序章:境界線のノイズと、迷い子の灯台
ルナがその森の境界線に立ったとき、世界はまるで現像液に浸しすぎた古い写真のように、輪郭を失い始めていた。
そこは彼女が暮らす無機質なニュータウンの最果てであり、かつては豊かな原生林と呼ばれた場所だ。だが今の森は、地図上の空白地帯として恐れられている。
湿った風が吹き抜けた。それは通常の雨上がりの匂いではない。森の奥から漂ってくるのは、濡れた土の香りと、古い真空管が熱を持った時の甘い匂い、そして微弱な電流がショートして焦げ付いたような、金属的な刺激臭だった。
「行かなくちゃ」
ルナは自身の胸元をぎゅっと握りしめた。彼女は学校でも家でも、常に「解像度が合わない」感覚を抱えて生きてきた。クラスメートの会話は遠い国のラジオのようで、流行の音楽はただのデータ信号に聞こえた。世界と自分の間に、薄いガラスが一枚挟まっているような疎外感。
彼女の手には、亡き祖父が遺した真鍮製の重たいランタンがある。分厚いガラスの向こうで揺らめくのは、炎ではなく、脈打つように青白く発光する鉱石――祖父が『迷い子のための灯台』と呼んだアーティファクトだ。
ルナが境界線を跨ぎ、最初の一歩を苔むした地面に踏み入れた瞬間だった。
ジジジッ、ザザッ。
足元の枯葉が砕ける音に、ラジオのチューニングノイズが重なる。
見上げれば、空は既に物理法則を無視していた。茜色の夕焼けと夜の帳が混ざり合う大気のキャンバスに、極彩色のオーロラが走っている。それは自然の神秘というより、傷ついたビデオテープを無理やり再生した時の映像のように、ピンクと緑の走査線となって空を切り裂いていた。
「ここが、世界のバグ……おじいちゃんの言っていた『時の綻び』」
恐怖よりも先に、奇妙な安堵がルナの胸に広がった。ここには、彼女と同じ「ズレ」がある。ルナはランタンを高く掲げた。光が闇を切り裂くと、獣道の下から、木の根のように絡まり合った錆びた銅線や、宝石のように輝く砕けたガラス基板が露わになった。
シンセティック・ワイルド(合成原生林)。
ルナは、エラーコードが降り注ぐ森の奥へと、静かに歩き出した。




