紫草 著 雪・氷 『誰が降らせた、この雪を』 2010.12.11
この物語はフィクションです。登場する人物・事柄は全て架空のものです。
Ⅰ
有名な都内の高級ホテルの最上階スィート。
クリスマスイブの夜。
そんな部屋をイブの十日前に、意図も簡単に取ってしまう女。
食事の予約も、ホテルの予約も、全部彼女が一人でやった。
自分はただ、時間と場所を告げられただけ。
「ちょっとさ。聞いてもいい」
絶景とも呼べる、ネオン溢れる都会の夜の街を、ずっと窓辺に佇み眺めている彼女に声をかけた。
振り向くこともなく、何、とだけ声がする。
聞いてもいいかと言いながら、次の言葉を発しなかったからだろうか。彼女は、かなり経ってから振り返った。
「何」
改めて、同じ科白を自分に向けられた。
聞きたいことは山のようにある気がする。
でも、何一つ聞くことはできなかった。
「沙柚」
彼女を見たまま、彼女はこちらを見たまま、長い時が流れていった。そして自分の口が漸く紡いだのは、彼女の名前だった――。
Ⅱ
沢田凪が沙柚に会ったのは、今からもう三年前のことになる。
寒い冬の夜。
行きつけの飲み屋へ行った時、その扉の脇に立っていたのが沙柚だった。
誰かと待ち合わせかと思ったので、そのまま彼女を残し店に入った。
少し暗い照明と、ジャズの流れている店だった。たまたま見つけた店の常連になったのは、マスターの人柄だろう。穏やかな人で飲んでいても邪魔をせず、でも時折会話をかわし、そして旨い肴を出してくれる。
店内に入って、殆んど定位置といってもいいくらいのカウンター席に座ると、窓越しに彼女が見えた。
特に気にしたわけではなかった。そう思っていた。ただ視線を、時折彼女に向け捜していたらしい。
気になりますか、と言われて初めて、自分の行動をマスターに気付かされた
「僕も気になってるんですけれどね。でも僕が声をかけたら店に誘っているようなもんでしょ」
彼はそう言って、グラスを拭いていた。
きっと、それで終わる話だった、その次の言葉を聞かなければ。
「開店時間からずっといるんですよね。もっと前かな。かれこれ三時間ですよ。今夜は冷えるから、そろそろ帰ってもいいのに」
気付いたら、凪は彼女の腕を掴んで店の中に連れてきていた。
三時間という時間は、彼女の全てを、まるで氷像であるかのように凍らせていた――。
Ⅲ
今夜。彼女は、紅の和服姿でホテルの窓際に立っている。
「はい」
名前を呼んだ。だから返事をしたんだろう。それだけだ。
「沙柚って、結婚してるよね。イブに俺となんか一緒にいていいの」
薬指の指輪は、三年前から外されたところを見たことはない。
「自分のこと。なんかって言う凪は嫌い」
その赤い唇が、漸く凪の名を呼んだ。ただ問いの答えになってはいなかったけど。
多分同じくらいか、少し年上の沙柚。
「沙柚って、もしかして凄いとこの社長の奥さんとか言うのかな」
凪は、動きそうもない沙柚のところへ近付きながら話し続ける。何かを言っていないと夢のような気がしてしまうから。
「沙柚の今夜の予定は」
細い体に和服の布地が新鮮だった。そのくせ髪はいつも自分でするようにまとめてあるだけで、髪飾りひとつ付けてない。
「ずっと凪といるよ」
そう、と首筋に息だけで答えた。
首をすくめても、着物だと首は丸見えだった。そのくらいの身長差だ。
「着物着てるってことは、脱ぐ気がないってことか」
何故、そんなことを言ったのか。凪自身、分からなかった。彼女とは友だちだ。
ホテルを取ったと言われて、勝手に勘違いをした自分の浅墓さを気付かれたくないと思ったか。
いつのまにか、恋に落ちていただけだ。
沙柚にそれを告げたことはなかった。それとなく分かっていてくれる気がしてた。そして彼女も憎からず想っていてくれると信じていた。
偶然でしか会えない女から、連絡を取れる女になるまで二年かかった。マスターの店以外で会うまでに、更に半年かかった。
三年経って、漸くあの出逢いの日がクリスマスイブだったことを思い出した。
Ⅳ
抱き締めていると顔が見えない。
凪は、沙柚から少し離れて顔を覗き込む。
「凪の今夜の予定は?」
「沙柚と一緒にいるよ」
そう言うと、よかったと凪の胸に顔を埋めてきた。香水でもないのに、沙柚の匂いがふわりと薫った。
暫くしてルームサービスでいろいろなものを注文し、テーブルは飲み物と食べ物でいっぱいになった。
「おなかすいたでしょ。食べよう」
そう言うと沙柚は、ワインの瓶を凪に向ける。黙ってグラスを差し出すと、傾けていたグラスの半分が赤ワインで染まった。
どちらからということもなく、乾杯とグラスを空ける。
確かに早めの夕食から時間も過ぎて、小腹がすいていたらしい。
何となく手が伸びる様々な料理は、どれもとても美味しかった。
「もしかして、誰か別の人との約束がキャンセルになったとか」
意地悪だな、と思いつつも酔いが言葉を重ねてゆく。
「それとも、俺が帰ったら本命が来るの」
向かいに座って静かにグラスを傾ける沙柚の顔色が、一瞬変わった。
「え、マジ?」
「そうだと言ったら、凪は帰るの」
射抜かれるような視線は、酔いを一気に醒ました。
「ごめん。俺は」
そこで言葉につまった。
本当は、何を望んでいる。
何故今夜、二人はここにいるんだ。
「俺は、帰らない」
言い切った凪に、沙柚は静かに微笑んだ。
「私も、凪を帰さない」
Ⅴ
少し酔った、と沙柚が再び席を立ち、窓辺に近付きよりかかった。
窓のカーテンをあけ、頬をつけると冷気が体の酔いを落ち着かせてくれるらしい。
そして、静かに彼女は語り始めた。
「三年前の今日。私は親に売られたの。会ったこともない人と戸籍だけで結婚して、お金だけは湯水のように与えられた。でも嫁ぎ先と連れて行かれた家には、人の気配も温度もなかった」
沙柚は我慢ができなくて家を飛び出したのだと。
そして行く当てもないままに、あの店の前に辿り着いた。
「疲れて、ただもう歩きたくなくて留まっていたの」
あの時の、彼女の顔が思い出される。
「あの時、凪が声をかけてくれなかったら、きっと私は今、生きてはいないわ」
「離婚してもいいと言われたのは十日前のことだった」
当主の余命が幾ばくもないと知った親族が、遺産のことを考えて沙柚を追い出すことにしたのだという。
「結局、私の実家は立ち直ったけれど帰りたくない。追い出された以上、戻るところもない。ただ一度だけでいいから、凪とずっと一緒にいたかったの」
そう言い終わると、沙柚は着物の紐を解き始めた。
一本、また一本と、解きながら帯が床に落ち、やがて着物にも手をかけ下に落とす。紅の着物が落ちたら、薄いピンクの何かが生まれたように凪には映った。
「待って」
凪は思わず、止めた。
「どうして?」
足袋を脱ぎ捨て、裸足になったところで彼女は漸く手を止めた。
「そこじゃ、外から丸見えだよ」
いくら最上階のスィートとはいえ、同じような高級ホテルは高さが同じだろう。誰に見られているか、分かったもんじゃない。
そう言ってやると、沙柚は珍しく声を出して笑った――。
Ⅵ
「あ」
凪の驚いたようなその声に、沙柚が不思議そうな顔をみせる。
「何」
凪は、顎で外を示す。
振り返り窓に向いた沙柚は薄いピンクの下着姿のままだ。その背中越しに、ふわふわと落ちる白いものが在った。
まるで落ちてゆくことを拒むように、右に左に少しずつ動きながらそれでもやっぱり落ちてゆく。
「雪…」
沙柚が呟いた。
「ぼたん雪だな」
寒そうに見える彼女を、背中から抱き締めた。
ベッド行こうか。
そう言うつもりで、やめた。彼女が納得するまで雪を見ていればいい。
今夜は、ずっと一緒だから。
「凪」
「ん?」
「ありがとう」
雪は、凪が降らせたわけじゃない。そう言っても、沙柚は凪がいたから雪も降ったのだと言ってきかなかった。
もう暫くすると、うっすらと屋根が白くなるだろうか。
それとも融けて消えてしまうだろうか。
そんなことを考えていると、沙柚がくすくすと笑い出した。
再び、何だろうと聞いてみる。
「明日の朝になれば、分かるよ」
一瞬、言葉の意味は分からなかった。
あ。
積もっているのか、いないのか。
「明日の朝。一緒に見ような」
「うん」
彼女は振りかえることなく、そう答えた――。
Ⅶ
翌朝。
凪は先に起きていた沙柚を、ベッドから寝惚け眼で眺めていた。
カーテンを開け放つと、そこには真白に染まった街が見えた。
銀世界と化した都会は、いつもの現実から目をそらしそのまま夢の世界が続くように綺麗だった。
凪はその時、その隠された銀世界に、決して忘れてはならない言葉を置き去りにしてしまった。そのことに気付いたのは、この朝の別れから十日ほど経った夜のことだった。
いつものように、
《今夜時間が取れた。飲もう》
という短いメールを送信する。
しかし直後、エラーというメールが返信されてきてしまう。どういうことかと電話をかけた。
沙柚の携帯番号からは『使われていない』というメッセージが流れてくるだけだった。
あの夜。彼女は何を告げた。
凪は、必死に思い出そうと努め、そして辛うじて思い出す。
『戻るところはない』と、彼女はそう言っていた。そして、『一度でいいから、凪とずっと一緒にいたかった』と。
凪は、その言葉の意味に漸く気付いた。
沙柚は、自分の前から姿を消す覚悟を決めて、あの夜の時間を作ったのだということに。
愚かな自分。
何も気付いてやれなかった、情けない自分。
彼女の消息を知ることは、もう永遠にないかもしれない。
何故なら、凪は何も知らなかったから。名前と、携帯があれば繋がっていると信じてた。
そんなことある筈ないのに。こうして解約されてしまっては、携帯など何の保証もない、ただの機械でしかない。
消されることのない、沙柚の携帯のアドレスと番号を、凪は時々開いてみる。
かけることのない番号。送ることのないメールは保存フォルダーを埋めた。
あれから、雪が降ると思い出す。そして思うのだった。
あの日、あの雪を降らせたのは、もしかしたら沙柚の気持ちだったのかもしれないと――。
【了】 著 作:紫 草
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*サークル投稿用
HP『孤悲物語り』内shortにて、UP中。
http://kohimonogatari.web.fc2.com/short/dare.html