鋭くなった。

「っち」

「次会ったら、ブッ殺す」

「会うことはないでしょう」

男二人は、舌打ちをしながら、去っていった。

「大丈夫? 何もされてない?」

「はい、大丈っ……」

ふいに抱きしめられる。微かに震えていた。彼も、私も。

「ごめん、長い間待たせて。怖かったよな。でも……よかった、何もなくて。君は橋元財閥の大事な跡取りだ。何かあったら、会長に申し訳ない」

「えぇ、そうですね」

――こうやって、彼が優しく抱きしめてくれるのも、どこかに連れてってくれるのも、褒めてくれるのも、微笑んでくれるのも……全て私が大事な跡取りだから? 会長の娘だから? 守られるべき立場だから……?



 そうして、その後、私たちはイルミネーション街にある、レストランで食事をし、バイクに乗った。

 途中でバイクを止め、彼はヘルメットをはずした。

「ほら、見て」

彼が指すものはレインボーブリッヂで、彼女としては、珍しくはない。よく見る光景だ。

「僕ね、日本に来てこの橋を見て感動したんだ。綺麗だと思わない?」

「綺麗ですね」

「喜んでもらえたなら、なによりだよ」

「レオさん……」

「ん?」

「私ね……」

――あなたのことが、好き。

「いいえ、やっぱ何でもありません」

「えっ、気になるよ」

「秘密にしておきます」

「ずるいな、君は」

そっと、彼の手が頬に触れる。彼は優しく微笑んだ。

「泣いてもかわいいけど、泣き顔より笑ってる方が僕は好きだな」

さらりと。照れることなくそんな事を言う。逆に言われた方が照れてしまう。

 夜の冷たい風をもってしても、この熱くなった頬は冷めなかった。


 「しばらくフランスに行くことになった。出発は、明日だ」

夕食時に父から唐突に告げられる。

「レオくんも一緒だ」

「しばらくとは……?」

「珍しいな、紗雪がそんなことをきくなんて」

「えっ、えっと……仕事、とかまだまだ学ぶことがありますから」

慌てて言い訳をする。まさか、レオさんがいないと寂しいなんて、言えない。

「はははっ」

父は楽しそうに笑う。

「って、何故そんなに楽しそうなんですか?」

「いやね、似てないと思っていたが……、香海に似ているなと思っただけだ。あの子が仕事を始めた頃、私が出張すると聞いた途端、血相を変えて『いつ帰ってくるのですか』と聞いたものだ。ひどく慌ててた」

「お姉様が、ですか?」

「あぁ、そうだ」

 昔から感情を表に出さない、仕事熱心な人だった。そんな姉が、慌てる姿など想像もつかない。

「そういえば、香海が結婚したい、と言い出してな」

「お姉様が、結婚……」

「正直、驚いた。もう、そんな歳なのか」

「そうですね、もう二十二歳ですものね」

「紗雪はどう思うかと思ってな。相手は、まぁお前もよく知る人だ」

嫌な胸の高鳴り。聞いてはいけない、そんな気がした。

「お父様、そのパイ、どう? 私が焼いたのよ。食べてね」

早口で伝え、立ち上がる。

「紗雪、話はまだ終わって――」

「ごめんなさい、急用を思い出したの。また、ゆっくりその話は聞くから」

足早に出て行った娘の姿を扉越しに見つめながら、会長は呟いた。

「急用などないだろうに……。やはり、そうだったか」

そうして、娘が焼いたパイを口に放りこんだ。

「甘いな……。味は口ほどものに言うとは、よく言ったものだ」


「お父様は、何て――」

話を聞かずに出てきてしまった無礼への後悔と、わけの分からない不安で胸が押し潰されそうだった。

「あら、紗雪?」

後ろから、しばらく聞こえなかった懐かしい声がした。同時に、胸が苦しくなった。

「久しぶりね、紗雪」

「えぇ、お姉様」

「ちょうど良かった。貴女に相談があったの。私の部屋に来てもらえるかしら?」

久しぶりに見る姉は一年前と変わりなく美しかった。少し、表情が明るくなった気がした。

「ちょうど、いい茶葉が入ったのよ」

緑を基調としたドレスの裾をひるがえして、香海は自分の部屋へ足を進めた。紗雪は断ることもできずに、ただ姉についていくしかできなかった。

 姉の部屋は白でまとめられた部屋だった。調度品も行儀良く並べられ、大きな棚に収まった本と、ソファ、テーブルが私室部分にあった。

「相変わらず、でしょう?」

侍女が入れたお茶を口にし、カップを持ったまま、姉は口を開いた。

「相変わらず、とは?」

同じく紅茶をすすり、聞き返した。

「この部屋よ。何もなくてつまらないって、昔貴女が言ったのよ」

「そんなこと言っていたの、私?」

「えぇ。『本があるじゃない』って言うと、『そこにある本は全て読んだわ』って。覚えてないかしら? 貴女が十五の時」

「お母様と喧嘩して、会うのが嫌だからって、お姉様の部屋に匿わせてもらったわね」

「……本当に一年しか経っていないのに、綺麗になったわね」

「と、突然そんなこと言われてもっ。お姉様の方が綺麗なのにっ……」

「でも、貴女を見たら不安になるのよ。ごめんね、紗雪。貴女の方がお似合いなのにね」

「なっ、何故いきなり褒めたり、謝ったりするのです?」

姉は、そうそう褒めたりする人ではなかった。

「私ね、結婚したいの」

「っ…………」

鼓動が速まる。大きな不安が募る。

「その様子、知っているみたいね。彼は素敵な人。優秀で、紳士的。私には勿体ないわ」

「そう、ですか」

「貴女もわかるわよね? 一ヶ月近くも一緒にいたんだもの。でもね、残酷かもしれないけれど。私は、貴女よりも前に出逢って、貴女よりも前に彼に恋していたの」

「お姉様、私帰るわね。紅茶おいしかったわ。おめでとう、頑張って」

早口でまくしたて、ソファから立ち上がる。淡い緑の絨毯を踏みつけて出口を目指す。


「レオ・サンタクロース」

姉の赤い唇から告げられた名前に反応し、立ち止まる。

「お願い、紗雪。どうか恨まないで。貴女はまだ十代。これからまだいい人に出逢えるわ」

ドアには、あと一歩踏み出せば届く。しかしその『あと一歩』は遠かった。

「お姉様は幸せね」

「えぇ、そうね。……式は十二月二十三日よ。パリで式を行うの。貴女の誕生日パーティーも行うそうよ」

「そう。では、お姉様の花嫁姿が見れるのね」

そう言って、ドアノブを回した。

 姉の部屋から少し離れたところ。そこで、紗雪は泣いていた。顔を手で覆い、しゃがみこむ。

「っく……、レオさん……」

「さ……雪ちゃん?」

聞きたい声がした。聞いたら、もう戻れなくなる気がする。

「泣いてるのかっ? どうした、何があった?」

彼の手が優しく紗雪の頬に触れようとする。

「触れないで」

触れられる直前に、紗雪は彼を拒絶した。

「え……? どうしたの、紗雪ちゃん」

「ほっといてください。貴女のために」

彼を押しやり、立ち上がる。

「紗雪ちゃんっ! ――紗雪!」

腕を掴まれて彼に捕らえられる。顔は涙でひどいことになっているのに、さらに歪んで……彼にこんな姿、晒したくない。

「フランスに気をつけて行ってくださいね。……お幸せに」

涙を拭いて、笑顔を作る。うまく笑えているかはどうでもいい。彼が笑顔が好きだから。

「――――っ!」

身体を、彼の腕に捕らえられる。なにしているんだ、と言おうとしても、言葉が出ない。

 頬に、生暖かい感触が伝わる。そして耳元にも。

「泣かないで、大丈夫」

絶対的安心感がここにある。本当は嘘だと思いたかった。彼は自分が好きだと思いたい。期待する自分がいる。でも、この距離感は間違っている。

「仕事が終わったら、必ず逢いに来る」

首に、冷たい感触が落ちる。しかし、その正体を確かめることなく、紗雪は眠りについた――。



 翌日、起きた時にはとうに十時を回っていた。父や姉、彼はフランスへと飛び立ち、紗雪は独り残されていた。

「これ……」

胸元に光る雪の結晶。その冷たくも、どこか温かいネックレスを紗雪は握りしめた。彼は、ネックレスと頬の温かみだけを残し、フランスへ行ってしまった。

「レオさん」

彼女の呟きは、部屋で木霊することなく消えた――。


                  ☆




 それは、過去だ。もう過ぎ去った、彼女の苦しい想い出。二ヶ月前の想い。

 広い屋上に、黒髪の天使、紗雪は立っていた。白いヴァイオリンを大事そうに抱え、少しだけ震えていた。十二月の風が踊り、彼女のスカートを、髪を巻き込み踊る。

 屋上は、唯一金髪の青年に近い場所だった。その時はマフラーをして、二人で夜景を見ながら、一緒に過ごした。

『レオさんて、サンタクロースみたいですね』

『えぇっ、サンタクロースって、名前そのままなんですけど』

『そうでしたね』

『そうでしたって、そうですよ』

『私の誕生日、サンタさんが来る日なんですよ』

『じゃぁ、たくさんプレゼント貰えるんだ。僕も何か、配らなきゃ、ね』

『くれるんですか? じゃぁ、いい子にして待ってようかな』

『よし、じゃぁ、レオサンタはいい子の紗雪ちゃんにいいものをプレゼントしようと決めました』

いつもとは違う口調で話が進む。

『約束ですよ?』

『はい、レオサンタは誓います』

互いの小指を絡めた。

 目の前の楽譜通りに、音は流れる。白く美しく、寂しげな音色を。けっして、丁寧に弾いているわけでもない、感情に任せているだけなのに、輝くように紡がれて絹糸と化す。滑らかな絹糸は弾き手を包み込んだ。

 しかし、冷たい風は絹糸を吹き飛ばした――。そして、大事な楽譜も。

「あっ!」

気づいた時には既に遅く、遥か上空を一枚の紙が駆ける。

「お願い、だめっ!」

必死に願う。これ以上想い出を消さないで、と。一枚でもなくなったら、彼との想い出がその分だけ、消えてしまう気がした。

 願いながら、紗雪は走る。走る。走る。広い屋上を。

――レオさんっ!

 微笑んだ顔。

 怒ったような顔。

 戸惑った顔。

 彼の表情が脳裏に浮かぶ。

 「大切な、楽譜なのっ!」

紗雪が叫んだ、刹那。一枚のフィルムは屋上の手すりに絡まった。

「良かった……」

手を伸ばす。楽譜は手に吸いつくように収まる。

 安心は束の間だった。

 また、風は想い出を吹き飛ばす。

「いやっ!」


 『紗雪ちゃんっ!』


紗雪は手すりに身を乗り出した――。

「きゃあっ!」

 それは、神の悪戯にしては悪質すぎる出来事だった。強い風は彼女を吹き飛ばした――。


落ちた瞬間、屋上の縁に手をかけた。しかし、もう限界だった。恐怖に震える。

そして、紗雪の手は壁に嫌われた――。


 レオの目の前では、手すりに手をかける彼女の姿があった。

――まさか!

嫌な事態を想定する。彼女は強い、けれど。もしかしたら……。


『紗雪ちゃんっ!』


叫んでいた。けれど、彼の声は届かなかったのか、彼女は身を乗り出してしまう。

「きゃあっ!」

彼女の悲鳴が屋上を駆け抜け、彼へと届く。

 彼は、赤い薔薇の花束を投げ出し、走りだしていた。



 落ちた、そう確信したのはわかる。しかし、自分は今、足が宙に浮いている状態で、空気抵抗を感じない。おまけに右手首が痛い。

「馬鹿かっ!」

上から怒鳴り声がする。しかも、紗雪が聴きたかった声にひどく似ていて。恐る恐る頭上を見上げる。

「レオ……さん」

絶対、ここにいないはずの人物。金髪、青い瞳が印象的な青年。彼が――今、紗雪を捕まえている。


 「なんで、自殺なんて馬鹿なことしようとした!」

「自殺なんて、そんなことするはずないじゃないっ」

「じゃぁ、なんで、あんなことっ……」

 紗雪は彼により引き上げてもらった。そして、『馬鹿』と彼に言われ、言い争いが始まってしまっていた。

「楽譜が飛ばされたんです」

「紙が飛ばされて、君は落ちたの? なんで……はぁあ」

「ちょっと、ため息つかなくてもいいじゃないですか!」

「紙ごときでっ! 君は、命を落とそうとしたんだよ! その自覚をっ!」

「紙ごとき、とか言わないでください! 私にとって、大事なものなんです。レオさんとの想い出が詰まってるんです」

もう、この想いを心に留めておく必要はないと思った。

「結婚するって聞いて、不安で……。なんでお姉様なのって思いました。確かに、私よりも前に知り合っていて、お似合いかもしれないけれど。でもっ、私の方がレオさんより距離は近くて、私の方がレオさんを好きだって。だから、私は想い出に縋るしかなくて。じゃあ、私はどうすれば良かったの?」

涙が止まらない。きっと、この距離はいけない。姉のためにも、父のためにも。そして、彼のためにも。でも、動けない。あの日と同じ。

「香海さんとの縁談は断ったよ。最初、会長がどうだって薦めてきてね。でも、僕には君がいるって。香海さんは僕に好意があったらしいんだけど。それがいつの間にか広まってて、結婚まで話が膨らんでしまった」

朝日がゆっくりと昇り始める。

「でも、それを僕がぶち壊して来たんだ。でも、会長も、香海さんも笑っていた。『さっさと迎えに行きなさい』だって。だからね、結婚していないよ。ちゃんと、約束したしね。レオサンタはいい子の紗雪ちゃんにプレゼントするって」

「覚えていてくれていたの……?」

「紗雪」

呼ばれ慣れていない名の呼び方に、顔が赤く染まる。

「誕生日、おめでとう」

彼の手には、溢れんばかりの赤薔薇が咲き乱れていた。

「綺麗……ありがとう」

 ふいに、彼は立ち上がり、手を差し出す。

「…………?」

「行くよ、紗雪」

「どこに行くんですか?」

「秘密だよ」

そう言って、彼は紗雪を姫抱きした。

「きゃっ?」

「愛しているよ、紗雪。結婚、しよう?」

耳元で囁かれた言葉に、より一層頬を染めて固まっていると、レオは満足げに微笑んだ。



 教会の、白を基調とした部屋に連れて行かされた。風呂に入れさせられ、食事をし、あっという間に昼になる。そして、慌しく侍女たちに着替えさせられた。呆然としていると、自分は別人に変身していた。

「ウェディング、ドレス」

淡いピンクのドレスに身を包んでいた。解き放たれていた黒髪は上で綺麗に纏められ、艶やかな唇には赤いルージュが引かれている。

 こんっという軽いノック音がして、衣装部屋の扉が開く。顔を覗かせたのは、姉と母の有紀だった。

「お母様、お久しぶりね」

「綺麗ですよ。私が仕立てた甲斐がありました」

「ありがとう。嬉しいです」

姉をちらりと見ると、彼女は切れ長の目をつり上げて、言った。

「おめでとう、紗雪。でもね、私が惚れた人なのよ? 彼を幸せに、貴女も幸せにならないと、許さないわよ」

姉が、笑った。

「泣かないで。私は、別に負けてないんだから。紗雪ったら、泣き虫ね」

そう言いながらも、香海の手は、紗雪の白い肌に触れ、涙を拭う。

「ありがとう、お姉様」

「お礼なんていいわよ。ただ、お化粧が落ちてしまうもの。勿体ないじゃない、せっかくの晴れ舞台が」

「そうね。……先越されても、焦ってはダメよ、お姉様?」

「えぇ、妹に言われなくても、焦ってないわよ。ただ、私には彼よりもっと似合う人が出来ただけよ」

すると、姉はおもむろに侍女に耳打ちをした。侍女は丁寧に頭を下げ、部屋を出て行く。そして、一分も待たずに、茶髪の男性を連れて、戻ってきた。

「婚約者よ。金城有限会社社長、金城拓也さん」

「えっ……」

あまりにも間抜けな声を出していた。金城さんと、姉を交互に見やる。背が高く、良い体躯。整った凛々しい顔。とても絵になる二人だった。

「お似合いね!」

「えぇ、言ったでしょう? 彼の方が私に似合うって」

にこりと微笑む姉を見て、紗雪は幸せな気持ちになった。

 二回のノック音がし、

「紗雪様、もう式の準備が整っております。入場のご用意を」

「わかりました。お姉様、お母様。ありがとうございます」

二人に挨拶をして、紗雪は悠然と部屋を後にした。


                  ☆


 「紗雪、綺麗だなぁ」

溢れ出す涙を一生懸命ハンカチで抑える父を、隣で一瞥する。

「お父様、泣かないでください。それでは、式に出られないわ」

「ずびっ、……でもなぁ、ぎれいだがら……」

すっかり鼻声になっている。

「泣いているなんて、らしくないです」

「そんなに、泣いている私と歩きたくないか?」

「そうですね、私は堂々としたお父様と歩きたいです」

「いつもの方が好きか?」

「もちろん」

「では、レオ君とどっちが好きか?」

困る。せっかく涙の止まった父を見て、少し戸惑う。彼、と答えたら絶対また泣き出すだろう。父、と答えたら、何のための結婚式だ。だから、こう答える。

「決められないわ。レオさんは、恋愛感情。お父様は家族愛。どちらも大切でしょう?」

「意地悪だよ。でも、合格だ。自分の気持ちを偽らないことが大事だからな」

「はい」

「入場お願い致します」

扉がゆっくりと開く。

「ねぇ、お父様」

「なんだい?」

腕をしっかり組んで、紗雪は胸を張って言う。

「ありがとう」

満足顔の父はゆっくりと一歩を踏み出したのだった。



 神父の言葉を耳にしながら、紗雪は考える。

――家族の前では、堂々としていられるのに。彼が隣にいることからして、夢に思えるわ。

 心臓の高鳴りを聴かれないだろうか。

 ヴェールの下の、真っ赤な顔は知られていないだろうか。

 『恋』をしていた時には気がつかなかったことを、今更になって気がつく。

「紗雪」

小さな声で名前を呼んだ彼は、前を見据えたまま、告げた。

「顔が赤いよ?」

意地悪だ。隣で小さく口の端を上げたのが見えた気がした。

「レオさんの意地悪」

それでも彼は微笑んで、楽しそうにしている。

「レオ、貴方はサユキを妻とし、生涯愛し続けることを誓いますか」

「はい」

「サユキ、貴女はレオを夫とし、生涯愛し続けることを誓いますか」

そこで、彼女は彼を一瞥した。彼も、彼女を見て微笑んだ。

「はい」

「では、指輪の交換を――」

「ちょっと、待ってください」

神父の言葉を遮ったのは、あろうことかレオだった。場内は蜂の巣をつついたかのように騒然となった。

「どうしたのかね、レオ君」

落ち着かない様子で、父が尋ねる。しかし、その言葉に笑顔だけを返し、彼は紗雪を抱きかかえて、扉を歩み寄った。

「すいません。ここからは二人だけの時間にしてください。僕、ここから先の儀式、お見せするのは恥ずかしくて。ですから皆さん、今日はお越しくださいましてありがとうございました」

優雅に礼をする。彼女も慌てて頭を下げた。そうして、扉を開けて出て行く。まるで、怪盗のようだった。

 「ねぇ、レオさん」

「なあに、紗雪」

「どうして、あんな嘘」

レオは困ったように眉をひそめた。

「独り占めしたかったから、じゃ、理由にならないかな?」

「え…………?」

「確かに、式が終わったらいくらでも独り占めはできるけれどさ、こんな綺麗な紗雪は式が終わったらすぐ無くなっちゃうなんて、勿体なくて」

新婦を抱いた新郎が街中を駆ける。白い光が、東京の街を照らした。

「ねぇ……君は僕を一生愛してくれる?」

「さっき誓ったばかりじゃない」

「自信がないんだ。僕って、意外と臆病だから」

自信がない、子どもみたいな面は初めてみるもので、新鮮だった。

「愛してる、紗雪。これからも、ずっと」

「私も、愛してる。なんか、夢みたい!」

紗雪は満面の笑みを浮かべて言った。

 屋上に戻った二人を、赤い薔薇の花弁が静かに見守る。

「夢じゃないよ、だって――」

柔らかい感触が、紗雪の唇に落ちる。

二人を祝福するように、白い粉雪が舞い降りた。赤い花弁とワルツを踊り始めたのだった――。




                         E N D


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