1-1. 王女は教主国へ行くことになった
ヴァルシアの王女セレナは、父王の前に立っていた。
玉座の間とは名ばかりで、今は近臣も衛兵も下がらせている。
広い部屋にいるのは、王と王女、それから老魔法使いオルフェスだけだった。
「……つまり、ですわ」
セレナは、蜂蜜色の長い髪を手で軽く払うとそのまま腕を組み、はっきりとした声で言った。
「わたくしは教主国エル=カノンへ赴き、花嫁修業をして来い、と。そういうご命令でよろしいのですね、お父様」
彼女の灰がかった青い瞳が玉座の王をまっすぐに見据えている。
その顔立ちは、高貴さを漂わせる美しさを備えているが、その中にどこか十代半ばの幼さを残してもいた。
セレナに気圧されるように、王はわずかに肩を強張らせる。
「うむ。そうだ。王女として、必要な……慣習だ」
「慣習、ですか。お母様からもそんな話は伺っておりませんでした」
「まあ――」
王は思い出すように上へ目を向ける。
「当時のお前にはまだ早いと思っていたのだろうな」
セレナの母親である王妃は、三年前に病気によって亡くなっている。
それ以降、王は後妻を娶ることもなく、妻を失った悲しみを振り払うかのように王政に専心していた。
セレナは依然納得がいかない様子で首をかしげる。
「わたくし、ここしばらく婚姻に必要な様々なこと――嫁ぎ先の歴史や姻戚関係、将来的に王妃としてどう振る舞うべきか等々――について教えを受けておりますが、そこでもそういった話は耳にしたことがありません」
「ああ、それについては……」
語尾が弱くなっていき、助けを求めるように、王の横に半歩下がって立つオルフェスへと目をやる。
老人は軽く咳ばらいをすると、静かに一歩進み出た。
「王妃様はそもそもエル=カノンのご出身でしたし、ご体調の面も考慮されて免除されておりましたが、この国の王家の女性におかれましては、婚姻の儀の前に教主国にて王族の妻女にふさわしい教育を受ける習いであります」
「では、お義姉様も?」
彼女には二人の兄王子と一人の弟王子がいる。
セレナが義姉と呼ぶのは、兄弟の中で唯一結婚している長男の妻ロザリンドのことだ。
「勿論、お輿入れの前に」
「聞いたことがないのですけど」
父王がわすかに体を乗り出し、二人の会話へ割って入る。
「お前はロザリンドとはよく話す仲だったか?」
セレナは若干ばつの悪い表情を浮かべた。
「いえ、それは……」
見栄っ張りな性格のロザリンドと、ストレートな物言いをするセレナとでは正直折り合いが悪かった。
第一王子と成り上がりの豪商の娘ロザリンドとの婚姻については、王族の中で身分の違いによる反対意見もあったが、遠い祖先に他国の貴族との関連を見つけ出し、王の一存で半ば強引に結婚を実現させたという経緯があった。
豪商と縁故を結ぶことは、何より王家の財政にとって意義のあることだったからだ。
セレナとロザリンドの中の悪さについては、王にとっても少しばかり悩みの種だったが、今回に限ってはセレナの追求を免れたことに安堵したのか、玉座で微笑みを浮かべている。
セレナは静かにため息をついてみせた。
「グランツェルとの婚姻の前に、必要な“儀式”、ということですね」
「必ずしも形式的なものだけではございません。教主国は王妃教育の中心でもあります。礼法、宗教儀礼、外交作法……殿下にとって学ぶべきことは多うございます」
セレナを諭すようなオルフェスの口調に、王は満足げに頷いてみせた。
王室大魔導の地位にあるオルフェスは、王の相談役であり、側近中の側近であるといえる。
老魔術師の言葉には、それ相応の重みと説得力があった。
セレナは小さく鼻を鳴らす。
「分かりました。王命とあらば従います。王女としての責務は理解しておりますので」
ほっとしたように王は息を吐いた。
「そうか……すまない、いや……ありがとう、セレナ」
(――?)
セレナは、先ほどから父王の態度に少し不審なものを感じ取っている。
そもそもグランツェルとの婚姻話についても、父親が先方と勝手に進めたことなのである。
確定事項を事後に伝えられるばかりで、その過程でセレナに気持ちを確認をすることなど一度もなかったし、感謝を述べられることもなかった。
(誰が好き好んでグランツェルの脳筋王子なんかと――)
グランツェル王国は、ここヴァルシア王国の北東に位置する。
王侯貴族のほぼ全てが武人階級で構成された、このルミナス大陸で最大の軍事力を誇る国家だ。
セレナとの婚約相手はグランツェルの第一王子であり、王位を継承することが既に決まっている。
これまで大きな戦争に至ったことはないが、昔から対立していたこの二国が手を結ぶことは、政治的にも経済的にも軍事的な側面でも大きな意味があった。
(わたくしはこの国のためを思って――)
王女たるもの王国のために全身全霊をもって尽くすべきで、自分の個人的心情など二の次三の次であるとセレナは考えていた。
だからこそ、婚姻に向けた段取りに、文句も言わず従っていたのである。
「武力と筋肉こそ男の価値」と信じきっているような単細胞王子との婚姻に。
しかし、今の状況は何か違う。
セレナの中で、もやもやとした感情が沸き上がってくるのを感じる。
(お父様は何かを隠してる……?)
セレナはつい、肌身離さず身に着けている母の形見のペンダントを握ってしまう。
不安を感じた時、彼女にはそうやって心を落ち着けようとする癖があった。
そうして、改めてセレナは、彼女の抱いた違和感を口にしようとする。
(――!)
父王に向けた問い質す言葉を、彼女はすんでのところで呑み込んだ。
普段であれば、率直過ぎるとまで言われるその口舌に、急激に歯止めがかかったのだ。
何か事情があるに違いないのだが、「それを尋ねてはならない」と心の奥から命じられているような気がする。
こんな感情は以前も生じたような気がするが、セレナにはうまく思い出せない。
さらに言えば、ここは玉座の間であり、国家の重鎮ともいえる王室大魔導のオルフェスも同席している状況だ。
ここで発せられる国王の言葉は重く、当然国策的な意図を背景に持つはずであって、軽はずみな考えでそこに意見できるようなものではないだろう。
父娘の気安い会話で済むのであれば、談話室あたりでも使用すればよかったのだから。
(まあ、何かのついでにここに呼ばれた感じではあったけど……)
「どうかしたか?」
父王が少し心配そうにセレナの顔を窺う。
「いえ――」
セレナは気を取り直すように居住まいを正す。
「何でもありませんわ。それで――出立はいつでしょうか?」




