2-7. 双王の残影
馬車は、黙って森を走っていた。
車輪が落ち葉を踏み、枝を弾き、朝の冷たい空気を切り裂いていく。
黒樹の森は、昼になっても暗い。
光は届いているはずなのに、どこか色が抜け落ちて見える。
馬車の中では、誰も喋らなかった。
レオンは座席に背を預け、目を閉じたまま動かない。
ナギはその向かいに座り、割れた窓からただ外を見ている。
しかし、その目には何も映すことなく、ただ顔を外に向けているだけのようにも見える。
オルフェスは、背中を丸め、一晩で一気に老け込んだ印象だ。
ただ、今の姿が、本来の「年相応」といえるのかもしれない。
その中で――
セレナだけが、背筋を伸ばしていた。
窓の外をふいに指差す。
「あ、鳥が飛んでますわ」
誰もそれに反応はしなかった。
馬車の中には、ただ疲弊が沈殿しているようだ。
森を走りながら、昨夜のことが、断片的に思い返される。
獄狼との、数時間に渡る過酷な死闘を終え――
ようやく皆が動けるようになってから、獄狼の骸を遠ざけて、最低限の処理をおこなった。
オルフェスの簡易的な浄化魔法で、体中の血や泥を洗い流した。
しかし、それで完全に洗浄されるとはいかず、においも若干残り、当然疲労も回復しない。
なお、オルフェスの魔力は、その時点でほぼ枯渇していたので、魔法発動のために回復が必要だった。
老人が魔力回復薬をがぶ飲みする姿は、セレナにとって、見ていて痛々しいものがあった。
昨晩襲ってきた獄狼は、たしかに全て倒した。
しかし、他にもまだ潜んでいる可能性がある、とオルフェスは語った。
できる限り早く、この森を抜け出すべき――
その考えに、満身創痍で疲労困憊の状態にあった皆が、誰も反論はしなかった。
誰もが、この場を速やかに離れたいと願った。
怪我を負い、馬車の下で長らく意識を失っていた御者は、早めの治癒魔法の甲斐もあってか、何とか動けるレベルまで回復していた。
そして、馬に水を飲ませ、馬車を整え、勝利の感慨も何もないまま、一行はそそくさと野営地を出た。
……それらすべてが、もう何日も前のことのように感じられる。
薄暗い森の中を、馬車はひた走る。
母がかつてこの森で暮らしていたということを、セレナは昨晩、初めて知った。
いつか、母の足跡をたどって、この森を再び訪ねたいという想いも、心のどこかに生じていた。
勿論、獄狼出現の心配のない前提だが。
窓から臨む暗く沈んだ景色は、この数刻、変わり映えのしないものだった。
しかし突如――森の気配が変わる。
枝が低くならず、足元の影が薄くなり、風が、真っ直ぐに吹き抜ける。
馬車の窓ガラスが割れているため、それは直接的に感じられた。
「……出ますな」
オルフェスが、ぽつりと言った。
次の瞬間、視界が開けた。
空は青く、日が少し傾いていた。
黒樹の森は、唐突に終わる。
振り返れば、そこにはただ、暗い樹々の壁が立っているだけだった。
西に向かって馬車は走る。
遠く北に、淡く白む砂色の地平が見えた。
空気が乾く。
風が軽い。
森を出て、ようやく調子を取り戻してきたのか、レオンが気楽な感じで言う。
「あれが亡王砂漠っすか?」
誰もそれに答えないので、レオンは皆の顔をキョロキョロと見回す。
セレナは「わたくしに訊かれましても……」という顔をしている。
ナギは何も聞かなかったかのように、相変わらず窓の外を見ている。
見かねたのか、オルフェスが短く答えた。
「ああ、その南端だ」
目的地のエル=カノンは、その砂漠をまっすぐ北に行った先にある。
だが、どうしてもそこは迂回しなければならない。
黒樹の森の獄狼を倒した一行といえど、“砂喰らい”だけは回避しなければならないのだ。
このまま馬車を走らせれば、数時間の後に国境を越え、マリネス北西部の小さな町ザルハに着くそうだ。
途上、ときおり馬車とすれ違うことがあった。
彼らは無論、森へ向かうわけではない。
黒樹の森の手前で折れて、南へと進むようだ。
当然、森の中とは違って、ここには人影もあった。
砂混じりの土を歩く商人、水袋を担ぐ旅人。
セレナは、人の姿を見て、ようやく安堵を感じていることに気づく。
森を出ても、緊張感がまだうっすら続いていたことに、自分ごとながら少し驚いた。
やがて、前方にいくつもの岩の柱のようなものが見えた。
それは近づくにつれ、人工のものだと分かる。
半ば砂に埋もれた石柱。
崩れ落ちたアーチ。
割れた円形の広場。
遺跡のようだ。
その遺跡の中央を、細い水流が横切っている。
砂の中を縫うように、透明な水が静かに流れているのが見える。
「ここで、いったん休むとしましょうか。
日が落ちる前には、ザルハに着けるでしょうから」
そう言ってオルフェスは振り向き、御者席に通じる小窓から停車を促す。
セレナは、馬車を降りると、辺りを見渡した。
「ここは――」
「カダリス双王国の遺跡ですな」
オルフェスが淡々とした口調で答えた。
カダリス双王国――
数百年前、魔導科学文明により、その栄華を誇った王国。
人間と魔族、双方の王が並び立ち、人魔共存の理想を実現した夢の国家。
しかし、冥紋王が発動した終焉魔法により、一夜で滅びたと教えられている。
その跡地は砂漠化し、“砂喰らい”が跋扈する、誰も居住できない場所となった。
この遺跡は、王国の南端にあった都市の名残であるそうだ。
現在唯一、人が足を踏み入れられる場所だと聞いた。
レオンが早速、遺跡を流れる澄んだ水に、ズボンの裾をめくって入る。
水を手ですくっては、顔を洗っている。
一方ナギは、馬の面倒を見る御者に声をかけていた。
自分の緊急の治癒魔法処置が、適切だったのか気になっているようだ。
セレナは、遺跡をよく見てみようと、石橋の名残の下をくぐってみることにした。
崩れた階段の脇を慎重にすり抜ける。
先には城壁と思われる壁があったが、それはセレナには馴染みのない造形だった。
石と金属が組み合わさった構造物。
そこには、細い溝が幾何学的に走っていた。
セレナがそれを無意識に指でなぞっていると、後ろから声がかかる。
「その溝を、かつては光が通っていたようですな」
オルフェスだった。
「今は失われてしまった技術です。
カダリスでは、夜の街は昼のように明るく、馬に頼らずに動く車が走っていたそうです」
セレナは振り返る。
「それを、今の時代で蘇らせることはできませんの?」
技術とは、過去から未来へ受け継がれ、進歩することはあっても、後退することはないはず。
セレナの中に、ぼんやりとだが、そんな信念があった。
彼女の問いに、オルフェスは静かに首を振る。
「……これまで、何人もの学者が挑みましたが、いずれも、うまくいきませんでしたな……。
かくいう私もその一人でしたが」
「大魔導殿ほどのお方でも、無理なのですか……」
オルフェスは自嘲気味に笑ってみせる。
「殿下は、この年寄りを持ち上げすぎですな――」
そう言って軽く咳ばらいをする。
「カダリスの魔導科学というのは、魔族の協力なしでは実現が難しいのです。
詳しい説明は避けますが、魔族の異界から大量に魔力を引き出す技術と、人間の空間干渉技術、これを組み合わせないと無理なのです」
そしてオルフェスは、控えめにため息をつく。
「今や、人間と魔族は完全に決裂していますからな……」
それを聞いて、セレナは少し考えこむ素振りを見せる。
「ところで――次に向かうマリネスには、魔族がいると聞きました」
「ええ、マリネスは商業国ですから――
諸外国との取引が盛んであるという性質上、他国から得体の知れない者を引き寄せてしまいます。
そんな連中の中に、魔族共がいる可能性があるということです」
オルフェスは、いつの間にか教師のような口調で語っていた。
「勿論、カダリスのように、人間と魔族が仲良く暮らしているというわけではありません。
奴らは人間の姿を取ることもあります」
「マリネスでは十分ご注意を」と言い残して、オルフェスはその場を後にした。
“休憩”と言いつつも、学者としての血が騒ぐのか、遺跡の水路を確認しているようだ。
セレナは改めて、辺りを見渡す。
先に崩落した塔が見える。
その内部から、金属の骨組みが露出している。
中に、銀色の管が走っている。
管は途中で断ち切られ、内部の青白い結晶が風に晒されている。
それらは、何かの機械のようにも思えるが、その用途や目的は分からない。
人間と魔族が共存する、高度な文明を持った都市……
子供のころから、魔族の脅威については、散々教え込まれてきた。
冷酷にして残忍、血と暴力を好む、闇の世界より災厄をもたらす呪われし存在……
彼らの見た目は、いかにも魔物然とした異形のものから、人間とまるで区別がつかないものまでが存在するらしい。
そんな者たちと手を取り、さらには先進的な文明を築く。
それがどんな世界だったのかは、セレナにはなかなか想像がつかなかった。
セレナは足元に気を付けながら、歩を進める。
少し開けた場所にたどり着く。
そこは、中央広場といったところだろうか。
半壊した円形の基壇が見える。
基壇の縁には、二重の円環と交差する線。
石に刻まれた紋様。
風が止んだように感じた。
(どこかで、見たことが……)
二重の円の内に、三つの曲線と細い螺旋がある。
中央だけが、不自然なほど滑らかに空いている。
彼女は、はたと気づく。
胸元からペンダントを取り出して確認する。
(これって……)
ペンダントには、基壇と同じ意匠が刻まれていた。
「――殿下、そろそろ出発しますので、ご準備を」
後ろから、ナギが声をかけてきた。
セレナは慌てたように、胸にペンダントをしまう。
「わ、分かりましたわ」
別に隠し立てすることでもないのだが、セレナは咄嗟にそんな行動に出てしまった。
ナギが少し不思議そうな顔で、セレナを見ていた。
一行は遺跡を出発し、それからしばらく経った。
砂の気配が薄れ、地面が少しだけ固くなる。
道の両脇に、背の低い草が戻ってくる。
小さな石柱が立っているのが見えた。
両面に紋が刻まれている。
片側にはヴァルシアの紋章。
反対側には、簡素な帆船と秤の印。
道はそのまま続いている。
石畳はいつの間にか途切れ、砂混じりの硬い土へと変わる。
轍の跡が増える。
振り返れば、遺跡群は、遥か遠くで夕闇へと呑み込まれようとしている。
前方には、少し先で煙が上がっていた。
あれがザルハの街だろう。
ここから先は、マリネスとなる。
だが空の色は変わらない。




