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II.リトルブレイバー

 週が明けて火曜あたりから、公開実験に向けて少しずつ準備が始まった。

 僕は1台だけ置いてある旧式のノートパソコンで配布用のプリントを作っている。助手につく予定もないから、できることはこのくらいだ。あんまりカタい風にするととっつきにくいし、そのあたりはかなり気を遣う。部長は気が早くもう白衣なんか着て、助手の中2生と一緒に喋る練習なんてしている。もう1人助手をつける予定だったはずなのだが、どうなっているのだろうか。

「佐上来ないなー。呼んだのに」

「助手、佐上にするんですか」

「そうだよ」

 佐上は去年の今頃入部した中3生で、少しお調子者といった感じがある。本当に公開実験に出るのであれば、これが初めてになる。

「大丈夫ですかねー」

 そのとき、前側のドアが開いて、松本が顔を出した。

「佐上くん、教室にいるみたい。黒木くん、連れてきてよ」

「何で俺なの?」

「……なんとなく」

 まあ、高校生は幽霊部員を除くと部長と僕と松本しかいないし、部長の求心力のなさは折り紙付きだからその判断は正しい。

「わかったよ、行ってくる」

 そう言って、実験室を出る。廊下をしばらく歩いて、中3の教室に通じる階段を上る。去年1年間使った教室は、まだやっぱり懐かしい。

 佐上のクラスは中3b組。教室のドアを開けて少し中に入るが、そこには女子が2人しかいない。

「佐上って、このクラスだよね?」

「そう、ですけど」

 そういえばこいつは、この前松本と一緒に帰ってた奴だ。やっぱり中3だったのか。

 そんなことを思っていると、僕の知らないもう1人のほうが、開けっ放しになっていた後ろ側のドアから無言で出て行った。

「あれ、いないみたいだね。ありがとう」

 後ろ側のドアが、少し控えめに閉められる。僕はきびすを返して、教室から出て行こうとする。

 佐上め、どこに消えたんだ。

 心の中でそうぼやく僕を、その娘は呼び止める。

「ちょっと待ってください、黒木先輩」

 どうして名前を知っているのだろう。松本が話したのだろうか。

「私、先輩のことが好きです」

 そんな考えにたどり着く前に、そのいきなりの一言で僕の思考はフリーズした。


「私、紺野あずさっていいます。突然、すいません」

 しばらくの沈黙のあと、その紺野さんはそうやってまた話を始めた。

「え、あ、うん……」

 一度は止まってさえ見えた世界が再び動き出すけど、僕の思考はは凍り付いたままで、しどろもどろの返事になってしまう。

 それに構わず、紺野さんは続ける。

「入学してすぐの部活紹介の集会で、高校生がいっぱいの中でひとり、私よりひとつ上で、中2生の先輩が、その時の部長さんと一緒にはきはき、喋ってて」

 あのときは確か2週間以上をほんの一瞬の紹介のために費やし練習をしたのだ。上手くできたとは思うが別に不思議ではない、はずだ。

「すごいな、すごい人がいるなって、思いました」

「そ、そう……ありがとう」

「それで、でも、化学部に入る勇気はなくって。私、理科苦手だったし。でも、去年は文化祭、見に行きました」

 化学部の文化祭は、普段の公開実験よりも大規模な実験をして、部誌を配布する。去年は液体窒素を使って実験をした。僕もそれに、助手として参加した。

「それで、カッコいいな、と思いました」

「う、うん……」

 言っていることは解る。でも、止まったままの思考は理解することを拒んでいる。こんなこと、これまでのしょぼくれた人生ではもちろんなかったことだから、どうしていいかなんて判るはずもない。

「それから……、それから私、廊下とかで先輩を見ると、その…ドキドキとか、するようになりました。たまに公開実験も見に行ってたんですけど、それも、なんだか見に行けなくなって」

 だんだん、紺野さんは伏し目がちになってくる。

「簡単に言ったら、好きになったんです」

 その言葉の持つ意味をゆっくりと反芻して考える僕に、紺野さんはさらに続ける。

「でも私、4月になって、てっきり松本先輩と付き合い始めたんだと思ってました。そしたらなんだか辛くなって、でもまだ先輩にはドキドキしてて。だからどうしようもなくなっちゃって、昨日勇気出して、松本先輩に聞いてみたんです。そしたら」

 体が軽く震えてきた。この娘、どうやら本気らしいぞ。

「別の彼氏と、別れたところ、って聞いて」

 床をじっと見つめていた紺野さんが、ふっと顔を上げて僕を上目遣いに見つめた。顔は真っ赤になっている。

「私、やっぱり先輩のことが好きです」

 それきり紺野さんは押し黙る。返事を、待っているのだろう。

 断る理由なんて、普通に考えればない。僕は今、当然だが誰とも付き合っているわけではないし、紺野さん自身も僕の価値観で行けばそれなりに可愛い部類に入る。今は特定の好きな人も、いないつもりだ。つもり、だけど。そしてなにより、1人の女の子に、これほどまでに好かれているのだ。

 そうやって頭では解っている。でも、どうすることもできない見えない何かが、僕にまとわりついている感じがする。

 そのまとわりついた何かが、僕に出すべき結論をくれた。

 その結論が何なのかわからないまま、僕の口は言葉を零し始める。

 今度は、僕の番だ。


「結論から言うと、ごめん。僕は君とは、付き合えません」

 紺野さんは一瞬怯えたような表情を見せて、やがてまたうつむいてしまった。

「そのかわりってわけじゃないけど、俺の話も聞いてほしい」

 だんだん紺野さんの目は潤んできて、長いまつげの根元では表面張力が踏ん張っている。はい、という蚊の鳴くような返事をした。

「俺にはずっと前から好きな人がいるんだ。その人は小学校の時のクラスメイトで、3年以上も経った今、まだ好きかなんて本当はよく判らないし、そんな無責任なこと、言えない。でも、だから、君とは付き合えません」

 少ししゃくり上げるような声が聞こえ始めた。僕はただ天井のほうを見つめるだけで、紺野さんの目を見る勇気はない。

「紺野さんのこと、カワイイと思う。素敵だなあ、と思う。こうやって2人きりになって、こうやって、告白、されて。すごく俺、今、うれしい。俺もドキドキした」

 反応のない紺野さんに僕は更に続ける。

「ただ、紺野さんの話を聞いたとき、その好きな人のことが頭に浮かんだ。…つまりは、そういうことなんだと思う」

 僕がそこまで言い切ったところで、紺野さんはついに少し控えめな声を上げて泣き出した。そしてすぐ、後ろ側の閉まったドアに何かがぶつかる音がした。きっとさっきのもう1人の娘が様子を窺っているのだろう。でも、そんなことも今の僕にはもはやどうでもよかった。

「俺、決めたよ。その人に、告白することに、しようと思う。結果がどうなっても、それは紺野さんのおかげで、」

 しゃくり上げながら、紺野さんは僕のほうを見た。

「俺は紺野さんのこと、一生、死ぬまで忘れない」

 そこまで言って、沈黙。僕は真っ白になって、視線を下に落とし、じっと腕時計を見つめていた。デジタル表示は頭に入っていかなかったけど。

 ふと、お互いに椅子に座っていることに気がついた。いつ座ったのかは、うまく思い出せない。

 たぶん10分ほど経ったあと、ようやく落ち着いてきた紺野さんは話を始めた。

「OKしてくれるなんて、思ってませんでした。期待はちょっと、してましたけど。松本先輩が言ってたんです。『黒木くんは、女のコに対してがつがつしてなくて、それどころか全く興味がなさそうで、なんか不思議』って。そんな人がいるなら、私、勝てっこないですよね」

 そう言って、泣きはらして真っ赤な目をこちらに向けて、笑顔を作ろうとする。

「それで、私、先輩のこと、その、男の人としてだけじゃなくて、人としても好きです。尊敬、してます。もしよかったら、こうやって年下の私が言うのもどうかな、とは思うんですけど、お友達に、なってくれませんか」

 ここまで言われて断れるはずなんてなく、首を縦に振る。

「あ、ありがとうございます。実は私、松本先輩から、先輩のアドレス、聞いてるんです。気持ちがもう少し、整理できたら、メールします。もうしばらく時間、かかるかもしれませんけど」

「ああ、よろしくね」――そう僕が返事をすると、紺野さんは、きっとそうなのだろう、心から笑みをうかべて、僕にもう一度礼を言った。その笑顔を見て、その言葉を聞いて、僕は自分のしてしまったことの大変さを改めて感じた。

 これはもう、氏原に告白するしかないな。

 それが誠意だなんて、いうつもりはないけれど。


 紺野さんはカバンを持って小走りに出て行った。もう帰るのだろう。中3生の教室にいつまでもいるのはおかしいから、実験室に戻ることにする。

 廊下に出ると、さっきのもう1人の娘がぼうっと立って、こちらを見ていた。軽く微笑んでお辞儀をして、背を向けて歩き始めた。

 階段を下りる途中、活動終了時間のチャイムが鳴った。帰って行く部長と中学生たちと入れ違いに、実験室に入る。

 中には、松本ひとりだけだ。

 黙って荷物をまとめる僕に、松本は言った。

「ごめん」

「誰がグルだったんだ?」

 笑顔を作る余裕があった。松本を責めるつもりなんてなくて、むしろ礼さえ言いたい気分だった。ただ、真相が知りたかった。

「私と、あのコの友達の宮本さん。佐上くんは、教室にはいないって、わかってた。確かめたから。だから廊下で待ち伏せて、捕まえて、教室には戻らせなかった。それだけ」

「ありがとう」

 結局礼を言ってしまうと、僕は声を上げて少し笑った。松本は、黙っている。

「カギ、よろしく」

 そう言って去ろうとする僕を、松本はためらいがちに呼び止める。

「あっ、待って。えーと…」

「紺野さんに聞きな」

 その一言を残して、勢いに任せて歩き出した。それからは振り向かずに、家まで歩いた。

 恐ろしいほどさわやかな気分だった。


 帰ってからはずっと、考えごとをしていた。

 ただ思われるのは、紺野さんの勇気の凄まじさと、強さ。

 話したこともない年上に、あそこまで言えるなんて。

 断られた後にも、ああやって言えるなんて。


 結局考えごとの他に何もしないまま、11時には寝てしまった。


 ◆


 それからずっと、僕も松本も紺野さんについて話をすることはなかった。

 それ以外は普通にしていたつもりで、無理をしていたわけでもなかったと思うのだが、やっぱりどことなくぎこちなかった。

 そして、公開実験を翌日に控えたという日。いつものように僕たちは帰宅時間ギリギリまで実験室にいて、準備をしていた。外は台風が接近し、悲惨な空模様となっていた。

 帰宅を促すチャイムが鳴ってもまだ、できるだけ粘ろうと頑張っていたころ、日直の先生がやってきて、僕たちに言った。

「外、やばいぞ。適当なところで切り上げて、早く帰れ」

「わかりました」

 どちらにせよ、そろそろ帰るつもりだったのだが。

「それと、観音駅から向こうは電車が止まってるらしいが、お前らは大丈夫なのか」

「俺は大丈夫です。中学生たちは、親が迎えに来るって。あと黒木は家近いから大丈夫だけど、松本はどうなの?」

 こんな部長でも、部員を気遣う心はあるらしい。

「あ、私も大丈夫です」

「そうか、よかった。でも、これからどうなるか分からないから、できるだけ早く出ろ」

「はい」

 そう言って部長はそそくさと一番に出て行く。やっぱりこの人ダメかもしれない。

 それに中学生も続いていく。先生の姿もなくなって、実験室には松本と僕だけになった。

 僕は黙って荷物をまとめてそのへんをざっと片づけながら、家が近くてよかったなあ、なんて思っていた。

 さて、帰るか、と顔を上げると、身支度をもうすませている松本がなんだかニヤニヤしている。

「さーて、帰れなくなっちゃったなー」

「はあ!?」

「いやまあ私は、黒木くんの家が近いから“大丈夫”と」

「待て、それは…」

「まあ親に聞いてみてよ。本当に帰れないんだから」

 この破天荒さは何だろう、などと思いながらも、携帯を取り出して家に電話をかけた。

 数回のコールの後、母親が出る。

『あ、母さん?あのね』

『あ、ユウ?大丈夫なの?帰ってこれる?』

『大丈夫だって、近いんだから。それで、部活の奴が1人、電車止まって帰れないって言ってるんだけど』

『泊めてあげなさいよ。もちろんでしょ』

『そのつもりで電話した。で、そいつ女子だから』

『化学部に女の子なんているの?』

『いるんだって。だからとりあえず連れて帰るから』

『分かった、客間開けとくから。気をつけてね』

『あーい』

「物わかりのいい親で助かったよ」

「お母さん?だったよね」

「ああ、ウチは単身赴任で父親が今、いないから。なんか結構適当になってる」

「ふーん、ウチもお父さん、いないんだ」

「単身赴任?」

「ううん、離婚」

 そんな僕からしたら相当複雑な環境に松本が置かれていることにかなり驚いた。そんな素振りは微塵も見せていなかったのに。

「あ、ごめん」

「いや、別にいいよ。私、そんなに気にしてないし」

 棚のカギや戸締まりまですべて確認が終わり、いよいよ外に出る。恐怖さえ感じるような大嵐になっていた。

「ひゃー、すごいねー」

「なんで楽しそうなんだよ」

「カサじゃあ意味無いかもねー」

「だから何で楽しそうなんだよ」

 松本の言う通り、傘は全く意味をなさなかったが、走って1、2分の近さと宿直室でもらったゴミ袋のおかげで大した被害は出なかった。ずぶぬれには、なったけど。

 チャイムを鳴らして、ドアのカギを開けてもらう。出たのは、小2の妹だった。

「おかえり、兄ちゃん。だれ?」

「部活の人」

「まつもと、さきです」

 そんなやりとりをしていると、タオルを持った母親がやって来た。

「いらっしゃい。お名前は?」

「松本咲といいます。すいません、いきなり」

「こんな天気なんだからしょうがないわよ。シャワー浴びてちょうだい」

「あ、ありがとうございます。でも、ユウ君は」

「いいのよお。バカはカゼ引かないんだから」

 そんな古典的なやりとりをしながらも、結局松本は母親に連れられて風呂場に行ってしまった。

 そのこと自体はいいのだが、僕がここに取り残されているのはなぜだろう。

「兄ちゃん、バカだって」

「自分の子供なのになあ」

「兄ちゃん、あのひとよりぬれてるね」

 そう言えば、前から吹き付ける雨の中、松本は僕の後ろを歩いていた。どうもこの状況、解せない。


 結局、僕は松本がシャワーを浴びて母親の服に着替え終わるまで放置された。かろうじて妹に頼んでタオルを持ってきてもらったが、母親が持ってきたタオルが松本用の1枚だったことに気付いた上、妹が持ってきたタオルがトイレ用のものだったりしてともすればキレてしまいそうだった。

 なんとかこらえてシャワーを浴びて、パジャマを着る。リビングに出て行くと、母親がなにやら電話で話し込んでいた。

「何なの?」

「うーん、お母さんたち、知り合いかなんかだったみたい」

「なんじゃそれ」

 母親が電話をしながら口をつっこむ。

「あー客間準備できてるから、案内してあげなさい。あー、うん、それで」

「オバサンはおしゃべりだからなあ」

 ぶつくさ言いながら、客間に松本を案内する。

「ほい、ココ」

「わーお。普通に客間じゃん」

「そりゃ、客間だもんな」

 妹が半開きのドアの隙間から松本の荷物を持ってきた。

「はい、もってきた」

「わー、ありがとう、えらいねー」

「へへへー」

 ぱたぱた、と音を立てて、妹は出て行った。

「じゃ、俺もこれで」

「待たれい。聞かねばならぬことがあるのだよ」

「わかったよ」

 別に妹に聞かれたとしてもどうこうという問題ではないし、母親はあのまましばらく喋り続けるだろう。一応、ふすまは半分開けておき、残りの半分にもたれかかった。僕だって、何を聞かれるかぐらい判ってる。のっけから長居の姿勢だ。

「紺野ちゃん、何も言ってくれなくてさ」

「うーん、一応はフッたって形になったんだよ」

「えー、なんでー?」

 結果ぐらいは知っているだろうに、この口調である。面白がられているんだろうな。

「本当に何も聞いてないんだな。好きな人が、いるんだよ」

「えー、いきなりそんなこと言われても、ワタシ、ココロノジュンビガ」

「冗談でもよしなさい。他の学校だよ」

「ふーん、じゃあ、根掘り葉掘り聞いておこうかな」

「やめてくれよ」

「言いたくないの?」

「言いたくないよ」

 僕がそう言うと、松本は一瞬黙って考えるようなしぐさを見せて、やがてまた口を開いた。

「じゃあ、他のこと聞こう」

「他になんて何聞くってんだよ」

「紺野ちゃんの……リアクションとか?」

 何でもいいから聞きたいみたいな言い方だ。本当に何でもいいのではないかという気さえする。それはそれでちょっと怖いが、答えないわけにはいかない。

「泣かれたよ。で、友達になってくれって」

「ふーん。意外に未練がましいんだね」

「いやいや、人としてソンケーしてるとかなんとか」

「結果は一緒だってば。それと…」

「まだあるのかよ」

 これほどまでに一蹴というか、ばっさり言われるとなんだかすがすがしい。悩んでいたのも、バカらしくなってきた…ような気がする。

「その“好きな人”に、いつコクるか」

「いつか」

「コクる気はあるんだ」

「じゃあ期限を決めましょう。夏休みまで、夏休みまでにコクりなさい。OKなら夏休みはバラ色、渚色、ピンク色。ダメでも傷が癒せるじゃん」

「なんでお前の言うことなんて聞かないといけないんだよ」

「自然な流れ」

「バカ言え。じゃあ俺だって聞くぞ?」

「何をよ」

「なんで彼氏と別れたか、とか?」

「なんで疑問形なのよ」

「それはお前も一緒だったじゃん。てか、ごまかすな」

「わかった、言いますよぉ。なんか会えないのが耐えられないって言われて、それだけ」

「ずいぶんと簡単だなあ。てか、向こうの方からだったんだ」

「ずっと放っぽっちゃってたからねー。メールとかは、してたんだけど。やっぱ、それだけじゃダメだったのかなあ?」

 そう僕に尋ねた松本は少し寂しそうな目をして天井を見つめる。好きなことは、好きだったのだろう、その彼氏が。

「そんなものかな。俺、彼女とか、いたことないしさ」

「3年越しの片思いなんてしてる人にこの質問はヤボでしたか。ごめんね」

「いや、謝らなくても。うーん、わかんないなりに考えてみるけど…なんというか、不安なんだろうね。すべてが。俺なんかとは違って、一回形になってるわけでしょ?だからそれが無くなっちゃう、それを失っちゃうのが怖いんだろうね。好きで、信じてたはずの相手が、その不安を拭ってくれない。結局は……こういう言い方、していいのか判らないけど、好きすぎて、嫌いになっちゃったんだろうね。傷つく前に、自分から手放した。そんな感じかな」

 少しの間、松本は黙っていた。天井を見つめるその瞳は、少しだけだが、輝きを取り戻したかのように見えた。

「くよくよしてたってしょうがないか」

「そういうこったな」

「ありがとう。よし、私も黒木くんのこと、最後まで面倒みてあげる。まずは告白だね」

「あちゃー、やっぱりそうなるかあ」

 実際そうしないと嘘つきになってしまう。松本には言ってはいないが、僕は紺野さんに『告白する』と言ってしまっているのだ。

「わかったよ」

「せいぜいがんばりなさーい」

「なんだよその言い方は」

 そんな感じで雰囲気が元に戻ったころ、にゅっ、と妹がふすまから顔を出した。

「できたって、ごはん」

「わかった、今行く」

 食卓のほうに松本を案内する。近づくにつれ、少しずついい匂いがしてくる。

「ごめんねー。今日こんなだから買い物行けてなくって」

「焼きそばかあ」

「全然大丈夫ですよ、とんでもない。うれしいです」

「外ヅラ……」

「うるさいっ」

 それからはその夕食を平らげて、客間で少し公開実験の準備をしたあと、僕は部屋に戻って宿題をして、寝た。松本のことは知らないが、たぶん似たような感じだろう。宿題が少なくて僕は助かったし、松本は宿題ぐらい出た日にやってそうな性格だ。まあ、あくまで僕の勝手な想像だが。

 寝る前にトイレに行ったとき、洗面所から出てきた松本とすれ違い、ひとつふたつ言葉を交わした。その時の松本はいつも通りの笑顔に戻っていた。


 朝、いつもの時間に起きると松本は既に起きていて、母親と何やら話しながら髪をくしでといていた。

「おはよう、早いな」

「あ、ユウ。ダメねえ、女のコはいろいろあるのよ」

 何がダメだというのだろう。母親がこんなので、息子が歪んだらどうするつもりだろうか。

 もう既に歪んでいるといってしまえば身も蓋もないが。

「アンタはオバサンだろ」

 そしてトーストとコーヒーの朝食をとって、2人で学校に出た。いつものようにうだうだできなかったので、学校に直接通じる道はまだ静かだった。松本は母親にしきりに礼を言っていた。母親が妙にフレンドリーになっていたのは少し気にくわなかったが。それにしてもなんだよ、またいつでもいらっしゃい、って。

 昨日の大嵐が嘘のように空は青く澄み渡っていた。そんな空を見上げて少し歩くだけで、校舎がはっきりと見えてくる。

「ところでさ、教科書とかどうすんの」

 夜の間に何とかしたのだろう、パリッとした制服をまとった松本に聞いてみた。

「んー、教科書は結構置いてるし、宿題はプリントだったし大丈夫なんじゃない」

 そんな会話をし終えたころにはもう学校に着いてしまっていた。もうちょっと長くてもいいのに、僕の通学路。

 それから授業中もこっそり、公開実験用のプリントの見直しをしたりなんてしていた。本番中は、実演する3人以外は準備室にいることになっている。去年は5回出ずっぱりだったから、思えばそれも久しぶりだ。

 放課後、掃除を終えて実験室に向かうと、もう部長たちは準備を始めていた。なにやらぶつぶつ言って、緊張した様子だ。

 少しすると、松本もやってきた。

「あー、松本先輩、昨日どうしたんですか」

 部長と比べるといくらかしれっとしている佐上がすかさず聞いた。部長も顔を上げる。

「昨日俺らが乗った電車から後が止まったんだよ。それに乗ってなかっただろ?」

「あー、黒木くんの家に泊めてもらいました」

「えー、じゃあお赤飯ですか?お赤飯ですね?」

「何から何まで違うっ」

 そう言って、佐上には軽くゲンコツを見舞っておく。そんな会話も“お客”の生徒が入ってきて、ちゃんとした説明をする前に中断された。最初の1人に続いて、次々と入ってくる。今回は結構盛況のようだ。

 不本意ながら部長の緊張も解けたみたいで、これでよかったと思うことにする。


 始まってからは特にトラブルもなかったらしく、ちょこちょこ窓から様子を見ているだけでよかった。あんなにさっきまで余裕がなさそうだった部長がまともに説明と実演をこなし、盛り上がるところは盛り上がって、一応成功といったところだろうか。

 片付けを手伝いながら、松本は僕に言った。

「別に、いくら早くてもいいのよ、あれ」

「えー、なかったコトにならない?」

「ならない」

 別に、なかったことにしたかったわけでもない。むしろおくびにも出せないが、背中を押してくれた松本には感謝しておく。


 ◆


 決意したはいいものの、やっぱりいざ告白するには踏ん切りがつかなくて、少しずつ少しずつ先延ばしにしていたら、ついに7月に入ってしまった。ちょいちょい松本にもせかされ始めたころ、ようやく僕は実行に移すことにした。


 できるだけ何気なく、何気なく。土曜の夜9時、そんなことをひとり声に出しつぶやきながら、僕は親指で手紙を書く。

 結局メール以外の気の利いた手段は思いつかなかった。

『ちょっと聞きたいことがあるんだけど、聞いていい?』

 よし、こんなもんか。

 そう思ったはいいものの、なかなか返事が返ってこない。気持ちが萎えそうになったので、松本にもメールを送ってみる。

『決行』

 それだけのあまりに不親切なメールに、松本はすぐに返信してきた。

『今どんな感じ?』

『とりあえず呼びかけ。未だ返信なし』

『よーし、焦っちゃダメよ。やっぱり送ってすぐ見てもらわなくちゃね』

 そんなやりとりをしていると、間もなく氏原からメール、着信。

『はーい、どうぞお〜』

『ありがとう。また、メールする』

 松本にそれだけ返すと、氏原へのメールをまた打ち始める。

『ちょっと変な話になるけど、いいか?』

『どこからでもかかっていらっしゃい』

 そのメールを受け取るや否や、僕はショートメールではなく普通のeメールの画面を開いて言葉を作り始めた。

 伊達にこんなに先延ばしにしてきたわけではない。それなりのプランはあった。


 覚悟して読んでね。俺、真剣だから。

 3年以上も前になるけど、小学校の卒業間際に、俺がお前に告白したら、どういう返事してた?

 簡単でいいから、聞かせて欲しい。

 3年間って、長いと思う。それでも俺は、はっきりと覚えてる。

 あのときの俺は、確かにあなたのことが、好きでした。


 文章全体をざっと見返した。自分自身にツッコミたい部分はいくつもあったけど、そのままの勢いで送信した。不思議と心は落ち着いていて、気持ち悪いくらいだった。

 10分ほど経ったころ、携帯がバイブした。サブ画面を確かめる。差出人は、もちろん氏原。向こうも、ショートメールではない。


 うーん、小学校の頃はまだ、男の子と付き合うとか、まだ考えたことなかったから、多分断ってたと思う。

 でも、小学校最後の1年間、一緒にいろいろ話したりできて、すごく楽しかったよ。

 ありがとう。


 唇を、きゅっと噛みしめる。でもまだ、ここで引き下がるわけにはいかない。


 なんで今になってこんな話をしてるかって、いい加減気持ちに整理をつけたくなったからなんだけど、ひとつだけ、知っておいて欲しいことがある。

 それは、俺の中学3年間と、ここまでの高校生活、つまり小学校を卒業してからの時間は、誰を好きになるでもなく、まして誰かと付き合ったりするでもなく過ぎたってこと。

 もうひとつだけ、聞かせて。もし告白したのが今だったら、どうかな。


 メールの文面にしてみて、改めて今、自分が置かれている状況を思い知った。

 自分は、ずるい。本当にそう思う。好きですとも、付き合ってくださいともまともに言わずに、ひとりの女の子に告白しようとしているのだ。

 そう思うと、自分の中でこれまで築き上げてきたものすべてが揺らぐのを感じた。

 そもそも、小6のころの僕は、本当に氏原のことが好きだったのだろうか。

 自分は氏原のことが好きなんだ、と思っていたことは確かだ。ただ、3年以上が経った今、本当の気持ちはあやふやだ。

 果たして好きだったのだろうか。それとも、かけがえのない小学生活、その最後の1年間の、かけがえのない大きな一部分。それを失いたくなかっただけなのだろうか。


 不安がないはずはない。むしろ不安だらけだ。

 でも今は、送信ボタンを押すしかない気がした。

 小さな画面で、アニメーションの飛行機が、空に向かって飛んでいく。

 飛んでいった飛行機はもう、僕の手では捕まえることはできない。


 15分ほど同じ姿勢で、何もない方向を見つめていた。妙にふわふわした気分でいたが、バイブ音で地上に引き戻された。

 無我夢中で携帯を開く。

『ぐっどらっく!!へへへへ』

 松本からでした。こいつ、狙ったな。

 この松本の、きっと気づかいなのだろう小憎らしいメールをしばらく見つめて、それから画面を閉じる。しかしそれを机に置く前に、携帯は僕の左手を震わせた。さっきと同じバイブ音も鳴る。

 差出人も確かめた。氏原だ、間違いない。これで、決まる。


 直接、一度会えないかなあ?

 夏休みに入ったら、こっちから連絡する。


 これで、決まる、はずだったのだが。

『わかった、待ってる』

 それだけ返すと、しばらくの間さっきよりも更にふわふわした気分で今度は天井を眺めていたが、しばらくののち、今度は自分で地上に戻ってきた。

 松本にメールしようと思ったが、何から打っていいやら、何を打っていいやら判らなかったので、思い切って電話をかけてみた。

「あ、もしもし?」

「どしたの?終わった?でもメールするって言ってたじゃん」

 日常からは確実にぶっ飛んだ会話をしているのだが、いつもと同じテンションの松本の声に少し安心する。

「うーん、長くなるかもと思ったから」

「いい心がけね。で、結果は聞かせてくれるんでしょ?」

「うん」

「じゃあまず何て打ったか聞かせてよ」

「まず、卒業前にコクったら何て返事した?って聞いたら、付き合うとか考えてなかったから多分断ってた、って言われた。だから、あれからこれまで他に誰も好きになってないって伝えて、で、今コクったらどう?って聞いた」

「それでそれで、結果は?」

「直接会いたいから、夏休みになったら連絡くれるって」

「結果、出てないじゃん。でもよかったね。脈アリだよ?それ」

「そうかな」

 正直、そんな感じは全くなかった。もう一度氏原と、それも多分二人で会えるということさえまだ信じられない。

「まあ、ちょっとイタいけど合格点でしょう」

「ありがとう、先生」

「誰が先生じゃい。で、私のあのメールはどこで届いたの?」

「今だったらどうかな?を送って、返事が来るちょっと前」

「ドンピシャね」

「冗談きついぜ」

「じゃ、明日実験室でもっと根掘り葉掘り聞くから」

「勘弁してくれよ〜」

「しませーん。それじゃ、またねえ」

「お、おう」

 やっぱりこの人だけには勝てる気がしないや。


 翌日から試験期間に入るまで、本当に根掘り葉掘り松本は聞きまくった。氏原自身のことや、思い出や、こうなるに至った岩城たちとの経緯まで。

 告白メールは読み上げさせられた。その場に僕ら2人と部長しかいなかったのがせめてもの救いだった。部長は数に入りません。


 試験なんか放っといて、さあ、夏休みだ。

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