2-5. 黒樹の森、静かな夜
馬車は、黒樹の森の中を進んでいた。
車輪の音が、やけに鈍く響く。
土が柔らかいわけでもないのに、反響がなく、音が吸われていく。
季節はすでに夏を離れ、冬まではまだ間がある。
本来であれば、日中の光が差す昼頃のはずだ。
だが森の中は、光を吸い込むように薄暗い。
太い幹が幾重にも重なり、枝葉が空を覆い尽くしていた。
ただ、まばらな落ち葉や、葉の色づきで、森が静かに季節を手放し始めているのが分かる。
黒樹――
名の通り、樹皮は黒く、湿り気を帯びて鈍く光っていた。
風が吹いても葉擦れの音は小さく、森全体が息を潜めているように感じられる。
セレナは、外套の前をきゅっと握りしめた。
寒さではない。
胸の奥に、沈み込むような落ち着かなさがある。
――森に入る前、
一行は、入り口にひっそりと建てられた慰霊碑に、短い黙祷を捧げていた。
レオンは、霊の無念を鎮めたい一心だったのだろう。
だが、かつての獄狼討伐の指揮官でもあったオルフェスには、色々と思うところがあるようだった。
苔むした石碑には、もはや判読しづらくなっているものの、多くの名前が彫られていた。
(この森で、沢山の人が亡くなった……)
走る馬車の中、セレナは再び静かに目を閉じた。
一行を乗せた馬車は、森の奥へ、奥へと進んでいく。
数時間は走り続けたが、この道で、誰ともすれ違うことはなかった。
セレナが、そのことを口にすると、オルフェスは淡々と答えた。
「獄狼が殲滅されてから久しいですが――
商人たちは、やはりこの道を避けているようですな」
レオンが、じっとしていられない様子で、窓から外を見渡す。
「できれば、こんな道、通りたくないっすよ……」
森が孕む不穏な空気を感じ取って、しばらくの間レオンは、妙に落ち着かなかった。
しかしそのうち、そんな振る舞いに疲れたのか、それともこの森に慣れたのか、途中から居眠りを始めていた。
やがて日が傾いた頃、一行は森の中でも比較的開けた一角にたどり着く。
今夜はそこで、野営をするらしい。
その場は、多くの足跡に踏み固められていた。
新しい跡ではない。
焚き火を起こした痕がある。
石を円く並べた形が崩れたまま残り、灰はすでに土に混じっていた。
折れた枝、刃物で削られたような薪の名残、打ち捨てられたまま朽ちかけた木片。
どれもが、かつて、ここで夜を過ごした者が、存在したという事実を示していた。
「何度か、ここには来たことがありましてな」
オルフェスはそう言って、落ちていた木切れを拾い、それが木製の匙であることを確認してから、焚き火の跡へと投げ捨てた。
野営地の周囲は、黒樹の幹が闇に溶け、どこまでが森で、どこからが夜か分からなくなりつつあった。
早速、火が起こされ、その場に天幕が二つ張られる。
一方は、セレナとナギが、もう一方には、オルフェスとレオンが休むそうだ。
御者は、馬車のそばで毛布にくるまって過ごすらしい。
皆で火を囲み、そこに簡素な食事が用意される。
乾いたパンと温かい汁物。
乾燥肉と根菜を煮込んだ汁だそうだ。
セレナは恐る恐る口にしたが、「思ったより悪くない」と感じた。
そのあたたかみに、少しほっとする感情もあった。
火床を木の枝で整えながら、オルフェスが静かに言葉を落とす。
「――殿下、今夜は申し訳ありませぬ」
「はい?何がですの?」
木製の匙と椀を手に、セレナはオルフェスに顔を向けた。
「こんなところに泊まることになってしまいまして。
明日は、ザルハの宿をとりますので」
パンを頬張りながら、レオンが言った。
「たしかに、ベッドじゃないと、寝心地悪いな」
「おぬしには言っておらぬ」
オルフェスのぼやきが全く耳に入っていない様子のレオンは、続いて隣の御者に話しかける。
「なあ、あんたもそう思――」
御者の男は、そこで立ち上がり、軽く会釈をしては、すぐさま馬車のほうへと去って行った。
早々に食事を終えたようだ。
オルフェスは、御者の背中を見送る。
「なんだよ、愛想悪いな」
ナギが、顔も向けずに、口にする。
「彼に、むやみに話しかけるな」
「何でだよ」
「そういう契約だ」
「契約?」
分からず屋を相手にするのが面倒かのように、ナギは軽くため息をつく。
「必要最低限のやり取りしかしない。
旅で見聞きしたことは、決して他言しない等々。
そういう契約だ」
そう言って、ナギは目線だけを向けた。
「それから、私にも理由なく話しかけるな」
「何だ、それも契約なのか?」
「いや、なんかムカつくからだ」
カチンときたレオンが、何か言い返そうとしたその時――
遠くから、何か伸びるような細い響きが幽かに聞こえた。
それきり、森は何事もなかったかのように静まり返った。
「え、今の音、何なのですか?」
セレナが身をすくませて、辺りを見回すも、オルフェスの反応は鈍い。
「おや?何か、聞こえましたかな?」
レオンが怯えた様子で声を上げた。
「じい……オルフェス殿は、耳が遠くなってるんじゃ……
今の、絶対、幽霊の声っすよ!」
ナギが冷静に口にする。
「たしかに何か聞こえましたね。
風の音でしょうか」
なぜか、馬が興奮気味に身を揺らしているのを、御者がなだめているのが見えた。
しばらくは、皆が聞き耳を立てるようなしぐさを続けていたが、その後は、妙な音が聞こえることもなく、一行は食事を終えた。
食後、セレナは、天幕へと向かった。
セレナ以外の三人は、交代で見張りをすることになっていた。
まずは、ナギの番ということで、彼女が焚き火のそばに残ったため、セレナは一人で天幕へ入った。
天幕は、完全に閉じることをしなかった。
寝ながらも、焚き火や見張りの影を臨むことができる。
セレナは、こんな場所で本当に眠ることができるのだろうか、と疑っていた。
しかし、毛布にくるまり、少し離れた焚き火の火の揺らぎを見つめているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
――深夜
セレナはふと目を覚ました。
隣にはナギが眠っている。
焚き火のそばにはオルフェスの影が見えた。
セレナが眠っているうちに、見張りを交代したのだろう。
そのまま、セレナが体を起こすと――
「どうされました?」
隣のナギが声をかけてきた。
彼女は、目を閉じているだけだったらしい。
一晩中、そうして過ごすのだろうか。
「あ、ちょっと目が覚めてしまったので、焚き火にでもあたろうかと……」
ナギが頷くのを見て、焚き火のほうへと向かう。
「――眠れませんかな?」
オルフェスの問いかけに、ナギに対するものと同じような答えを返しつつ、セレナは老人の隣に腰を掛けた。
そうして、少しの間、黙って炎を見つめていた。
セレナが、おもむろに口を開く。
「――ここには、何度も野営したことがあるのですか?」
「ええ……。
さすがに回数は覚えておりませんな。
あの時、こうして一緒に火を囲んだ仲間たちを、何人も亡くしました……」
薪がぱちりと弾ける。
セレナは、炎の揺らぎを見つめながら、外套の裾をぎゅっと握った。
「――大魔導殿に、伺いたかったことがあります」
「おや、何でしょう?」
「母のことです」
オルフェスの表情に、わずかに影が差す。
「……王妃殿下のことですか……」
「ええ、父はあまり話してくれないものですから。
例えば、両親が出会った頃の話とか――」
オルフェスは、眉間に皺を寄せたまま、しばらく黙っていた。
だが、やがて意を決したように、その口を開いた。
「……分かりました。お話しましょう。
殿下も、知っておくべきことでしょうから」
セレナは黙って聞いている。
オルフェスは軽く咳ばらいをした。
「先代の国王が身罷れる前、現在の陛下が王子時代だった頃の話です。
陛下は、魔族に捕らわれ、奴隷にされようとした人々を救ったことがあります」
それは、魔族の集団が、マリネスからヴァルシアへ侵入した事件であり、まさに、主人を失った獄狼が、野生化したきっかけとなった出来事である。
しかし、その時魔族に捕らわれた人々がいたということは、セレナはそこで初めて耳にした。
「私も、当時この王国に仕えるようになったばかりでしたが、その魔族討伐に協力しました。
それから後に、奴らの“飼い犬”も討伐することになるわけですが……」
オルフェスは、膝に置いた杖をぐっと握りしめた。
「魔族の手から解放された者たちは、元の居場所へ戻されました。
ですが……一人だけ、帰る場所を失った女がいました」
一族が皆殺しにされ、戻るべき家がなかったのだ。
「彼女の一族は、この森にひっそりと隠れ住んでいたようです。
その名を、ノエラといいました」
焚き火の火が、わずかに揺れる。
(ノエラ――わたくしの母の名前……)
セレナは、外套の上から、胸元のペンダントをそっと握った。
「彼女は美しく、気丈で、大変頭の良い女性でした。
陛下は彼女を見初めて、妻として迎えたいと願いました」
オルフェスは、そこで一息つく。
「……ですが、身分の分からぬ女をこの国の王子が娶ること、それは――
王侯貴族の強い反発を招く可能性があったのです」
そこで、偽装が施された。
「彼女は、教主国エル=カノンの、中位聖家の出身。
そういうことに、なったのです。
身分としては、申し分ありません」
オルフェスは、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「この事実は、国王陛下と、私を含めた側近の一部、そして――
エル=カノンの教主しか知らぬことです」
意外な名前に、セレナはつい口を開く。
「……教主様もご存じなのですか?」
「ええ。
王妃殿下をエル=カノンの名家出身とするためには、あちらとも口裏を合わせておく必要がありました。
彼女――教主は、私の魔法学校時代の教え子なのです。
その縁で、私が教主に頼み込んだというわけです」
これまでのオルフェスの言葉を噛みしめるように、セレナは黙った。
セレナにとっては、これまで知らなかった事実が今明らかにされた。
しかし、そのこと自体は、衝撃的ではあったものの、彼女が母に抱いていた印象は何も変わらなかった。
むしろ、母の性格やその立居振る舞いが、今の説明によって、より「しっくりきた」という思いが生じていた。
森が、低く鳴った気がした。
「その教主様に、わたくしは“花嫁修業”のために呼ばれているのですよね」
「ええ、そうです……」
オルフェスには、セレナに伝えていない事実があった。
それは、エル=カノン訪問の目的が、“花嫁修業”でなく“封印解除”であること。
そして、それをセレナに伝えることを、エル=カノン教主から、固く口止めされていることだ。
教主からは、直接セレナに伝えるため、それまでは黙っていてほしい、と頼まれていた。
何か宗教的な意味があるらしいが、オルフェスはその理由を詳しく聞けていない。
その禁を破れば、“封印解除”の効果が無効化される可能性があるとも言われた。
教主に対しては、かつての“身分偽装”で協力してもらった義理もあり、オルフェスはそれを呑むしかなかった。
(何より今は、できる限り早く無事に、殿下をエル=カノンへ送り届けなければ……)
焚き火が、小さく音を立てて沈んだ。
森は、深く、暗い。
そして静かだった。
――まるで、何かを待っているかのように。




