III.Ever lasting lie
夏休みに入って4日目、何もしないことに体がぼちぼち慣れてきたころ。夜8時、メール着信。
『明日会えない?』
相手は、氏原。
『いきなりだな。まあ、大丈夫だよ。じゃあ、何時にどこで?』
もちろんだが、四六時中暇を持てあましている今の僕は肯定以外の返答を持ち合わせていない。暇じゃなくても、同じ返事をしただろうが。
『朝9時に、学校の時計台の前で会おう?』
『わかった』
覚悟だけは決めていたし、別に普通の精神状態でいられるような状況でもないので、こんなそっけない返事になってしまう。
ちなみに時計台とは、僕の通っていた小学校の名物にもなっている代物で、上部を斜めに切った細長い紫色がかった直方体で、4方向それぞれに時計の文字盤がついている。そして内側は空洞になっていて、卒業生が記念の落書きをしたり、相合い傘をかいたりしてぐちゃぐちゃになっていたのを覚えている。
低学年の頃は、あそこからチャイムが鳴っているんだと思っていたりもした。
そんなことを思い出しながら、今日は早めに布団に入った。
明日寝坊したらシャレにならないしな。
でもそんな心配は杞憂に終わり、朝6時には起きてしまった。あまり緊張していたつもりはないのだが、布団に入ってしばらくは眠れなかったし、眠りも浅かったように思う。
普段学校があるときでさえ見もしない時間帯の朝の情報番組を、特にすることもなく眺める。
僕と同い年の男が、喧嘩の末にナイフで2人殺したらしい。
ふたつ年上の女の人が小説で賞を取ったとかで、特集が組まれていた。
今週のCDアルバムランキングの3位に入ったのは、中学生の2人組だそうだ。
自分の存在の小ささを改めてテレビに教えられて、少しブルーになる。
今日の牡牛座は9位で、“ムダづかいに注意”らしい。
8時になって、見ていた番組が終わった。そろそろ朝食をとることにする。
母親はまだ起きている風はないが、妹はもう起きていて、何やら本を読んでいる。その妹の分までフレンチトーストを作って、食卓に並べた。
「朝ごはんできたぞ」
「もうみいちゃんパン食べたよ」
マジかよ、ムダづかいってこれか?などと思ったが、まあ妹の分だけだし食べられない量でもない。少し苦戦しながらも15分ほどで食べ終えて、身支度をする。Tシャツを着て、少し暑いとは思ったがGパンをはく。洗面台に向かったが、大した寝癖はなかったので、歯磨きだけしてもう一度部屋に戻る。腕時計をつけて、財布を持って、携帯をポケットに押し込む。物を入れるにはGパンのポケットは少し小さくて、それから靴下をはくのに動きにくくて苦しんだ。
まあそんないろいろで、準備完了。そのうち帰るっていっといて、とだけ妹には告げておく。
出発前にもう一度だけ鏡を覗くと、向こう側の僕は少し眠たげな目をしていた。コーヒーでも飲んでいこうか、と思ったが、やめた。いざ会えば眠気も何もないだろうし、途中でトイレにはできるだけ行きたくない。
8時55分に学校に着くと、氏原はもう時計台の下にいた。
「おはよっ」
「お、おはよう」
氏原もTシャツとGパンという格好だ。なのに、僕とのこの輝きの違いはなんだろう。
「ごめんね、朝から。なんか眠そうだよ?」
「いや、大丈夫」
「うん、ありがと。私、午後から用があるんだ」
「へー」
「どうしてそんな日に、なんて聞かないの?」
「聞いた方がいい?」
「聞きたくないんならいいよ」
すねたような口調でそんなことを言う氏原。ちょっとかわいい。
別に遊びに行くわけでもなさそうだし、1日あったって困るだけだろう。
そこからはなんとなく2人で、時計台の下に座って他愛もない話をした。
誰がどこの高校に進んで、誰と誰がくっついて、誰がこんなことをやらかしている。
独りで中学受験なんてした僕には知らないことばかりだった。
そして、そこから話の中身はだんだん昔のことに移っていく。主たる内容は、もちろん2人過ごした6年3組時代のこと。
授業がぬるくてよかった。宿題なんて無いに等しかった。担任の先生ひとりがほぼ全時間授業してたなんて信じられない。でも先生は優しかった。過去は肯定美化されて輝きを増すものだけど、余計な輝きをかき分けて2人で見つけたできるだけ本物の思い出も、やっぱり綺麗だったように思える。
でも、僕らのその担任の先生は、もうすでに別の小学校に移っている。
そんなこんなで日差しが強くなってきた。時計を見ると、11時を過ぎている。
「さてっ」
その時計を見るしぐさを目にしてか、氏原は話を区切るかのように少し大きな声で言った。
「帰るの?」
「そんな訳ないじゃない。こんなおしゃべりだけしに来たんじゃないんだから……じゃあ」
「じゃあ?」
「せっかくこうやって直接会ったんだし、告白でもしてください。あー、憧れだったんだ、告白されるのって」
「えーっ、なんだよその言い方」
「だって、まだしてもらってないでしょ。ほらほら、私まだ、好きって言ってもらってないよ?」
本人はお見通しなんだな、なにもかも。
「……なんて言うんだぜ?どう思うよ?」
「正論じゃないの」
「いや……でもほら、くんでよ!そのへん!って思うんだけど」
「それで?どうしたの」
「言ったよ。『好きです、付き合ってください』って」
「よろしい」
その改めての告白のあと、僕と氏原とはすぐに学校を出て、家に帰った。
「で、返事はどうなったのよ」
「もらえなかった。いちおう、次は来週の火曜に会う予定」
「へえ、ちょっと遠いのね」
「まあ休みは長いんだし、別にいいだろ」
そして今は、松本に電話をして本日の報告をさせていただいている次第である。
「ふーん。まあがんばりなさい。あとはホントに、あんた次第だよ?」
「わかった、ありがとう」
「私への報告も怠らないこと。それじゃね」
「あーい」
なんというか、松本ってこんなにちゃきちゃきした感じだったっけか。
しかも、あんたなんて松本に言われたのは初めてだ。
それに気付けたということは、僕にもまだ余裕があるということなのだろうか。
時刻は2時過ぎ。
差し込む日の光を遮るために、南側の窓のカーテンを閉める。薄暗くはなるが、気持ちは涼しくなる。なんとなく、だけど。
ベッドに寝ころんで、氏原のことを思い浮かべる。
ついこの前にメールをしたときは、今更好きだなんて言えるわけないと思っていた。
そう思うと、好きだったはずのあの頃の自分さえ疑えてきた。
でも、今は違う。
今の僕は、
今の氏原の白い肌が、澄んだ声が、長い髪が。
昔から変わっていないところも、時が経ち少し大人になってしまった部分も。
それらを全部ひっくるめた今の氏原が、
今、とんでもなく好きだ。
胸を張って、そう言える。
◆
次の火曜までなんてすぐだった。前回と同じように時計台の下で氏原と会った。今日も氏原が先に来ていた。僕が少し、遅刻気味だったというのもあるのだが、それについて氏原は何も言わなかった。
特にすることもなく困っていたが、その辺回ってみる?という氏原の一言で、思い出の地巡りが始まった。
小学生の頃に2人でどこかに行ったりしたわけではないから、その表現はどうだかだが。
まずは、ゲームセンター“キング”。ゲームセンターというよりパチンコ屋みたいなネーミングだと、昔から思っている。
もともとあまり綺麗な感じではなかったが、拍車がかかって寂れた感じだ。夏休みだというのに、ほとんど人がいない。まあ、今は10時で開店直後というのもあるかもしれない。妹がもらってきた生活指導のプリントによると、夕方以降不良が多くなるので、子供だけでの出入りは小学校側が禁止しているようだ。そういう事情も、あるのだろう。
「ガラガラだ」
「……なんか、さみしくなるね」
素直な感想を漏らしながら、中をぐるぐる回る。
結局一番奥のほうに、無駄にゴテゴテしたエアーホッケーの機械を見つけて、それで遊ぶことにした。
「これって前からあるっけ?」
「いや、俺あんまり来なかったからわかんない」
そんな会話をしながら、僕は財布から100円を入れる。
「お金出してくれたからって、手加減はしないからね」
半袖のくせに腕まくりをする真似をして、氏原はそんなことを言う。
「なんだよそれ」
かちゃり、と僕の側のポケットにパックが落ちてきて、試合開始。
手加減どころではなく、氏原は強かった。
こっちも本気だったのだがかなり苦しんで、なんとか勝ったが1点差だった。
「あちゃー、負けちゃったあ」
「へへへ……てかなんでコレ15点マッチなんだよ…そーとーつかれた」
「サービスじゃない?あーあー、文化部のくせに頑張りすぎちゃって」
「手加減するなって、言ったくせに」
クーラーの効きも悪くて、室内なのに僕は汗だくになった。結局それ以上何をする気にもなれなかったので、外に出てしまった。外は日差しがすごくて、やっぱり暑かった。
まだへえへえ言いながら汗を拭いていると、氏原がスポーツドリンクの缶を2本持ってやってきた。その片方を僕の額に黙って当てる。冷たくて気持ちいい。
「おごりよおごり。いくらなんでも、バーテーすーぎ」
「うるせー」
500ミリの大きな缶だったが、すぐに空にしてしまった。氏原と過ごす楽しい雰囲気とともに、体に染みこんでいく気がした。
その割には、腹がちゃぽんちゃぽん言っていたが、まあ気にしない。
それから氏原がよく遠足のお菓子を買いに行っていたという駄菓子屋“まつ”に行ったあと、これまた寂れた映画館“シネマセブン”に行って、聞いたこともないし中身もタイトルからじゃ想像すらできないようなC級の短篇を、他に誰もいなかったので指を差して変なところをあら探ししながら見た。すっかりテンションも上がって出てきたが、入り口の所に9月に閉館する旨の貼り紙を見つけて、二人してしんみりとしてしまった。
「なくなっちゃうのかー」
「よく来てたの?」
「2回ぐらいだけどさ」
「私と一緒じゃん」
へへ、と2人で力なく笑って、歩き始める。行くあては、特にない。
やがて、何もないような道に入ってきてしまった。しかし、氏原はなぜか嬉しそうに言った。
「あれ、この作業所、やってるー」
「どしたの?」
「いや、昔はここ閉まっててさ、よく入り込んで遊んだんだって。3年生だったかな?武井たちの一味と一緒に。でも、なずなちゃんがちょっとケガしてそれがバレて、みんなですごく怒られて、それから来なくなっちゃったの」
何もないところのほうが、ガキの思い出なんてあるのかもしれないな。
近くにベンチがあったので、そこに座ってしばらく何やら溶接している所を眺めていたが、5分ほどした頃だろうか、氏原はぽつりと言った。
「私、帰るね」
何気なさに不意をつかれた。
「え、あ、うん」
もごもごとしている間に、氏原はぴょこんと立ち上がり、お尻をぱたぱたとはたく。
「じゃっ」
「待って。……えーと、あの」
「あ、ごめん。返事は、次会ったときにする。いつがいいかな」
「いつでもいいよ」
「じゃあ、あさって。時間と場所は、また同じで」
「わかった」
「またね」
「うん」
氏原の背中を見送って、僕も家のほうへと歩く。
時計を見ると、1時半。駄菓子とジュースじゃ、さすがにお腹がすいた。
「まったく。そんなの立派なデートじゃない。やーい、デート、デート」
「うるせーな」
「小学生みたいだけどね。……まあ、もっと素直に喜びなさいよ。もうほとんどOKよ?」
「結果が出るまでは無理だよ、そんなの」
家に帰ってインスタントラーメンを作って食べた後、食器を片付ける前に松本に電話をかけた。
「うん、もう。ていうか、何よそのデート。9時に会って1時半までって、聞いたことない」
「俺もよくわかんねえよ」
「で、次はあさってなわけね」
「そうだよ。あー、ドキドキする、今から」
「大丈夫だって言ってるでしょ。もし万が一ダメだとしても、女のコは自分のこと好きって言ってくれた男のコのことは死んでも忘れないんだから」
そんなものなのかな。
「それ、フォローになってない」
自分一人で考えても煮詰まってぐちゃぐちゃになるだけなので、こうして相談できる相手がいるのは助かる。松本の本性が少しずつ見えてきているのはどうかと思うが。
「とにかく、大丈夫なの」
「わかったって。ありがとう」
「うん。また、よろしくね」
「ほいほい」
「じゃあねー」
それからふた晩、眠れない夜が続いた。
ここまでの休みで、マンガも本もあらかた読み尽くしてしまっていたので、宿題が大幅に進んだ。
それもこれも何もかもすべて、氏原がいてくれたおかげということにしておく。
◆
「今日は、海に行かない?」
3度目になる時計台の下で、氏原は開口一番、そう言った。
今日、結果が出ると一応判っているわけだから余計に眠れなくて、結局暇になって8時半には来てしまっていた。ポータブルMDを氏原が来るまでの一応の暇つぶしとして持ってきていたのだが、それも無駄になった。驚いたことに氏原は、今日も僕より早く来ていた。
少し悪いことをしたかなあ、とは思ったけど、氏原は何も言ってこないし、9時と指定したのも氏原だ。
余計な気は遣うのも遣われるのも疲れる。この際、無視だ。
「えー、でも準備とかは」
「大丈夫。泳げるような所じゃないし、砂浜ですらないから」
「どっかあてがあるの?」
「あるある。知ってるところだから」
「ならいいけど」
「じゃ、駅、行こう」
いつも使う正門とは反対側に位置する西門から学校を出て、田んぼの間の細い道を通り抜け、駅に向かう。駅に着いて、貼り紙をぼうっと眺めていると、氏原はもう切符を買っていた。
「星ヶ浜公園前までね」
「そこって名前の割に海から遠いんで有名じゃなかった?」
「こっちでいいの」
無人駅はベンチも看板もぼろぼろで、無機質で新しい券売機がその中で妙に不釣り合いに思われた。
僕のぶんの切符を券売機が吐き出した頃、3両編成の電車がやってきた。
一番後ろの車両の右手側、真ん中の椅子の向かって右寄りに、ふたり並んで座る。車両には他に1人しか乗っていない。前の2両を合わせても、10人と乗っていないだろう。市内中心部とは逆向きで、朝の中途半端な時間だとはいっても、少なすぎやしないだろうか。この辺は、僕らが思っているよりも、ずっとイナカなのかもしれない。
そういえば、氏原とこうして2人であって色々やったが、人の多い所には一度として行っていない。今日もきっとそうなんだろう。少し、避けているようにも思える。
単なる偶然だろうか。
それとも、僕といるところを誰かに見られたくないのだろうか。
そうだとしたら、それは恥ずかしいからなのだろうか。
それとも……
そんなことを考えて短いため息をつく僕に氏原は独り言のように言う。
「手でもつなぐ、かな」
横を見るが、氏原は氏原で目を逸らして窓の向こうを見ている。
口をほんの少し尖らせて、もともと赤みが差している頬もいつもより少し、赤い。
恥ずかしいだけなんだろう、な。
ごちゃごちゃした心をそうやって黙らせて、座席に置かれた氏原の左手に、そっと僕の右手を重ねる。
本当にすべてが、夢のようだった。
「なんか汗ばんでる。黒木が下にして」
そこそこのリアリティもあった。
4つ手前の駅で家族連れが乗り込んできたので、どちらからともなく僕らは手をしまった。ほとんど言葉は交わさなかった。
その家族連れは僕らの降りるひとつ前の駅で降りた。荷物も多かったし、どこかへ遊びに行くのだろう。
次の駅まではすぐだったが、僕らはもう一度、手と手を重ねた。
駅に着いて降りる頃にはまた、離れてしまったけれど。
降りてすぐの所からずっとカラーブロックの道が続いていて、その道の先が見晴らし台のようになっていた。
本当に海がよく見えたし、店などは周りになかったけど、まさしく穴場といった感じだった。
たくさんいた鳥を軽く追い払って、ベンチに座る。また手を重ねる心の準備を、一応していた。一応。
が、その準備は予想だにしない方向に無駄になった。
だって、氏原は僕にぴったりくっついて座ったから。
氏原は僕に軽く体重を預けて、黙って海を見ている。そんな氏原を少し窺いながらも、僕も海を見る。
キレイだ。何がって、どっちも。
何を思ってここに連れてきたのか、ここで何がしたいのか。氏原の考えも気持ちも、よく判らない。
たとえこうやってくっついていても、エスパーじゃないからちっとも読めない。
でもそういうのも、なんだかいい気がした。
しばらくの間、僕らはそうしていた。多分、20分ほど。
そろそろ気が済んだのか、すすっ、と氏原が僕のそばから離れる。
「ごめん」
「謝ることないよ」
半端な長さの沈黙の後、氏原は話を始めた。
これまで聞くことのなかった、氏原自身の過去の話。
「私ね、昔このあたりに住んでたの」
「へえ、いつ引っ越したの」
「2年の頃。覚えてない?」
「……ちょっと」
「まあ、ああ、うん。で、ここは思い出の場所なんだ」
氏原はそう言って笑顔を見せる。これまで見てきたニコッとした笑顔ではなく、何やらすがすがしい感じの笑顔だった。
「どんな?聞かせて」
「大したことじゃないの。お父さんやお母さんに叱られたら、ここに来てたの。大声出したり、黙って泣いたり。ここ人、来ないし」
「昔からこういう場所だったんだ」
「ん……で、ずっと暗くなるまでここにいたりしてた。だいたいお父さんやお母さんが迎えに来てたけど」
「ふうん」
そういえば僕らがここに来てからずっと、人影は見ていない。もっとも、ずっと海を見ていたというのもあるかもしれないが。
「でも何度も何度も叱られて、何度も何度もそうやってたから、愛想尽かされちゃって。途中から、お兄ちゃんが迎えに来る係になった」
「おてんばだったんだ」
「うるさいわねえ……フフ。で、いつもは迎えに来られたらすぐ帰ってたんだけど、一度だけなかなか帰らなかった時があって。特にひどく叱られたんだったっけなあ。原因なんて、覚えてないけど」
「そんなもんだよね」
「そのとき、お兄ちゃんが泣いてる私の隣に座ったの。それで、私は…さっきみたいにずっとお兄ちゃんにもたれて、ずっと泣いてた。ずっと、ずっと、結局お母さんが迎えに来るまで。お兄ちゃんは、何も言わずに座っててくれた。本当に、嬉しかったし、安心したの、覚えてる」
「やさしいんだね」
僕がそうとだけいうと、氏原はさっきとはまた違う、優しい感じの笑みを零した。
「ねえ、ちょっと泣いていい?」
――氏原はいたずらっぽくそう言うと、隣に座ったまままた少し近付いて、僕の肩に両手を回した。僕の肩から首にかけてを横から抱き、額を僕の肩につけてもたれかかる格好になった。
「いいよ、思う存分泣けよ」
冗談のつもりだったのに、本当に氏原は泣き出した。子供みたいな泣き方だった。
顔は左の肩に乗せてうつむいている状態なので、顔はよく見えない。でも、ぼろぼろと零れ落ちる大粒の涙は、確実に僕のTシャツとGパンを濡らしていた。
それからまたしばらく。30分もはなかったとは思うが、きっとそのくらいの時間がたった。あまり長くは、感じなかった。
氏原と、本当に一瞬だけど、ひとつになれた気がして、氏原のすべてが受け入れられる気がした。
「ごめん、返事、帰ってからする」
たとえどんな答えを、氏原が出したとしても。
帰りの電車でも、僕らは手と手を重ねていた。
行きと違っていたのは、僕の手が上だったこと、汗ばんでいても氏原が文句を言わなかったこと、そして、周りに人が増えても、そのまま重ね続けたこと。
もともと僕は、こういうのはバカらしいと思っていたはずなのに。
それでも駅に着いて電車を降りると、また手を離した。
程なくして、時計台の下に着く。
運命の時が、やってきた。
時計台のたもと、右と左の端に、高校生の男女がふたり。
お天道様はどんな目で見ているだろうか。
「返事……、するね?」
切り出したのは、向こう。
「待って」
「なに?」
「もう一度、告白させてくれ」
氏原は黙っている。構わず、続ける。
「僕は、氏原美由さん、あなたのことが好きです」
氏原が顔を上げて、僕の目を見る。
「今のあなたも、昔のあなたも、そしてきっとこれからのあなたも、すべて」
小学校の頃は同じくらいだった背丈は、今では僕のほうがずっと高くなって、少し見上げる格好になっている。
「僕と、付き合ってください」
やれるだけのことはやった。自分でも判る、やりすぎだ。
でも、後悔はない。妙に心は軽いまま、返事を待つ。
「ありがとう。私、とてもうれしいです」
そう言って一瞬また目を逸らして、また戻す。
「私も黒木くんのことが好きです」
ゆっくりと、ゆっくりと、絞り出すように言う。
「誰よりも黒木くんのことが好きです」
「じゃあ……」
黙っていればいいものを、急かしてしまう。
「でも、付き合うことは、できません」
「えっ……」
「理由は聞かないで。でもとにかく、付き合うことは、できないの。私は、私は本当に好きなの。でも、でも……」
「もういいよ、わかった」
目頭を押さえながら、そう言ってやる。氏原も、泣きそうな顔をしている。
海でのあの気持ちは嘘じゃない。氏原のすべてが、今の僕のすべてだ。
何だって受け入れてやろう、信じてやろうじゃないか。
信じたくなんて、ないけどな。
「ごめん、ごめん……」
もう何も聞くまい。
「わかったって。あー、俺、泣きそう」
「あたし、涙、枯れちゃってる」
2人でしばらく泣き笑いして、いくつか言葉のやりとりをしたあと、手を振って、別れる。
あの卒業式の日と違うのは、2人ともあのときより少しは、さよならの意味が判っていたということ、だろうか。
気がつくと家にいた。思ったよりも冷静だった僕は、まず松本に報告しようと携帯を取り出したが、やめた。
なぜかそうしなければいけないような気がして、岩城に報告することにした。
『ちょっと、今から電話かけていいか?』
直後、向こうから電話がかかってきた。
「やっほー。どうした?」
「うん、まあ、ちょっと」
いつも通りなのだろう、岩城の明るい声に、少し自分を取り戻した。
「どーしたのよ。言いなさいよお」
「俺、氏原にフラれたよ」
「え……」
「おい、なんとか言えよ」
「……」
「せめて何か言ってくれよ。参るだろ?」
「……正気?」
岩城の声色が、ガラッと変わる。ただならぬ雰囲気を感じた。
「あ、ああ、正気だけど」
「氏原って、美由のことだよね?」
「そうだよ。他に誰がいるんだよ」
「よく聞いて。美由は病気で死んだのよ。6月の、半ばに」
冗談だとしか思えなかった。
それからは岩城に、丁寧に丁寧に、これまでのいきさつを話した。岩城は真剣に聞いてくれたし、僕ももちろん、真剣だった。
話し終わる頃には僕は泣いてしまっていて、やがて何も言えなくなった。
「わかった。あたし、アンタのこと信じるよ」
言葉を発しない僕に岩城はさらに、優しく続ける。
「美由が死んだこと、あたしも信じられなくて、お葬式とか、行かなかったんだ。明日、美由んち行こう?もう1回だけ、美由に会おう?」
「ああ、そうしよう。明日、お前んち行くから」
「学校のほうが近いよ。そうする?」
「そう、しようかな」
「じゃああたし、美由のお父さんかお母さんに電話、しとくから。ダメだったらまた連絡するけど、多分大丈夫だと思う。なんとなく、だけど」
「俺も大丈夫な気がする」
「へへ。そうだね。じゃあ、また明日ね」
「うん」
「切るよ?」
「うん」
ためらいがちに電話が切られた、その後のツーツー音を聞きながら、最後に見た氏原の顔を思い出す。別れ際、確か氏原は「また、どこかで会えたらいいね」、そう言った気がする。その時はたしか、バカなこと言うなだとか、近くに住んでるんだからだとか、友達だろう、だとか言った気がする。
あんな風に言った氏原の、その言葉の意味が、今はっきりと、判った。
「嘘つき」
そう独りでつぶやいて、また少し泣く。
結局岩城から連絡が来ることは、なかった。
翌日、僕と岩城は学校に集まり、予定通り氏原の家を訪ねた。
氏原のお父さんもお母さんも、温かく迎えてくれた。
僕の涙も枯れてしまっていたのか、意外にも遺影を見ても平気で、素直に手を合わせられた。
今を生きているという事実に身を委ねて日々を過ごしていた僕だけど、いつか来る死まで含めて、生命の尊さを感じた。
岩城が泣いていたのは意外だった。でも、予想はしていた。
死の前に人は無力で、でも人は、他人の死を悼まずにはいられない。
帰りがけ、門を出て行くときに、ふと表札が目に入った。氏原が死んでからも、そのままになっているようだ。
『氏原 淳 / 美里 / 美由』
本当に嘘つきなんだな、あいつは。
お兄ちゃんなんて、いないんじゃねえか。
そう思うと、枯れていたはずの涙があふれてきた。なぜ僕はこんなに、どうしようもないのだろう。
そんな僕を慰めるでもなく、もうすでに泣き止んだ岩城は、一緒に歩いてくれた。
学校に着いて、別れるだんになったとき、岩城は初めて口を開いた。
「あたし、もうひとつだけ、黙ってたことがあるんだ」
返事さえできない僕に、氏原はそのまま続ける。
「美由とアンタ、両想いだったんだよ、昔から。美由も彼氏、つくったことなかったらしいし。知ってたの、多分あたしだけ。……なんというか、奇跡って、あるのね」
涙が、止まる。
『奇跡』。
家に帰り着くまでずっと、その言葉の響きを噛みしめていた。
◆
例年に違わず、それからの夏休みは短かった。
夏休みが明けるとすぐ、文化祭の準備が始まる。
「ねーねー、どうなったのー?結局、あれから連絡してこなかったじゃん」
松本は聞いてくるけど、なんだか今は話す気になれない。当たり前っちゃあ、当たり前なのかもしれない。
「気が向いたら話すよ」
忙しさにかこつけて、なんとかごまかしてきている。
今年の文化祭も、去年と同様に液体窒素の実験をすることになった。
実演するのは、部長だ。助手には初めて松本がつく。
「さあこちらは液体の窒素。摂氏マイナス196度の代物です」
部長は前回の公開実験で味をしめたみたいで、少し調子づいているようだ。
まあ、いいけど。
「黒木くん、ポスター貼ってきてよ」
実験室での松本は、まだ僕を“くん”付けにする。なんだかよくわからない。
でも、それもどっちでもいいかな。
夏休みのあの出来事以来、僕は少し気が抜けてしまった。明日はもう文化祭なのに。
今回の役回りは雑用。自分から希望した。一応、助手もやるけど。
廊下の窓にポスターを貼りながら、外の空を見上げる。
もう結構遅い時間になった。夕焼けが綺麗だ。明日はきっと、晴れるだろう。
今年は宣伝のCMを出したり、日取りもよかったりして、かなりの人出が見込めるんじゃないか、と実行委員の奴は言っていた。
何だっていいよ。
少し皆のテンションに乗り遅れたまま、文化祭を迎えた。
文化祭当日、12時半。2度目の実験の途中。
いざ文化祭が始まってしまうと、忙しくて氏原のことなんて考えている暇はなかった、はずだったのに。
僕は実験室の後ろのドアから中を窺うその人影に気がついた。
教壇の上から目が合ったその人影は、目を逸らして逃げたけど。
「ちょっと代わってくれ。人生でいちばん大事な、野暮用ができた」
すっと準備室に戻って、佐上にそう声をかけて、白衣を渡して。
捜さないわけには、いかなかった。
すぐに逃げたほうに飛び出したけど、姿はもう見当たらなかった。
でも、あきらめない。あきらめられない。
人混みをかき分けて、校舎中を走る。あてなんてない。でも、走る。
校舎から出られたら、学校から出られたら、本当におしまいなんだろうな。
そんなバカなことを、でも本当のことを考えながら、無我夢中で走った。
気がつくと、放送室の前にいた。
迷子放送の受付をしている、中学生の放送委員に声をかけた。
息を切らしている先輩を見て、この子は何を思うのだろうか。
「この学校の人じゃないんだけど、呼んでもらえるよね?」
「はい、大丈夫ですけど。ここに呼びたい方の名前を書いてください」
世界で一番好きな人の名前を、手渡された紙に書き付ける。ふりがなも、つけておく。
「どこに呼び出しますか?」
「ここに、よろしく」
僕の所に、なんて言えたらよかったんだけど、まあそれは冗談になっちゃうかな。
なぜかそんな余裕ある思考を巡らしていると、実験室に向かう廊下から松本が現れた。
「黒木くん?何があったの?」
「お前こそ。誰に任せて来たんだ?」
「部長なんか無視よ。中学生も他に居るんだし。それより何が…」
ピーン、ポーン、パーン、ポーン。
文化祭用なのだろう少し大きめなコールサインが、松本のその質問を断ち切った。そして、文化祭期間中よく耳にする放送委員の声が響き渡る。
『お呼び出しします。氏原、美由さん。うじはら、みゆさん。いらっしゃいましたら、今すぐ中央放送室前までおこしください』
その放送が終わるより早く、階段のほうから、氏原は現れた。
「おこししました」
「なんでまだこっちに居るんだよ」
「あちゃー、バレちゃってるか」
「まあ、な」
この世にいないはずの好きな人が、あの日と同じTシャツとGパンで、僕の目の前に立っている。
「また会えたら、なんて言っちゃったからね。嘘つきだなんて、思われたくなかったし」
足はある。体も別に普通で、向こう側が見えたりはしていない。でもどことなく、あの日と少し違う気がする。
「十分嘘つきじゃんよお。お前、お兄ちゃんとか」
僕のその言葉を遮るように、氏原は僕をそっと抱きしめた。
時計台のたもとで向き合った時より、きっと気のせいなのだろうが背が少し高い気がした。
「私のこと、まだ、好き?」
僕も、氏原の背中に、手を回して。
「いちおう」
「私も……でももう、会えないから。だから、ずっと好きでいてくれなんて、言えない。でも、忘れないでよ、私のこと。これからどんなことがあっても、どんな人と出会っても、どんな人を好きになっても。もちろん死んでも、ずっと」
「ああ、もちろんだよ」
また、泣けてきた。
「もう終わっちゃうんだね。本当に、ごめん」
そう言いながら、氏原は回した手をほどく。それに気付いてもう一度、僕は氏原をぎゅっと抱きしめるけど、またすぐに離してしまう。少し離れると、真っ赤な目をした氏原の顔が目に入った。
「何で謝るんだよお」
もう、涙が止まらない。
「ごめん、ごめんね。さよなら」
「さよならなんて……さよなら、とか……」
「情けないオトコは、キライになっちゃうよ?」
そう言って向こうを向いた氏原は、僕の届かない世界に向けて歩き出そうとする。もう触れることのできないその背中に、僕は言った。
「ありがとう、絶対に、忘れない。絶対」
泣き顔と赤い目が、一瞬こちらを向いて、また向こうを向く。
そのまま氏原は駆け出すように、人混みの中に消えていった。
ひとり目を閉じてうつむいて、大きく息を吸って、吐く。
しばらく僕はそこに突っ立っていた。でも。
「どういうことなんですか?どういう……」
「私もわかんないわよ」
校舎の中ではかなり端のほうに位置し、比較的ではあるが人が少なくて、静かなほうである放送室前に、聞きおぼえのあるふたつの声が聞こえる。
「あのー、黒木くん?黒木?」
状況が飲めないままでその声に応えて振り向くと、そこにはそういえば松本と、なぜか紺野さんまでが立っていた。
ついでに言うと、受付の中学生も鳩が豆鉄砲を食ったような顔で僕を見つめていた。




