1-2. 王女は何かを隠されている
玉座の間の扉が、背後で重々しい音を立てて閉まる。
衛兵の立つ前室を抜け、セレナはようやく人気のない回廊へと足を踏み出した。
そこで初めて、胸の奥に溜めていた息を、そっと吐き出す。
――お父様は何かを隠している……
そう、明らかにいつもと様子が違っていた。
――でも、わたくしはそれに触れることができなかった……
いや、触れることができなかったのではない。
そこに触れることを、心の奥にある何かに禁じられたのだ。
――それって一体……
胸の奥にモヤモヤしたものを抱えながら、長い廊下を歩く。
回廊の片側に並ぶ細長い窓から、午後の光が差し込み、床に淡い影を落としていた。
高い天井。
磨かれた石の床。
壁には歴代王の肖像画と、王家の紋章をあしらったタペストリーが等間隔に並んでいる。
どれも、子供の頃から何度も目にしてきた光景だ。
けれど今は、それらがどこかよそよそしく感じられた。
乾いた足音が、やけに大きく響く。
長い回廊には人影もまばらで、侍従が遠くを行き交う気配があるだけだった。
その静けさが、かえって思慮を呼び起こしてしまう。
――エル=カノン。
教主国。ルミナス大陸を統べる聖光信仰の中心。
宗教的な権威によりこの大陸に君臨しているが、軍事的な力は他の王国に依存する国家。
各国の王は、この国のトップである教主により任命される。それは形式的な儀式に過ぎないとも言えるのだけど。
母は、生前あの国のことを避けているように見えた。
エル=カノンでのセレモニーには、他国では国王夫妻が出席しているものの、父は決して母を伴わなかった。
近年では兄を連れていくこともあるようだが、母がエル=カノンを避ける理由を、両親のいずれからも聞かされたことはない。
母については、エル=カノンの中位聖家の出身だという話だ。
かの国の階級制度については詳しくはないが、我が国で言えば貴族のようなものなのだろう。
しかし――母の一族のほとんどが、魔族たちに殺されてしまったそうだ。
母は一族の唯一の生き残りと言っていいらしい。
――お母様がエル=カノンを避けていたのは、そのことと関係している……?
セレナは無意識のうちに、胸元のペンダントに指を伸ばしていた。
薄い布越しに伝わる、冷たい感触。
母の形見。
セレナ自身も母の影響なのか、特に理由もなくエル=カノンを避ける気持ちがあった。
だから父にエル=カノン行きを告げられた時に、反射的にそれを拒否したいという感情が芽生えていた。
――お父様のあの態度は、むしろわたくしのせいだったのかもしれない……
そんなことを考えながら、ひっそりとした廊下を歩いていく。
ふと顔を上げると、回廊の壁に掛けられた一枚の大きな絵が目に入った。
甲冑の人間たちと、異形の影がぶつかり合う戦場。
天から降り注ぐ光の中で、剣と魔法が交錯している。
数百年前の光魔大戦の一場面だ。
この戦争で魔族は北方へと封じられ、人の国々は平和を取り戻したと教えられている。
だが完全に滅びたわけではなく、国境付近では今も小競り合いが絶えないという。
城の回廊には、同じ戦争を描いた絵がいくつも並んでいる。
どれも決まって、人間は勇ましく、魔族は恐ろしい化け物のように描かれていた。
しかし、魔族に出会うのは国境付近だけではない。
彼らは人間社会に紛れ込み、そこで暗躍しているとも聞く。
近年その動きはとみに活発化しているらしい。
――人の姿で?それでは人間と魔族の区別がつかないのでは……
そこで玉座の間を後にする前に交わした会話を思い出す――
「セレナ殿下のご成婚により、我が国ヴァルシアとグランツェルとの結びつきは強固なものとなります。
これをきっかけに、グランツェルの強大な軍事力にとって、ヴァルシアの他国の追随を許さぬほど卓越した政治力、経済力が最強の後ろ盾となるわけです」
「(『他国の追随を許さぬほど卓越した――』って、自画自賛し過ぎでは……それはそれとして――)大魔道殿は、それのどこに問題があると?」
「魔族はそれを脅威に感じておるのです。本格的に北方討伐が始まるのではないか、と。
ですから、魔族側に此度のご結婚を阻止しようという動きがあります」
セレナは思案げに顎へ手を添える。
「具体的にそれはどんな動きですの?」
オルフェスは「今ので察してくだされよ」と言わんばかりに少し肩をすくめたが、セレナはセレナで答えが分かっていてあえて訊いているフシがある。
「殿下のお命が狙われる可能性があります」
老魔法使いは、自身の纏う法衣の胸に左手を添え、セレナをまっすぐ見つめる。
「城内におられる限りは安全ですが、エル=カノンへの道中、魔族共が襲ってくる可能性があるということです」
それを聞いてもセレナは全く動じる様子を見せなかったが、玉座の父王が取り繕うようにオルフェスの言葉を継ぐ。
「ああ、当然お前の安全対策は考えてある。
セレナが花嫁修業に行くことについては、必要最低限の人間の間でしか共有しない」
セレナは訝しげに眉をひそめる。
「わたくしはエル=カノンへ向かうのですから、城に不在となるわけですよね?そんなのってすぐにバレませんか?」
「だから表向きは、病にかかって近隣の別荘で静養しているという形をとるのだ。
伝染病なので面会もできない、ということにする。
さらにはそこを手厚く警護するので、魔族もおいおい近づけないし、別荘は一種の“おとり”としても機能するわけだ」
王の補足をするように、オルフェスが言葉を挟む。
「念には念を入れて、別荘にはセレナ殿下の“影武者”を置きます」
「“影武者”?わたくしに似た人間をですの?」
「はい、今候補者をあたっております」
「そんな、わたくしと同等の美……容貌を持った者などいるのかしら」
「ええ、すぐに見つかると思います」
「……」
なぜか鋭い視線のセレナと、「当然のことを申し上げたまで」といった感じのオルフェスが、視線を交わしたまま黙っている。
一瞬の気まずい空気を払拭しようとしたのか、二人を取りなすように王が口を開く。
「そういうわけで、魔族の目をくらますために、セレナには秘密裏にエル=カノンへ向かってもらいたいのだ」
「そこまでして……」
「セレナ殿下の同行者については、目立たぬよう少ない人数とはなりますが、国内有数の手練れを選抜するつもりです」
「オルフェスの人を見る目は確かだからな。確実にお前のことを守ってくれるだろう。
まさに“姫様パーティー”だな。ハッハッハ……」
玉座での父の不自然とも思える乾いた笑いを思い出す。
――いずれにしても自分に選択の余地はないのだから……
そんな諦めにも似た感情を抱きつつ、廊下の曲がり角を抜けた、その時――
「……まあ」
前方から聞こえた声に、セレナは足を止めた。
廊下の先に立っていたのは、王子妃ロザリンドだった。
深色のドレスに身を包み、数人の侍女を従えている。
ロザリンドは一瞬だけセレナを見て、すぐに微笑みを作った。
「セレナ様は、玉座の間にいらっしゃったのかしら?」
その声色は柔らかいが、どこか探るような響きが混じっている。
「ええ」
“花嫁修業”の件は、まだ口止めされている。
セレナは適当にやり過ごして、早々にこの場を立ち去ろうと思ったが、この時ふと思いついたことがあった。
「あ、お義姉様、エル=カノンの様子はいかがでした?」
先ほど玉座の間で、オルフェスはたしかにエル=カノンでロザリンドが“花嫁修業”を行ったと語っていた。
それが果たして本当なのかセレナはここで確認したくなったのだ。
仮にそれがオルフェスの嘘だったとしても、今さらどうするわけでもないのだが……
「???」
セレナはここですぐに、ロザリンドから何らかの答えが返ってくると思っていた。
しかし、義姉は困惑したような表情のまま固まっている。
(どうして、お義姉様は何も言わないの……?)
ロザリンドの今の状況をここで解説する。
貴族の間では、格式ばった場で、総本山をエル=カノンとする宗教――光導聖教に絡めた言い回しをすることがままある。
例えば、「フィリオ=ルクス(浄化神)からの祓いの儀を受けに参ります(トイレに行ってきます)」や「セレニア(調和神)の恩寵を賜りたく(よろしくお願いします)」といったものだ。
ロザリンドは、元々豪商の娘であるため、こういった言い回しは不得手である。
今、ロザリンドの中で、思考がぐるぐると巡っている。
(私は今試されている!私が商人の娘だからってバカにしてるのね!本当に意地悪な子だわ!)
(「エル=カノンの様子はいかがでした?」ってどういう意味?出会ってすぐにややこしいことは訊かないはずよね。天気かしら?「今日は天気がいいですね」とかね、きっと)
自分はこの国の王妃となる可能性のある人間なのだ、という強い信念をロザリンドは心に持っていた。
義妹といえど、そのプライドから「それってどういう意味?」などとは訊けない。
ロザリンドはやがてニッコリと微笑むと、答えた。
「ええ、本当に」
そして半ば逃げるようにして、侍女たちを引き連れてその場を去っていった。
その場に取り残されたセレナは、ただ唖然としてその場に立ち尽くしていた。




