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I.くだらない唄

I.くだらない唄



 初めて同じクラスになって、もうすぐ1年。あと3週間しないうちに卒業式ですね。

 毎日会って話しているのに、こうやって手紙を書くのも少し変な気がするけど、

 でもどうしても書きたくなったから、僕はいま手紙を書いています。

 言いたいことは、ひとつだけ。

 僕はあなたのことが好きです。

 卒業したら離ればなれになるけど、だれと離れるのもさみしいけど、

 僕はあなたと離れるのが一番さみしいです。

 卒業しても、あなたと会いたいです。友達として、じゃなくて。

 僕と付き合ってください。



 現代人の悲しさか、僕はほとんど手紙というものを書いたことがない。

 ポストに入れるものといえば懸賞のハガキや年賀状ぐらいのもので、文章を書くのも中学受験の勉強でしかほとんどしなかった。

 それでも、3年前の僕が必死で絞り出したあの言葉のひとつひとつは、今でもはっきりと思い出せる。

 だけどあの日の僕は書き終わった手紙を丸めて捨ててしまった。

 とりあえず、明日は会えるんだから。

 直接にだって、言えるんだから。

 付き合うってったって、よくわかんないし。

 それに……

 あの日のそんなくだらない言い訳の前に、手紙に込めた思いはずっと、眠ったままでいる。



 独りで私立の中高一貫校に進学して3年が経った。15歳の僕の、ここまでの人生の5分の1。その間ずっと会っていなかった小学校の頃のクラスメイトを、また“友達”と呼ぶのには少々抵抗がある。

 校区が4つの中学校の校区にまたがる僕の母校であるこの小学校。皆それなりに仲良くて、大きな問題が起こるでもなく、特に6年生の1年間は僕のここまで生きてきた人生の中で一番楽しかったと言えるかもしれない。

 まあ、思い出は思い出だ。

 卒業を間近に控えた3月のあのとき。中学校も卒業した、卒業式からちょうど3年後、また皆で集まろう、そんな誓いを覚えていた面々が覚えていなかった連中も呼び寄せて、6年間を過ごした小学校のグランドで同窓会ともいえない集まりを開こうとしていた。

 クラスの6割、20人近くは集まるには集まった。

 皆身なりや顔つき、その他諸々、もちろん性格や考え方の面でも3年経てば大きく変わってしまっていて、“あのころ”のようには戻れずにいて、特にやることもなく困っている状態だった。

 声が低くなって、背がある程度伸びて、ちょっとひねくれた。そのくらいしか変わっていないのは僕ぐらいで、なんだか参ってしまいそうになった。


 さて、少し恥ずかしい話をしよう。

 小6になって初めて同じクラスになった氏原美由という女の子のことが、あのころの僕は好きだった。5月の席替えで同じ班になって、色々と話すようになって、それから、ずっと。毎月席替えをするのになぜか5、6回は同じ班になって、その度に妙に高揚した気分になっていたことを覚えている。告白しようと思わなかったわけではない。しかしそんな勇気もチャンスもないまま卒業式も終わり、新しい環境になじむのにも少し時間がかかり、そんな感じでぐだぐだしながらついに3年が過ぎてしまった。

 氏原はこのあたりの公立の中では一番頭がいいといわれる高校に進むらしい。ウチのクラスは頭があまりよくなかったのか、そこに進む奴は他にいないようだ。そういった話を今、僕の遠くから見つめるこの視線の向こうでしているのだろうか。

氏原が今日ここに来ないなんて思っていたわけではない。でも、来るからどうしようと考えていたわけでもない。話すこともなく、出来ることもなく、ただ距離を置いて眺めているだけだ。

「何ボーッとしてんだよ」

「眠れなかったんじゃないのー?」

 とりあえず話しかけてきてくれた小川久志と岩城麻美をダシにして。

 近くにはなぜかクラスが違っていたはずの武井真もいる。小川とは普通のクラスメイトだったし、岩城もさして一緒に喋ったりなにかしたわけでもなく、昔ならまずあり得なかったような取り合わせで身のない雑談をしている次第だ。

「それより聞いてよ。あたしさー、卒業しちゃうから好きだった人に告白したんだよー?普通にフラれたけどさー」

「マジかぁ。てか相手、どんな人?」

「カッコいい人。サッカー部で、背、高いの」

「何て言ってフラれたの?」

「んー、なんか『彼女作る気ない』って」

「それはウソだよー」

「ひっどーい。本当だもん。信じるもん」

 小川と岩城のそんな会話を聞いて、自分たちは随分成長していて、もう子供じゃなくて立派な大人なんだなあ、なんてぼんやりと考える。まだ氏原のほうを、見ながら。

「俺も!俺も!」

 違う方向を向いていた武井が、突然威勢よく話に割り込んできた。

「真、その話は俺、何回も聞いたよ」

「うるせーなー。もういいよ。じゃあ、ユウは?」

「そうだよ黒木。あたしらばっかり不公平だよ」

 自分たちが勝手に喋っておいて、いきなり何のつもりだろう。

「特に目立ったことはないよ。卒業したりするわけでも、ないし」

 そう思ったけど、言わずに、ちゃんと答える。結局少しずつ、嫌でも大人になっているのだろう。

「そっかー、うん。でもなんかちょっとキツくない?それ」

「6年は長いよなー、ちょっと」

「小学校は6年間じゃねーか」

「それはそれだよ」

 話しているときは楽しいし、気分は昔とそれほど変わらないつもりだ。それでも一度話が途切れると話したいことが出てこずに、少し寂しげな沈黙が辺りを支配する。しばらくすると本当に話すことがなくなってしまって、だんだん長くなってきた3月の陽もそろそろ傾き始めるかという時間になってきた。そんな空から目を逸らして、もう一度氏原の方を見る。他の皆も特に話のネタも尽きてきたらしく、嫌な感じに静まりかえってしまったグランドに、不意に氏原の綺麗な声が響いた。

「じゃ、私、塾があるから。みんな、またね」

 結局何も話すことができなかった自分のダメさ加減に嫌気が差した。


 とりあえず武井と岩城とはアドレスを交換した。小川は携帯を持っていないらしいが、武井に連絡すれば家が隣だから何かあっても大丈夫だという。

 それからその3人と、これまた別の学校に進んだが岩城とは仲がよかった重野陽子と石井なずなとの6人でカラオケに行くことになってしまっていた。

 でも、あまり慣れた空間ではないカラオケボックスの、独特の閉塞感に少し息が詰まって、しばらくは雰囲気に乗れずにいた。

「黒木も曲入れなよー。持ち歌とかあるでしょ?」

「昔の曲でも大丈夫だからさぁ」

 そんなノリノリの重野と石井に乗せられて、いくつか歌える曲を歌っているうちに武井と岩城のテンションも上がってきた。小川はそういえばもともと暗い奴だったが、それでも楽しんでいる様子だ。いつの間にか立って歌っていたので、そんなこともよく判る。

 どんなに恥ずかしい言葉でも、歌にするとなぜかすっと出てくる。カラオケだったらなおさらだ。自作ポエムなんてイタい人の代名詞だけど、自作の曲ってのにはなんだかロマンチックな響きがあるよな。

 そんなことを考えたり考えなかったりしているうちに2時間が過ぎた。小学校の頃に流行った曲や、そこそこアップテンポの曲も歌ったので少し声がおかしくなっている。でもなんだか、嫌なことをすべて、一瞬だけだけど忘れてすっきりして、楽しかった。武井と岩城が2人で失恋ソングをメドレーで歌い始めたときにはさすがにびびったけど。


 外に出るとすっかり暗くなっていた。こんなに遅くなる予定はなかったので、さっさと家に帰ってしまったが、よくよく考えればクラス全体なんてもちろんのこと、あの5人で集まることさえもうないかもしれないのだ。もっとハメを外しておけばよかった。

そんなことを考えながら、春休みの宿題を開く。数式の羅列にくらくらしながら筆箱を開けると、机の端に置いていた携帯がバイブして、武井からメールが着信したことを知らせた。


 今日は楽しかったな。3年ぶりとは思えねえほど盛り上がれたからよかったぜ。

 できたらそのうちまた集まって、今日みたいに遊びにいこうな。

 P.S. 勉強ばっかりしてたら頭がくさるぞ!


 武井とは小2のころから知り合いなのに、なぜか新しい友達ができたみたいで嬉しかった。だけどあの頃よりはずっと距離は近く感じたから、それも別に間違いとは言えないかもしれないけど。


 おーす。すっげえ楽しかった。声、出ないもん。

 集まるならいつでも言ってくれよ。喜んでのこのことついて行くから(笑)

 あと、頭がくさるほど勉強できたら苦労しねーよ!!


 返信を終えてすぐ、岩城からもメールが来た。

『やっほー。今日は楽しかったね』

 携帯電話のキャリアが同じなのでショートメールをよこしてきている。メール自体の数が増えるから料金なんてそう大した違いはないのだが、お喋り感覚でいられるので幾分やりやすい。

『おー。声が出ねーぞ』

『結局アンタが一番歌ったんじゃない?』

『そうでもねーよ。お前も同じくらいだろ?』

『じゃあそういうことにしてあげよう』

『その態度は気にくわないな』

 中身はどうあれ、気分は小学生に戻っていた。お互い成長した顔かたちを見せていないぶん、そんな気持ちになりやすいのかもしれない。

『さて、アンタの恋バナをまだ聞いてない』

『冗談じゃないよ。勘弁してくれ』

『アンタが美由のこと好きなのアタシ知ってたんだからね』

『それには気付いてたけど』

『コクったんだっけ?』

『もしそうならもっと違う人生を送ってるよ』

『彼女いないんでしょ?』

『もちろんだ』

 顔を合わせていないぶん、懐かしさも手伝って秘密も何もなくなってきた。今なら何でも言ってしまいそうだ。

『美由、カレシいないって言ってたから試しにコクってみたら?』

『試しにってなんだよ。人ごとだと思って』

『さては、学校の方に好きなコがいるな〜?』

『いねーよ。ホント、勘弁してくれ』

 とりあえず、その辺の一線は守る。というか、事実だし。

『じゃあさ、とりあえずアタシ美由のアドレス知ってるんだ』

『何が“じゃあさ”なんだよ』

『それじゃあアンタはどうしたいの?ホレホレ』

『オヤジ口調になってるぞ。ノーコメント』

『素直になりなさいよ。ホレホレ』

『だからノーコメント』

『素直じゃないコには罰として、美由にアドレス教えちゃいました〜。ぱちぱち』

『過去形!?』

『まあ普通にお喋りでもして幸せに浸りなさい。美由も同じトコだから、アタシとみたいにショートメールでさ』

『人をなんだと』

 その返事を打ち終えてまもなく、ショートメールが着信した。知らないアドレスだが、差出人は言うまでもないだろう。

『氏原美由ですっ。ハロハロー』

『ああ、どうも』

『自分から麻美ダシにしといて何よぉ』

 女子のメールでのテンションってこんなものなのだろうか。テンポも速いし、少し疲れる。

『すまん』

『一言の返事は拒否っちゃうよ?』

『ごめん』

『学習しなさーい。で、何でいきなり?』

 岩城が勝手に、なんて言えない。いったい何と言って伝えたのだろう。ちくしょう、本当に勝手なマネを。

『なんか、あんまり話したりできなかったなーなんて思って』

『そーだねー。みんな変わっちゃってたねー』

『3年経ってるからねえ。もう俺ら、高校生だよ』

『そうそう、私、北高受かったんだよ?』

『聞いた聞いた。すげーじゃん』

 正直中高一貫校にいたら高校受験の仕組みなんて全く知らないのだが、それでも持っているわずかな知識と雰囲気で無難な返事をする。密かにウチの学校の編入で入ってこないかなんて期待していたことも、もちろん秘密だ。

『高校の勉強って難しいの?もうやってるんでしょ?』

『でも授業聞いて宿題してテスト前には勉強したら大丈夫なんじゃない?』

『ありがとー。じゃあ黒木くんの言うとおりがんばりますっ!』

 あ、ダメだ。このままじゃ話が切れてしまう。

『おう、がんばれよ』

『それじゃねぇ』

 あ、切れた。

 結局何にもなってないじゃないか。そういって自分自身にヘタレの烙印を押す一方、なぜかそれでも幸せな自分。

 本当に、ヘタレなのかもしれない。


 とりあえず翌日、岩城には報告した。

『もーーーダメだあーーーーーーー』

『フラれたの?フラれたの?』

『嬉しそうだな。違うよ。そういう話にもならなかった』

『あ、なんか黒木っぽいね』

『それは聞き捨てならないな』

『はて、ナンノコトデショウ。ワカリマセン』

 しばらくの雑談の後、どちらからともなくメールは切れた。そしてそれから春休みが終わるまではもう、小学校の時の知り合いとそれ以上メールをすることはなかった。


 春休みが終わると、新学年が始まる。

 担任や教科が変わっても、繰り返されるのはただ日常でしかない。僕が副部長として在籍する化学部には編入の女子が一人入部したが、さして特筆すべきことはその程度で、それさえもあまり気に留めていなかった。ただ少し、女子が化学部かあ、なんて偏見めいたことは思ったりしたけれど。

 彼女の名前は松本咲といった。本当に化学が好きらしく、毎日部室である化学実験室にやってくる。特に毎日実験をしたりするわけでもなくて、暇に任せて一緒に実験道具の掃除をしたり、授業の内容についてまともに話をしたりするので、なかなか後輩が寄りつかなくなった。

 そんなこんなで松本は皆勤賞のままで、5月を迎えた。まあ、かくいう僕も一応皆勤賞なのだが。

「毎日よく来るよねえ。編入は宿題も多いんでしょ」

「べつに。黒木くんだって毎日来てるじゃん」

「いちおう副部長だからね」

「こんなので、私が入る前、去年はどうしてたの」

 思えば実験室に女子と2人きりなわけだ。金曜ともなると、本当に誰も来ない。

「去年の部長は熱心だったんだよ」

 ふっと、用具を洗う松本の横顔に目をやる。整った顔立ちにドキッとする。分類するなら、確実に美人だ。

 松本にはどうやら彼氏がいるらしいが、もしそうでなかったらどうだろうか。バーン(告白?)、と行って、ボーン(玉砕?)、だろうか。

 好きでもないのにそんなことを考える自分に気付いて、はっとする。

 好きな相手に告白することはあんなに遠く感じていたのに、近くにいる相手に告白することを想像していることに違和感を覚えた。

 それだけ、僕は氏原のことを大切に思っているということなのだろうか。

 それとも、氏原は僕にとって大切な、でもただの“思い出”なのだろうか。

「こうやって私が毎日来て助かってるわけだ」

「まあそうだけど」

 少しうわの空の返事をして、もう一度松本の顔にちらりと目をやる。少なくとも僕には、色白のその顔に疲れの色が滲んでいるように見えた。

「でもやっぱり大変なんだろ? 体調には気をつけろよ」

「大丈夫だって言ってるでしょ」

 そして2人してまたせっせと手を動かす。今日はどこかの学年が実験をしたらしく、それなりに汚れている。というか、ちゃんと掃除しろよな。

 あらかた作業が終わった頃に、部長がやってきた。名前は丸山というが、今年になって自分のことを部長と呼ばせている。

「また掃除が終わった頃に来るんですか」

「だって金曜は英語の補習だし」

「明日は大掃除でもしますか。部長が」

「ダメダメ。俺古典の春休みの宿題しなきゃ」

「まだ出してないんですか?あとどのくらいですか?」

「10割くらいかな」

 まがりなりにも自分は真面目にやっているだけに冗談の口調が鼻につく。

「いわゆる全部ってやつですね」

「ここでやっていいんなら来るよ」

「掃除しながら宿題してくれるならいいですよ」

「そいつは無理だな。また来週」

 ダメ部長はそう言ってそそくさと帰ってしまった。こういう人はどこにでもいる。それがたまたま、ここでは部長だっただけだ。そう思うことにしている。

「あの人俺が入った頃からああでさあ……」

 そう言いながら後ろに目をやると、松本は先生用の椅子に座り、実験用の大きな教卓に突っ伏して寝息を立てていた。これでもかってくらい元気で、これでもかってくらい忙しい。そして、ときどきスイッチが切れる。いろんな意味で、本当にすごいなあ、なんて思う。

 時計を見ると、5時少し前。活動終了時間まで、まだしばらくある。

 カバンを開けて、数学の宿題を取り出す。物音を立てまいとするなら、むやみに資料棚や実験用具は触れない。部長に何か言われたら……大丈夫か。もう帰った後だし、僕のは今日出た宿題だし。

 肩に白衣でもかけてやろうかと思ったが、さすがに踏みとどまった。別にマンガの世界に身を置きたいわけでもないし、女子という生き物は往々にして厚着だ。松本も、制服の下に長袖のセーターを着ている。僕は半袖なのに。

 空気がよどんでいたので、ひとつだけ窓を開けた。半袖だとまだ夕方の空気は冷たすぎたので、手に取った白衣は自分で着て、一番後ろの席で宿題を始めた。

 宿題がちょうど終わった頃、帰宅時間を知らせるチャイムが鳴った。松本は、まだ寝たままだ。

 起こそうとして近寄った時の目を閉じた横顔は本当に綺麗だった。カメラを持っていたら写真に撮って持っておきたくなる位に。

 結局松本に告白どうこうってのは好いた惚れたとは関係なく、どちらかというとテレビや雑誌に出てくるアイドルに対するそれなんだろうな。だから、きっとそんなことを思うのだろう。そんな解ったようなことを自分に言い聞かせていると、自分のポケットにはカメラ付き携帯電話が入っていることに気が付いた。

 シャレにならない。それ以上の想像をしてしまう前に軽く肩をたたいて起こす。びっくりしたように松本は顔を上げた。

「ふぁっ、寝てた。今何時?」

「もうチャイム鳴ったよ」

 がばっ、と松本は立ち上がり荷物をまとめ始めたが、すぐに時計を見て、手を止めた。

「あー、間に合わないや。電車1本、遅らせちゃお」

「お前、家遠いんじゃないのか」

「30分くらいは遅れるねー」

「大変だなあ。何でわざわざこんな学校に来てんの?」

「よくわかんない。親が、勧めた。地元のカレシは、止めたけど」

「止められるぐらいなんだったら部活なんてやってないで、ちょっとでも会ってやればいいのに。男は結構、弱い生き物なんだよ?」

 さっきはアイドルだなんて結論づけた相手と、今は普通に会話をしている。思春期の心はごちゃごちゃ忙しい。結局僕はどうなんだろう。一概に言えることではないのかもしれない。松本だって誰だって、“友達”だったり“仲間”だったり、“敵”だったり“味方”だったりするわけで、その中で松本だったら“アイドル”だったりするわけだ。

「経験論?」

「うるせー」

「ん、まあ、アイツとはうまくいってないし」

 経験という名の抗体が不足しているので返事が短くなる。あー、どうしようもないヘタレだなあ。付き合っている相手とうまくいかない、だなんて僕にとって何歩先のことだろう。好きとか嫌いとかとは別に、彼女が欲しい、という願望もこの歳になればある。

「そーなんだ」

「黒木くん、リャクダツしてみる?」

 そして、松本は“女の子”だ。僕は一応男だからそんな松本のことを好きになる可能性だってあるだろう。彼氏がいようと、その逆だってまた然り。だけど僕の中ではまだ、“好きな人”としてなら、引きずりすぎかもしれないけど氏原が心の中にまだいる。それだけは確かだ、きっと。

「エンリョしときます」

「やだ、冗談よお」

 そんな僕の逡巡はさておいて、雰囲気もいくぶん和んだ。窓の外は夕焼け色に染まっている。窓を閉めて帰る用意をしていると、後ろ側のドアが開いて、日直か何かなのだろうか、知らない先生が顔を出した。

「もう帰れよー」

 はーい、と2人で返事をする。うまくハモった。

 その先生はそれだけ言うとドアを閉めて去っていった。あの先生の目に僕らの姿はどう映ったろう。むかつくガキだろうか。それとも青春のひとコマだろうか。

 松本にカギを頼んで、僕は教室に荷物を取りに戻る。僕は校門を出て徒歩3分というむやみに近いところに住んでいるので、そんなに急いで帰る理由はないのだけど、それでも靴箱までは早歩きだった。理由なんて、知らない。青春のひとコマだ。

 結果として、あくまで結果として、靴箱で松本と落ち合った。校門を出て僕は右、駅は左なのに。自分がよく判らない。

「寝てたからちょっと楽になった」

「そ、よかった。やっぱ疲れてんだよ」

「そうかもしれない」

「明日は帰って休みなよ。大してすることなんてないんだし」

「そうさせてもらおうかな。ありがと」

「じゃあ、また来週、かな」

「ばいばい」

 左右に分かれて、僕は家に向かう。さっき見た、リャクダツしたくなるような微笑みと寝顔を思い出していた。

 やっぱり思春期真っ盛りの自分を心の中で笑い飛ばしてもう一度だけ振り向くと、松本は誰か別の女子と並んで歩いていた。電車が同じなのだろうか、かなり仲が良さそうだ。廊下でも見ない顔だし、別の学年、たぶんひとつ下の中3生だろう。

 ぼーっとそんなことを考えているだけで家についた。もうちょっとマトモに通学したい、だなんてちょっとだけ思う。


 翌日土曜日、松本は宣言通り来なかった。代わりに中学生が3人と、なんだかんだで部長も来た。実験室の椅子に座って、思い思いの昼食をとりながら雑談まがいの話し合いを始める。6月最初の木曜日には、今年度最初の公開実験が予定されている。何をするか、ぼちぼち決めていかなければならない。

 部長はあんなのでも化学知識だけは満載の人で、去年くらいから内容のすべてを決めてきている。

 僕なんかより、もっとものすごく好きなんだろうな、化学が。

「気体ショーと食べ物系、どっちがいいと思う?」

「気体のほうがインパクト強いし、わかりやすいしいいんじゃないですか」

「食べ物系は次に回すか。気体のほうが扱いやすいし楽だよな」

 話し合いとはいっても、話しているのは僕と部長だけだが。

「黒木さん、気体ってどんなやつ使うんですか」

「水素とか酸素とかオーソドックスなものでいろいろやるよ。あ、あとアンモニアは必須かな。なんてったって、クサいし」

「でさあ、誰が実演するの」

「部長がやりたいだけでしょ」

「ばれたか」

「やりたい人がやればいいんですよ。中学生を助手に付けてどうぞやってください」

「がってんだ」

 ひとしきり喋って、決まったことをノートにまとめた。来週からは準備にとりかかろう。

 することも特になくなって、結局掃除なんてやる気が出るはずもなく、4時前には解散した。松本がいない実験室は、ずっとそうだったはずなのになんだか華がない。

 そんな感じで、入部してひと月くらいしか経っていない松本の存在が、いろんな意味で妙に大きく感じられた。

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