1-5. 王の選択
城の高所にある回廊は、朝の空気をそのまま抱え込んでいた。
秋に入りかけた風は冷たすぎず、しかし確かに、夏とは違う重さを持っている。
王は、欄干に手を置いたまま、裏門の方角を見下ろしていた。
石畳の上を進んでいく小さな馬車は、やがて門を抜け、城壁の影に吸い込まれる。
そこから先は、どれだけ目を凝らしても見えない。
――行ってしまったな。
そう思った瞬間、王ははっきりと理解した。
これは見送りではない。
ただ、見ていただけだ。
馬車が完全に視界から消えると、王はゆっくりと息を吐いた。
その呼吸に合わせるように、胸の奥に沈んでいた記憶が浮かび上がる。
* * *
王城内、高所にある古い礼拝堂。
いまは封鎖され、誰も祈りを捧げなくなった場所。
石の祭壇の前に、王とオルフェスだけが立っていた。
「――冥紋継承は、すでに誕生しています」
オルフェスの声は、低く、淡々としていた。
「しかも、誕生から十余年経過しており――」
「なぜ、そんな歳月が」
「魔族共が、ひた隠しにしていたのです――その魔王女を」
王は少し眉を上げる。
「魔王女?女なのか?」
「ええ、今回は」
“今回”があれば、当然別の回もある。
それを二人は知識として共有していた。
そう、遥か昔に起こった災厄のことを。
「魔族はなぜ、冥紋継承を隠していた?」
「奴らも一枚岩ではないようです。
隠蔽していたのは今の魔族の支配層、人間とは大きく事を構えたくない穏健派ですね。
一方で、冥紋継承を神輿として担ぎたい、急進派がいます。
情報が漏れたのは、この連中からでしょう」
“冥紋”とは、魔王の血族の身体に、数百年に一度現れる紋章のことだ。
その紋章が顕現した稀有な魔族の子を、“冥紋継承”と呼び、最終的にそれが“冥紋王”となる。
数百年前に起こった光魔大戦で、その存在が、世界に大禍をもたらしたといわれていた。
王は、考え込むように腕を組んでみせる。
「王としては情けない限りだが、私は光魔大戦や冥紋については一般的な知識しか持ち合わせていない」
「それは仕方がないことです。
当時の史実は、もっぱらエル=カノンに伝わる聖刻文字で書かれた古文書に記載されています。
翻訳も一部しかされておりませんし、学者や神職の者でなければ、原典にあたることは、なかなか難しいでしょう。
古文書自体も多数散逸しており、通常であれば表層的な事実しか掴めぬものです」
「しかし、オルフェスはその聖刻文字を理解できるのだろう?」
「ええ、一応学者のはしくれですし、魔術を極めるには習得が必要でしたから」
王は石壇の上に手を置き、オルフェスを見据えた。
「では訊くが、冥紋王が巨大化した魔物に変じ、次々を人を喰らっていったというのは――」
「それは、事実が歪められた伝説です」
「冥紋王を直接見ると、目が焼き爛れて死に至る――」
「それも虚構です」
「それでは、冥紋王が発動した魔法で、一つの王国が一瞬にして消滅したという話は――」
オルフェスが静かに息を呑む。
「それについては、事実です。
ご存じでしょうが、西にある"亡王砂漠"は、その跡地です」
亡王砂漠は、名目上はヴァルシア王国の領地ではあるが、草木も生えず人間が居住不能な土地であり、実質的な統治はされていない場所だ。
王は、かつて見た、生命の気配を全く感じない死の荒野を思い浮かべ、静かに息を呑む。
「すると、件の魔王女も、その規模の魔法を発動する可能性があるということか」
「ええ。
ただ、古文書によれば、冥紋継承がその能力を得るには、顕位――すなわち冥紋王への覚醒――が必要になるようです。
今の魔王女は、その顕位には、まだ至っていないと聞いております」
オルフェスの言葉を吟味するように、王は顎に手をやり、考え込む。
「――魔王女が冥紋王となるには、どんな条件が」
「それが――」
オルフェスが、一旦目を伏せたのちに顔を上げる。
「分かっていないのです。
これまで数々の研究がなされてきましたが、明確な結論は出ておりません。
ただ、いまの魔王女は、光魔大戦当時の――そのときは魔王子でしたが――冥紋継承と、ほぼ同年齢に達しています。
加齢に伴う成長が、顕位の条件であるとすれば、現在は大変危険な状況だといえるのです」
それを聞いた王は、難しい表情になるが、やがて口を開く。
「しかし、光魔大戦では、結果的には冥紋王を倒すことができたのだろう?」
「ええ、そのおかげで、二度目の終焉魔法発動はなされませんでした。
大戦で人間側が勝利し、魔族を北方へと封じ込めることができたのは、それを成し得たからだといえます」
「たしか――」
王は思い出すように、上に目を向ける。
「光の巫女が天より降り立ち、冥紋王を打ち破ったと――」
「民間の伝承では、かなり脚色がされていますが、それは半分事実です。
エル=カノンの巫女が、刻紋碑の封印を解いたのです」
「刻紋碑?」
「はい。
エル=カノンの神殿の奥深くに、存在すると言われる石碑です。
その封印を解き、“聖なる楔”を発動することで、終焉魔法を無効化したと言われています」
「それでは、すぐにでも、その封印を解くべきではないか」
詰めるように身を乗り出す王に、冷静にオルフェスは言う。
「やはり陛下も、そうお考えになりますか」
「当たり前だ。
この世界の危機だろう」
王が少し苛立つように言葉を返すも、それに構わずオルフェスはゆっくりと語りだす。
「その封印を解くことができるのは、エル=カノンの、とある巫女一族の血縁を引く女性のみなのです。
しかし――」
彼は一拍置いてから、続けた。
「大戦以降、その一族の行方は長らく不明でした」
「今は見つかっているということか」
オルフェスは静かに目を伏せる。
「ええ。
その一族の名は、“ダグナ”といいます」
王は、その名を反芻した。
ダグナ。
「ちょっと待て……聞いたことがあるぞ……」
こめかみに指を当てつつ、王はブツブツ呟くも、やがてハッとした顔に変わる。
「――ノエラの一族の名が、たしか……ダグナ……」
ノエラとは、三年前に病没した王妃の名である。
「そうです。
王妃殿下は、光魔大戦の時代に、教主国に仕え、儀式を担ったとされる、巫女一族ダグナの末裔なのです」
そう言って、オルフェスは王の前で改めて姿勢を正す。
「陛下がご存じなかったのは当然です。
この私も知りませんでした。
何よりその巫女一族の情報を、エル=カノンが秘匿していたのです。
魔族から狙われることを避けるために」
王は眉を寄せて、オルフェスの顔を見る。
「しかし、ノエラの一族は、全て魔族に殺されたと聞く。
しかも、ノエラもすでに――」
話している途中で、王は重大な事実に気づき、言葉を止めた。
それを継ぐように、オルフェスが続ける。
「ええ。
現在、確認されている唯一の適格者は、セレナ殿下のみとなります」
王は、視線を落とす。
「……あの子に、封印を解かせるということか」
「終焉魔法を阻止するには、それしかありません」
オルフェスは続けた。
「魔族側の急進派も、冥紋継承の誕生を察知しています。
奴らは、終焉魔法の発動を望んでいる。
封印解除を妨害する可能性は高いでしょう」
「だからこそ、偽装が必要だと?」
「ええ。
教主国からの招聘理由は“宗教儀礼の教育”。
セレナ殿下の訪問そのものも、影武者を用いて隠します」
王は、拳を握りしめた。
「……封印解除は、危険なものではないのか」
その問いは、王としてではなく、父としてのものだった。
オルフェスは、少しだけ視線を伏せたあと、答えた。
「現存する古文書によれば――
封印解除そのものに、明確には差し迫った危険は記されておりません」
王は、壇上から、今は取り払われた礼拝席のほうへと降り立ち、考え込む様子でその場を歩き回った。
オルフェスは、何も言わないまま、王の様子を、ただ見つめている。
しばらく、そのままの状態が続いたが、やがてオルフェスが口を開いた。
「それから――エル=カノンには、私も同行します」
王の歩みが止まる。
そして、長い沈黙の末、ゆっくりと頷いた。
「……頼む」
その一言で、すべてが決まった。
* * *
「陛下」
低い声に呼ばれて、王は顔を上げた。
いつの間にか、回廊には朝の光が満ちている。
「……分かっている」
それ以上、何も言わずに、王は踵を返した。




